中村一氏の解説 秀吉に信任され対徳川家康の最前線を守った譜代の臣

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中村一氏

中村一氏とは

中村一氏(なかむら-かずうじ)は、織田信長
豊臣秀吉に仕え豊臣政権の三中老の一人となった
武将です。

「生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者
だった」と言われていただけあり、戦巧者だった一氏。
羽柴秀吉の部下として、多くの戦に参加し
武功をたてました。


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本能寺の変後、天下は豊臣家のもとに統一されるように
なりますが、豊臣秀吉には悩みの種がありました。
徳川家康です。秀吉は徳川家を取り込もうと武力
(小牧長久手の合戦)を使いますがうまくいかず、
妹の旭を徳川家康に嫁がせることでやっと対面上、
徳川家を取り込むことができました。
いつ敵になるかわからないこの勢力に対し、
「誰を軍事な的抑え」として配置するかは、
政策の上でも重要でした。
小牧長久手の合戦以降、秀吉が没するまで、
この役割りを中村一氏が担うことになります。

豊臣秀吉に信任され、徳川家康の抑えとされた
中村一氏のご紹介です。

中村一氏の出自

生年は明らかになっていません。通称は孫平次、
後に従五位下式部少輔に叙任されています。

父は中村一政、弟は関ヶ原に参加した中村一栄。
子には初代米子藩主である中村一忠
細川藤孝に仕えた中村甚左衛門がおり、娘は和泉の
沼間興清の妻となります。正妻として池田恒興の娘、
池田せん(安養院)を迎えています。


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出自についてもはっきりしていませんが、
近江国甲賀郡の甲賀五十三家の一つ・瀧(多喜)氏
だったのではないかと言われています。

中村一氏は、近江甲賀出身の「瀧孫平次」として、
勢力が急拡大する中にあった尾張の織田信長(木下
藤吉郎の与力)に仕え、山内一豊、堀尾茂助らと
親交を深めます。

桶狭間の合戦、美濃攻略戦、上洛戦、浅井氏・朝倉氏
の討滅を経て、1573年に木下秀吉は、浅井氏の旧領
近江長浜に城をもらい大名となります。
木下秀吉は、農民から出世をしたので、他の織田家
の同僚と違い家臣がおりません。そこで、自身の生
まれた尾張中村から親戚や信頼できるものを連れて
きて家臣としていました。その中に中村一政(一氏
の父とされる人物)がおりました。瀧孫平次はこの
中村一政の養子となることで、「中村一氏」に
なったのではないか、と言われています。

またこの他にも、大納言である伴善男の
子孫:伴家継が近江甲賀多喜に居住し多喜を名乗り、
この子孫が中村を名乗った。という話もありますが、
いずれにしても出自に関しても明らかになっては
いません。

秀吉の麾下として武功あげる

永禄年間(1558年~1570年)の織田家の拡大期に仕官し
木下藤吉郎秀吉の与力になったと考えられています。
天正元年(1573年)、木下秀吉が近江長浜で大名となり
ます。秀吉の麾下として戦働きで頭角をあらわしていた
中村一氏は、同時期に近江長浜で200石を拝領します。


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この頃の織田家は、浅井長政朝倉義景を滅ぼし、
近江越前を安定させています。そして次の標的は、
大坂の石山本願寺(一向宗)とそれに呼応した紀州の
雑賀、根来らの宗教勢力です。
中村一氏も秀吉とともに大阪の石山本願寺との交戦
に参加。同時に秀吉が司令官となっていた中国攻め
にも参加します。

天正5年(1577年)、中村孫平次一氏は泉南、紀州の
宗教諸勢力への抑えとして、最前線の砦・岸和田城城代
となります。ここを拠点として、雑賀・根来の僧兵と
一進一退の攻防を繰り広げます。

一方で天正6年(1578年)、進行中の中国攻めにおいて
播州の三木攻め、天正8年(1580年)の鳥取城攻めに
参加しています。中村一氏が中国方面へ出兵して
いる時は、父:一政が岸和田城を守っていたであろうと
考えられています。

天正10年(1582年)、中国攻めの総仕上げ・備中高松
城攻めが終わろうかという時に織田信長が本能寺
明智光秀に討たれます。羽柴秀吉は、急ぎ毛利と講和。
山陽道を駆け戻り、京都の西からの入り口である
山崎で明智光秀の軍勢と激突します(山崎の合戦)。

山崎は東側が宇治川と桂川の合流地点、西側は
山(天王山)が突き出ており、袋の口のような狭い
地形となっています。天王山を占拠し、そこから射撃を
すれば平地での戦が有利になります。
そのため、本軍の衝突が始まる前の前哨戦として、
天王山を奪取する攻防がありました。中村一氏は
鉄砲隊の指揮官としてこの戦に参加し、天王山奪取に
堀尾吉晴とともに向かい、これを確保。羽柴軍勝利に
大いに貢献する活躍をします。

