磯野員昌とは
磯野員昌(いその-かずまさ)は磯野員宗の子として戦国時代の1523年に生まれた。
この磯野家は近江・湖北四家のひとつで、京極高吉に従っていたが、同じく京極氏の家臣であった小谷城主・浅井亮政が勢力を強める。
主家である磯野山城主・磯野為員(磯野源三郎為員)が、磯野一族の宮沢忠左衛門の裏切りもあり討死して滅亡し、磯野家が浅井亮政に屈服すると、宮沢忠左衛門の子である宮沢平八郎が、佐和山城主・磯野伊予守員吉の養子となり「磯野員宗」と称し、佐和山城の磯野家を相続していた。
その磯野員宗の子が磯野員昌(磯野丹波守員昌)と言う事になる。
父の死後、一旦、叔父である磯野員清が継いだが、そのあと磯野員昌が家督を継承した。
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磯野員昌も無双の勇士で、武勇に秀でていたことから浅井長政のもとで戦功を挙げ、先鋒を任されるまで信頼を受けた。
特に、1570年6月28日の姉川の戦いでは、池田恒興・柴田勝家を打ち破り、磯野員昌11段崩しとも呼ばれる、敵対した織田信長の本陣近くまで斬り込むと言う猛攻を掛けたが、稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就、森可成らが辛うじて防衛している。
この敗戦で、浅井家の本拠・小谷城と、磯野家の佐和山城とは、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が入った横山城によって連絡が遮断される。
孤立した佐和山城は、1571年2月24日に織田勢の攻撃を受け(木下藤吉郎の降伏勧告を受け入れたとも)、磯野員昌は降伏した。
この時、磯野員昌は、城を明け渡しても浅井長政のもとを訪問したようだが、人質に出していた母は処刑されるなど嫌疑を掛けられたため、やむなく織田家に下ったともされている。
織田家からは琵琶湖の西岸である近江・高島郡の新庄城を与えられ、佐和山城には丹羽長秀が入った。
浅井長政が自刃したあとの一時期、藤堂高虎が磯野員昌の家臣に加わったほか、高島郡朽木が本拠の朽木元綱を配下に加えている。
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1570年5月19日に千草越えの織田信長を狙撃したあと、高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていた杉谷善住坊を、1573年に磯野員昌が捕縛し織田家へ引き渡している。
その後、高島郡では織田信長の甥・津田信澄が権力を付け、磯野員昌は織田信長の意向に従わなかったところを叱責され、1578年2月3日、織田家を出奔し浪人した。(高野山に追放されたともある。)
叱責された内容は不明だが、津田信澄は磯野員昌の養子となる形で、高島郡を支配し、明智光秀の娘と結婚しているため、恐らくは津田信澄に家督を譲るよう命令されたものと推定できる。
本能寺の変にて、津田信澄は織田信孝と丹羽長秀に襲撃されて摂津・野田城にて命を落とすと、磯野員昌は高島郡に戻ったようだが、帰農したとある。
その後、1590年9月19日に死去。享年68。
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嫡男・磯野行信は石田三成に見いだされ、磯野行信の長男・磯野行尚は関ヶ原の戦いにて落ち延びる石田三成に最後まで従った。
磯野行信と磯野行尚は、のち藤堂高虎からの再三の要請に応じる形で仕え、1602年には磯野行信が1000石、磯野行尚は300石となっている。
大阪夏の陣では、磯野行信は旗奉行を勤め、磯野行尚は八尾・若江の戦いにて、増田盛次を討ち取る武功を挙げ1000石となっている。
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コメント
コメント ( 2 )
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高田様
磯野家に関する詳しい情報を掲載してくださり、ありがとうございました。
私は札幌市在住の尾崎文之と申します。
先祖探究を行っている者です。
私の母方の6代目の先祖に磯野金六郎という人物がいまして、
青森県で生活していました。
青森県「小泊村史 磯野文書集」という書物に磯野家略系図というのがあり、
その記述に、先祖に磯野秀昌を持ち、磯野家一門に金六郎秀勝という人物が
播磨国姫路に下り、八代の孫 金兵衛という人物が東北(青森県津軽郡小泊)へ
下る という記録があります。安永五年(1776)
高田様の記録は、私の先祖に当たる方々の貴重な記録であります。
詳細な調査、探究に心よりお礼申し上げます。
初めまして。
私も札幌市在住の磯野弘幸と申します。
祖父が亡くなった時に、戸籍が東旭川の前が岐阜の安八郡と
なっていたのを思い出し。
当地を訪ねご先祖様のルーツを探したいと考えています。
磯野員昌公と繋がりがあるか分かりませんが、高島郡と安八郡は
然程距離が離れていないため関係性が気になっています。