竹中重治(たけなかしげはる、竹中重虎、竹中半兵衛、たけなかはんべえ)
1544年9月11日、美濃・斎藤氏の家臣で美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡大野町)の大御堂城・城主・竹中重元の子として、岐阜県池田郡片山にて生まれた。
母は杉山久左衛門の娘。初名は重虎、のちに重治。
その後、父・竹中重元は岩手四郡のほか福田、長松、栗原一帯を知行し、6000石となり、菩提山城を築いた。(1558年に菩提山城を築いたとする説もあり)
弟に竹中重矩がいる。
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1556年4月、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いで、竹中家は斎藤道三に味方した為、父・竹中重元が不在の菩提山城に、西保城主・不破光次が来襲するが、父に代わり、竹中半兵衛(13歳)は弟・竹中久作とともに不破勢を撃退している。
1562年、父・竹中重元(64歳)が死去。(1560年2月7日説もあるがこの可能性は低い)
以後、竹中家の家督を19歳の竹中半兵衛が継いだ。
竹中氏は、菩提山城主となって美濃国主・斎藤義龍に仕え、1561年に斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えていた。
竹中半兵衛の外見は、明確には美男子と言う記述の無い森蘭丸と異なり、痩身且つ「その容貌、婦人の如し」と史料に残る程「女性的」だったようだ。その為か。
智謀のみに秀でたイメージがあるが、実際には武術にも非凡な才を持つ豪傑であり、剣術は皆伝の腕前だったようである。
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1563年、竹中半兵衛の策で、斎藤龍興は十面埋伏の陣を布き、侵攻してきた織田信長勢を敗退している。
やり方は 全軍を伏兵させ、敵を一旦通り過ぎさせた後、まず背面の兵を後ろから奇襲させ、その後、残りの九面、つまり全方位から敵に奇襲する作戦。
斎藤龍興はまだ10代で経験も浅く、政務に関心を示さず、女と酒に溺れる人物だったとされ、さらに祖父・父の有力家臣だった美濃三人衆や知略に優れた武将である竹中半兵衛を重用せず、斎藤飛騨守などの奸臣を寵愛した。
そのような経緯もあり、1564年2月6日白昼、竹中半兵衛(21歳)は妻の父・安藤守就とクーデターを計り、弟・竹中久作とともに士卒16人(17名?)だけを率いて斎藤龍興の居城・稲葉山城を奇襲し、斎藤飛騨守ほか5名を討ち、稲葉山城を占領。城内には人質として、弟の竹中久作もいたとされる。
安藤守就は兵2000にて、稲葉山城の城下を制圧。斉藤龍興は鵜飼城に逃れた。
これを耳にした織田信長は、竹中半兵衛に美濃半国を与えることを条件に、稲葉山城を織田家に明け渡すよう求めるが、竹中半兵衛は断り、1564年8月頃になって、竹中半兵衛は斎藤龍興に稲葉山城を返し、自らは斎藤家を離れて近江湖北の浅井長政に身を寄せ、草野郷内の内3000貫を与えられ隠棲した。
菩提山城は従兄弟・竹中重利に託している。
1567年8月15日、織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とし美濃を平定。そして、織田信長は、旧・斎藤家の重臣・稲葉良通を派遣して、竹中半兵衛を出仕させようとしたが、竹中半兵衛は病を口実に仕官を断り、弟・竹中久作を織田信長に仕えさせている。
そして、竹中半兵衛は近江・浅井長政の重臣・堀次郎の家臣である樋口直房(樋口三郎左衛門直房)の長亭軒に身を寄せた。
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1570年4月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるが、同盟していた浅井長政の裏切りにより金ヶ崎より撤退。明智光秀、木下藤吉郎秀吉、池田勝正らの奮戦で、織田信長は辛くも京都に撤退する事に成功した。
