長谷川秀一とは
長谷川秀一(はせがわ-ひでかず)は、織田信長の家臣・長谷川与次の子となります。
父・長谷川与次(はせがわ-よじ)の名が見られるのは、1569年の伊勢・大河内城の戦いで、その後、数々の合戦にも出陣しています。
織田信長が1578年1月1日に開催した茶会には有力家臣12名が招待されています。
その中に、織田信忠・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀などと一緒に、長谷川与次の名も見受けられるため、かなりの有力家臣であったと考えられます。
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その子である、長谷川秀一は、万見重元・祝重正・菅屋長頼・矢部家定らと共に織田信長の小姓となっていますが、桶狭間の戦い以前から出仕していた可能性があります。
元服する前は、竹と呼ばれており、織田信長の男色の相手としても寵愛されたとも言われています。
1578年の有岡城の戦いで、功を焦った万見重元が討死にすると、以後、織田家の奉行衆として長谷川秀一が重要な役割を果たすようになりました。
ただし、弟の長谷川橋介(はせがわ-きょうすけ)は、織田信長から嫌われて、徳川家康を頼っており、1573年、武田信玄との三方ヶ原の戦いにて討死しています。
1580年、徳川家康が高天神城を包囲している際には、猪子高就・福富秀勝・西尾吉次らと視察も行っています。
1582年、武田攻めの際には、織田信長のそばについて、菅屋長頼・堀秀政・矢部家定・福富秀勝と長谷川秀一が馬廻衆を率いました。
父の長谷川与次は織田信忠の軍勢におり、武田勝頼を滅ぼしたあと、快川紹喜ら恵林寺の焼き討ちにも加わっています。
織田信長が安土城に戻ると、長谷川秀一は徳川家康らを招待した席にも参加しています。
また、徳川家の皆が、堺を見物に行く際には、長谷川秀一と西尾吉次が案内役を務めたため、明智光秀謀反の本能寺の変の難を逃れました。
その後、土地に不慣れな徳川家康が三河へと逃れる際には、長谷川秀一が案内と手配を手伝い、一緒に名古屋の熱田まで行動を共にしています。
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清州会議のあと、父・長谷川与次は前田玄以と共に三法師(織田秀信)の傅役を務めるなど、親子で豊臣秀吉に仕えるようになっています。
柴田勝家との戦いの際には、滝川一益が籠った伊勢・峰城を長谷川秀一が攻撃しており、戦功により近江・肥田城を与えられています。
1584年、小牧・長久手の戦いで、長谷川秀一は2300を率いて参じており、最後には、日根野弘就・細川忠興・木村重茲・神子田正治らと羽柴勢の殿(しんがり)を務め、織田信雄の追撃を振り切りました。
1585年に、長谷川秀一は、越前・東郷城15万石(東郷槇山城)となっています。
その後、九州攻めにも参加し、1588年には豊臣姓を下賜されました。
1590年、小田原攻めの際には3000にて、徳川家康らと山中城の戦いにも参加しています。
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1592年からの朝鮮攻めでは、5000を率いて渡海しました。
しかし、現地で病となり、1594年2月に死去したとされます。
帰国したあと、伏見城(指月伏見城)築城の奉行を務めましたが、すぐに亡くなったとする文献もあります。
なお、父・長谷川与次は越前にて健在でしたが、亡くなった長谷川秀一には子がいなかったため、家督相続は行われず、父が1600年に死去すると、所領も没収された模様です。
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