毛利勝永と毛利勝信【大阪の陣で義を果たした名将】

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毛利勝永(もうり-かつなが)は、毛利勝信の子として1577年に尾張で誕生した。
先に父・毛利勝信(森吉成、毛利吉成)からご紹介したい。

毛利勝信(もうり-かつのぶ)は豊臣秀吉に早くから仕えた古参の武将で黄母衣七騎衆の1人に数えられ、1586年からの九州平定に参戦。
肥後国人一揆が起こった際には、首謀者の1人である甲斐親英を捕らえて処刑する功により、1587年、豊前の二郡を与えられ小倉城主6万石となった。
この時、豊臣秀吉より森姓を毛利姓に改めるように命じられ、毛利壱岐守と称し森吉成から毛利吉成と改名した。


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なお、毛利元就の毛利家とは血縁関係はないので、念のため記載しておくが、元々は森可成に類する尾張・森家の一族であると考えられる。

小倉の統治では支城・岩石城を弟の毛利吉雄に任せ、高山右近のキリシタン旧家臣団の多くを受け入れた。
また、毛利勝永にも豊前に1万石を与えられている。

1592年、朝鮮出兵では2000人の軍役を命ぜらて、父・毛利勝信は四番隊長として島津義弘らの南九州勢を統率した。
1597年の慶長の役では、子の毛利勝永も父と共に出陣し、加藤清正らを救援している。

1600年、関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧と言う事もあり父・毛利勝信は石田三成に協力。
毛利勝信は九州にあったが、毛利勝長は宇喜多秀家小早川秀秋毛利秀元吉川広家小西行長長宗我部盛親長束正家鍋島勝茂大谷吉継らと伏見城の戦いに参戦。
徳川勢の鳥居元忠が自刃し、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3000石の加増を受けた。
しかし、香春岳城主・毛利信友(毛利九左衛門)や、毛利勘左衛門などの多くの家臣を失ったため、安濃津城への攻撃や関ヶ原の本戦では、毛利輝元の家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に入った。
ただし、安国寺恵瓊や毛利秀元らは、吉川広家の奸計で展望の利かない南宮山の山頂にて身動きが取れず、毛利勝永も関ヶ原の本戦には参加できないまま敗戦となった。


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一方で九州の父・毛利勝信は、家老・毛利信友が伏見で討死したため、香春岳城主に自分の子を据えようとする。
これに毛利信友の郎従と遺子・毛利吉十郎が激怒し、香春岳城を黒田如水(黒田官兵衛に)に明け渡した。
そして、関ヶ原の戦い石田三成が敗れた報がもたらされると、旧知の仲でもあった黒田官兵衛の説得に応じて降伏して小倉城を明け渡し、剃髪して一斎を号すると、黒田官兵衛に旧領安堵などの仲介を依頼した。
しかし、黒田官兵衛は既に豊前一国の切り取り自由との約束を得ており、まんまと騙された毛利勝信は改易されて、肥後へ追放された。

父・毛利勝信と毛利勝永の身柄は加藤清正に預けられた後、次いで山内一豊に預けられている。
なお、山内家では兼ねてより親交もあったことから、1000石をあてがわれており、手厚い保護を受けたようだ。
空に、毛利勝永の弟・毛利勝近は、山内姓を与えられて山内吉近(山内勝近)を名乗るなどの厚遇も受けている。

これは、豊臣家臣団では毛利勝信が山内一豊の上役として面倒を見ていたことや、毛利勝永が大阪城下の山内一豊の妻・千代の保護に奔走したなどの経緯があったようだ。

1610年5月25日、毛利勝長の正室・龍造寺政家の娘が死去すると、毛利勝永も髪を剃って出家し一斎と号した。
※父と同じ号である理由は不明で引き続き確認中。

1611年9月8日に父・毛利勝信が死去。

大阪の陣に参戦

1614年、豊臣家と徳川家の衝突が現実味を帯びてくると、豊臣秀頼ら豊臣家は毛利勝永を招へい。
毛利勝永は留守居役・山内康豊に対し、徳川勢に付いた藩主・山内忠義とは、昔衆道の間柄であり身命を賭けて助け合うと言う約束をしているため、どうか陣中に行かせてほしいと懇願した。
その際、長男・毛利勝家と次男・鶴千代(毛利太郎兵衛)を人質として残すと言うので、山内康豊は許可したが、毛利勝永と嫡男・毛利勝家は船で大坂城へ入ったと言う。
怒った山内忠義は、毛利勝家の見張役・山内四郎兵衛に切腹を命じ、次男・鶴千代と、毛利勝永の妻(継室か?)と娘は、高知城にて軟禁された。


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この時の逸話として毛利勝永は妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流したと言う話がある。
この話に対して妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって励ました。

妻子らを捕縛したと高知藩からの知らせを受けた徳川家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、毛利勝永の妻と次男・毛利太郎兵衛は高知城内へ招かれ保護されたと言う。
※ただし、この3名は京に護送されて、毛利勝永の妻は自害し、10歳の毛利太郎兵衛は斬首(名目上は切腹)になったともある。

大坂城に入城を果たした毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあって信望を得て、大坂城の五人衆と称された。

大坂冬の陣では、真田信繁(真田幸村)らと共に城から撃って出る積極策を提案したが、大野治長淀殿らに受け入れられず、籠城戦となった際には西丸ノ西・今橋を守備した。

1615年、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤又兵衛(後藤基次)らの敗残兵を収容して、大坂城に撤収。
5月7日の天王寺口の戦いでは、兵4000を率いて徳川家康の本陣正面である四天王寺南門前に布陣した。
毛利勝永の物見が本多忠朝を発見し、先走って銃撃したため、戦闘が始まったが、すぐに本多忠朝や小笠原秀政ら討ち取り、続いて浅野長重秋田実季・榊原康勝・安藤直次六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らの徳川勢を混乱させて撃破・突破し、徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せている。
こうして徳川家康の本陣を恐慌状態に陥り後退させたが、真田信繁(真田幸村)隊が壊滅し戦線が崩壊すると、桶狭間の戦いの再来はならず、四方から攻撃を受けることになり撤退した。
退却戦でも毛利勝永の指揮は素晴らしく、反撃に転じた藤堂高虎を撃ち破ると、井伊直孝細川忠興らの攻撃を防いで、大阪城へと見事退却した。

黒田長政加藤嘉明に話したと言う逸話では「あの際立った采配は誰だろう」と黒田長政が尋ねたところ、「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と加藤嘉明が回答。
黒田長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と驚いて賞賛したと言われている。黒田長政が会ったことがある毛利勝永は、関ヶ原合戦の前であり、まだあどけない若武者だったのだろう。


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そして、1615年5月8日、炎上する大阪城で自害する豊臣秀頼の介錯を毛利勝永が行った後、息子である毛利勝家(16歳)や、弟・山内勘解由吉近と共に、蘆田矢倉で腹切って果てた。

下記は大阪城での殉死者「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」で、大阪城・山里曲輪の石垣の上にある。

淀君並殉死者三十二名忠霊塔

義を貫いて立派に戦い抜き、見事な最期を遂げたのは真田信繁(真田幸村)だけでは無かったと言えよう。

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