1570年6月、織田信長は再度、浅井長政を攻めるべく、それに先立ち木下藤吉郎秀吉を松尾山に向かわせ、隠棲中の竹中半兵衛に、織田家に仕えるよう説得させた。
この経緯から、木下藤吉郎秀吉が三顧の礼を尽くして、木下藤吉郎秀吉の軍師として招くことに成功したとされる俗説ができたが、実際には、当初、織田信長直属の家臣になったものと推測され、竹中半兵衛は、織田信長から守光の太刀、国光の短刀、甲冑、黄金50枚などを与えられている。
1570年6月28日、竹中半兵衛(27歳)は姉川合戦に出陣。この時、安藤守就の部隊に参加。
弟・竹中久作も参陣し、浅井家の勇将・遠藤直経が織田軍の武将を装って、織田信長の本陣に入り込んだが、旧知であった竹中久作がその正体を見破り、遠藤直経を討ち取る武功を挙げた。
恩賞として浅井家から奪取した横山城が、木下藤吉郎秀吉に与えら、木下藤吉郎秀吉は大出世を果たすと、織田信長は、竹中半兵衛を木下藤吉郎秀吉に従わせて横山城を守備させた。そして、竹中半兵衛は浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。
以後、竹中半兵衛は木下藤吉郎秀吉の与力に加わったようで、軍師として活躍する。
1573年、織田信長は小谷城を攻略し、浅井長政は自刃。12万石・小谷城は、木下藤吉郎秀吉に与えられ、長浜城と改名。また、木下藤吉郎秀吉自身、この後から、羽柴秀吉に名を改めている。
同じこの年に、竹中半兵衛と正室・安藤守就の娘との間に、竹中重門が誕生。竹中半兵衛は、長浜城下の町割りや行政組織を定めるなど町作りを考え、生活困窮者には年貢を免除する代わりに労役に出させるなど、政策を献策した。
1575年、竹中半兵衛は1053石を知行。
羽柴秀吉の播磨攻めが始まると、竹中勢は上月城の支城福原城攻略を担当などした。
1577年9月、竹中半兵衛は播磨計略に向かい、9月22日、黒田官兵衛の嫡男・松寿丸を人質として連れ帰り、羽柴秀吉の播磨攻めでは、黒田官兵衛を先導役にして、黒田官兵衛と竹中半兵衛の両軍師が活躍するも、12月頃から、竹中半兵衛は病床に臥すようになった。
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1578年10月、三木城攻囲の際、織田勢の荒木村重が陣払いして伊丹に帰ると言う謀反を起こす。黒田官兵衛は、荒木村重を説得させようと伊丹城に入ったが、捕まり、投獄させらてしまった。
織田信長は黒田官兵衛も寝返ったのでは?と疑い、黒田官兵衛の人質・松寿丸を殺害するように羽柴秀吉に命じた。
しかし、竹中半兵衛は羽柴秀吉に説き、殺したことにして、松寿丸を自分の岩手・菩提山城にかくまった。
ただし、家臣である不破矢足の屋敷にて手厚く保護させたとも言われている。
京で療養していたが、死期を悟った竹中半兵衛は陣中で没することを望んで、再び播磨の羽柴勢に合流。
1579年6月13日、竹中半兵衛は、三木陣中にて没した。36歳。
死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされ、三木城外の平井山中に葬られ、現在の墓所は陣地のあった兵庫県三木市にある平井山観光ぶどう園内にある。
竹中半兵衛の弟・竹中久作は1582年3月、織田信長に従い信濃国に出陣するなど引き続き活躍していたが、本能寺の変のあと、美濃国不破郡長佐村で郷士一揆が勃発し、その一揆にて戦死。享年37。
その後、豊臣秀吉は、竹中半兵衛の子・竹中重門が元服すると家臣に加えている。
下記は、垂井・禅幢寺にある竹中半兵衛の墓。
戦国時代の軍師とは?
「軍師」と言うと、軍勢を動かして、有利に戦闘を行う為の作戦参謀と言うイメージがあるが、戦国時代の軍師と言うのは、作戦指揮よりも、調略や工作、つまり敵の武将を密かに味方に して、有利に戦うと言う政治調略が一番の仕事であった。
陣張りが有利でも、どれだけ強くても、裏切られると負けると言うのは関ヶ原の合戦などでも証明されている。
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