羽柴秀吉は、明智光秀を撃破した後も織田家の
宿老達相手に主導権を握るために戦を展開。
柴田勝家とは近江・越前の国境である賤ケ岳で
衝突(賤ケ岳の合戦)。
中村一氏も参加し武功を挙げます。


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和田合戦~紀州征伐

天正11年(1583年)、これまでの武功が認められ
岸和田城代から正式に和泉国・岸和田城主(3万石)に
任命されました。しかし、まだ羽柴秀吉の天下は
定まっておらず、反対勢力は躍動しています。
岸和田のある和泉国でも、雑賀・根来などの反体制の
勢力と小競り合いは続いていました。このような
状況の中、中村一氏には最前線での大阪防衛という
重要な役割りが与えられました。

(※1583年以前は、和泉を治めていた蜂屋頼隆が
岸和田城主を務めていたとも言われている)

岸和田城主となった中村一氏ですが、直属兵力は
3,000ほどでしかなく、紀州勢力と対峙するには兵力が
不足していました。在地勢力の和泉衆を与力とし、
合わせて5,000人として敵勢力に備えました。

一方、雑賀・根来の紀州勢力は、これに対応するため
畠山貞政を名目上の盟主に立て、紀南の湯河氏の支援
も受けるようになります。あわせて中村・沢・田中・
積善寺・千石堀に砦を築き岸和田城を牽制。
中村一氏の岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが
頻発するようになります。

同年10月、兵力で劣る中村一氏の勢力は正面からの戦い
を避け、夜襲などのゲリラ戦術で対抗していましたが、
翌天正12年(1584年)から衝突が激化します。

1584年1月1日、年明け早々に紀州勢が岸和田城を襲撃。
1月3日、岸和田勢が紀州勢の砦を報復攻撃。
1月16日には紀州勢に援軍が到着し、砦の兵と合わせた
8,000が岸和田を目指して進軍。
岸和田勢は近木川でこれを迎撃し退却させています。

このように、紀州勢力の活動が活発化する背景には、
織田信雄、徳川家康の動向が関係していました。
この2家と羽柴家との対立が明確になってきたため、
南の守りに割く兵が減るだろうと紀州勢力は
考えたのです。

同年3月、雑賀・根来・粉河を中心とする紀州勢は、
日高郡の玉置氏の加勢を得て陸路から和泉へ
侵攻します。同時に淡路の菅達長が、水軍を編成し
岸和田・大津へ攻め寄せますが、地侍の真鍋貞成が
菅水軍を撃退しています。

同年3月21日、織田・徳川と雌雄を決するため
羽柴秀吉は軍勢をまとめ、尾張へ出発します。
軍事的な圧力が軽減したこの時期を逃さず翌3月22日、
岸和田、堺、天王寺は総勢20,000の紀州勢力の
猛攻を受けます。


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紀州勢力は土橋平丞を大将とし、約5,000の兵力で
岸和田城に攻め込みます。同時に堺、天王寺方面も
攻撃を受け、大阪城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・
黒田長政がこれに対抗。そのため、岸和田へ援軍を
送ることもできない状況でした。劣勢の岸和田城でした
が、なんとか攻撃をしのぎ紀州勢力を撤退させました。

(※蛸地蔵伝説:岸和田城が敵に包囲され、今にも
落城寸前であった時、僧侶を乗せた大蛸の大軍がやって
きて、敵を打ち破った。という伝説があります)

この紀州勢力の侵攻は、織田信雄・徳川家康と連動
した陽動作戦であったと言われています。城を落と
す意思がどこまであったか不明ですが、結果的に
紀州勢力は岸和田城も落とさず、建設途上の大阪の
街を焼き払った後、撤退していきました。

天正13年(1585年)、織田信雄、徳川家康と講和を
結んだ羽柴秀吉は、甥の羽柴秀次を先陣に100,000の
兵力で反転攻勢にでます。岸和田に集まった諸将の
間で、攻撃の時期を「即日にするか明日にするか」
で議論が交わされる中、即時会戦を主張した
中村一氏の意見が取り上げられ、即時先端が
開かれました。

この後、紀南まで羽柴軍は攻め入りますが、
一氏は戦働き、交渉などに主導的な役割りを果たします。

対徳川家康の最前線での抑えとして(近江水口6万石)

天正13年(1585年)、織田信雄・徳川家康との
講和も進み、秀吉の天下が定まりつつある中、
大名の再配置が行われました。

中村一氏は、岸和田城主として紀州勢力から大阪を
守護したことが評価されます。近江・水口岡山城
となり6万石を拝領し、従五位下式部少輔に叙任
されました。

大名配置は、以下の2つが基本方針となります。
・大阪を中心とする重要地域(畿内)を一族、譜代
・遠方の禄高は高くする(外様)
この時、中村一氏と同じく近江に配置されたのは
羽柴秀次、浅野長政、生駒親正など、一族もしくは
譜代でも最古参と言われる武将でした。中村一氏が
羽柴家の中でも重要な位置にいたことがわかります。


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近江水口に中村一氏が配置された理由は
3つ考えられます。

第1に、秀吉の後継者候補の羽柴秀次の補佐。
(秀次の居城は近江八幡で距離が近い)

第2は、「甲賀出身者であったから」。
中村一氏の近江・水口への配置の少し前、羽柴秀吉は
家康方に通じた気配があり、自立意識の強い甲賀衆から
領地没収を行っています(甲賀破儀)。
このような統治する上で不安定な条件を抱えていた
土地であったので甲賀衆に睨みを利かせるため
同郷出身の中村一氏を配置したと言われています。

第3は、講和をしたものの仮想敵とされる徳川家康への
抑え。尾張方面から畿内に出ようとした場合、
ルートが2つあります。
1つは関ヶ原を通り彦根に出るルート。
もう1つは鈴鹿峠を経て近江に入るルートです。
この2つめのルートの鈴鹿峠を越え近江側に下った
場所が水口になります。つまり、徳川家康と決裂した
場合には最前線となる場所にあたります。

対徳川家康の最前線での抑えとして(駿河府中14石)

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は臣下の礼をとらない
北条家に向け出兵をします(小田原征伐)。
当時、子に恵まれない秀吉の後継者とされていた
豊臣秀次。この戦で手柄を立てることが諸侯に認めら
れるために重要でした。中村一氏は、かねてより秀次の
補佐を秀吉から期待されており、今回の編成で秀次隊の
先鋒を務めることになりました。
中村式部少輔一氏は期待に応え、松田康長の守る
山中城の主要部分を攻略し、山中城陥落に大きく貢献
する働きをします。

その後、北条家は降伏し、東北の伊達政宗を代表とする
諸勢力も帰順を申し出ているため、ここに天下統一が
なされます。


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さて、論功行賞と大名の配置です。
豊臣秀吉は、徳川家康を関東平野に幽閉することを
画策。東海地方から北条家の旧領である関東へ
転封します。そして、畿内への到達するための街道の
国々には、信頼できる家臣を配置します。

・駿河:中村一氏
・遠江:山内一豊
・遠江:堀尾吉晴
・三河:田中吉政
・甲府:加藤光泰

中村一氏は、徳川家の旧領の駿河国駿府城主となり
14万石を拝領します。
そしてまたもや「徳川家康が大坂へ出兵するのを阻止
する」という重責を負うことになります。
駿府城主となってから、弟の中村一栄を沼津城
配置し、領国の守備体制強化の対策を実施しています。

文禄4年(1595年)には、駿河の豊臣家直轄領(蔵入地)
の代官として駿河一国を任され、慶長3年(1598年)に
は、生駒親正・堀尾吉晴とともに、政治に参与する
三中老の一人に任命されました。
そしてこの年、中村一氏を引き立ててくれた太閤:豊臣
秀吉が病没します。

関ヶ原の戦いの直前に病没

豊臣秀吉の死後、政権の主導権を巡り
大老の徳川内大臣家康と奉行の石田治部少輔三成の
対立が顕在化してきました。
慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝
征伐する為、大阪城より東進を開始します。

この時、中村一氏は病に臥せており
死期が近づいていました。
東進し会津に至る途中に、駿府城があります。
徳川勢がここを通過する際に中村一氏、徳川家康は
会見しています。ここで中村一氏は、
・自分は病気で参戦できない
・かわりに嫡子の中村一忠(当時10才)を参戦さる
・実際の指揮は、弟の中村一栄にさせる
ことを徳川家康に約束しています。

この会見から時を経ずして中村一氏は病没します。
1600年、7月17日。
戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。

中村家のその後

慶長5年(1600年)7月、徳川勢不在の畿内で
石田三成が挙兵。
徳川家康は反転し兵を大阪に向けます。


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同年9月15日の関ヶ原の戦いには、生前の中村一氏の
約束通り嫡子の中村一忠(総指揮は弟の中村一栄)が
東軍として参加。
前哨戦の杭瀬川の戦いでは、西軍の島清興(島左近
軍と交戦。また、南宮山に布陣していた毛利勢力
毛利秀元吉川広家)の抑えとして垂井に陣を張り、
東軍に貢献しました。

戦後、中村一忠は伯耆・米子城17万5,000石を拝領し
国持大名の格式が与えられました。
さらに松平を称することを許可され、徳川秀忠の養女を
娶るなど厚遇を受けます。
しかし慶長8年11月、中村一氏の代から家老として
実権を握り、幕府にも一目置かれていた横田村詮
誅する事件が起き、幕府から警戒されるようになります
(米子騒動)。


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そんな中、慶長十四年(1609)に中村一忠が急死。
後継ぎの男子がいなかったため、米子藩中村家は
二代で断絶となりました。

(寄稿)渡辺綱

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