神流川の戦いの現場を往く~美学にこだわった滝川一益の撤退戦

本能寺の変(1582年・天正10年)が起ったとき、織田勢で京から最も遠い任地にいたのが滝川一益だ。
武田滅亡後の旧領のうち、上野(群馬県)一国と信濃(長野県)の二郡を与えられ、厩橋城(まやばし・のちの前橋城)主として新領地を治めはじめたばかりだった。
上州へ赴任してわずか2ヶ月あまりで、織田信長という偉大なボスを失った。

本能寺の変(天正10年6月2日)の情報は、滝川一益の元に6月9日(7日とも)にはもたらされたという。同時にこれもたちまち各地の敵勢力の知るところとなる。
滝川一間かは、配下の上州諸将に信長横死を正直に伝え、諸将の以後の向背を各自に委ねると宣言した。
諸将の多くは意気に感じ、滝川一益のもとに結束を誓った。
・・と伝わっているが、滝川一益を美化した流布であろう。
小田原との友好関係を保ったまま京に上洛をはかろうと交渉したが、不首尾に終わった、というのが現実のところだ。
折しも越後上杉景勝の後押しを得た藤田信吉勢5千人が沼田城に攻めかかるなどの動きを見せ、滝川勢はこれを撃退した。
一説に、一益は沼田城を真田昌幸に返して信義を守りたかったからともいわれる。
しかし四面楚歌、敵中孤立となれば、上州諸将を掌握して自力で北条勢力を突破し、上洛をめざす以外に道はない・・と滝川も腹をくくった。


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▼小田原北条氏も6月11日には織田信長・織田信忠親子死すの確報を受け取った。
北条家はそれまで表向き滝川家に友好的だった外交姿勢をかなぐり捨て、直ちに武蔵の鉢形城(はちがた)(埼玉寄居町)から北条氏邦指揮の軍勢5千人を先発させ、6月17日夜半には上野国侵攻を始める。
後詰めの本隊には北条氏政北条氏直親子の5万余の大軍勢が動員された。

▼6月18日、滝川勢は厩橋城を出陣して倉賀野城(高崎市)において最後の軍議を開き、翌19日夜明けには北条軍を迎え撃つべく恩幣山古墳(のちの「軍配山古墳」・玉村町)に本陣を置いて、神流川までの金窪原一帯に1万6千人(1万8千人の説も)で布陣した。

軍配山古墳

▼あたりは耕地整理された田んぼのなかに古墳が点在している地域で、中でもここの軍配山古墳がひときわ大きい。
墳丘を登りつめると、大きな石碑が立ち、神流川方面はじめ、背後の厩橋城方面など四囲の見通しはいい。

▼国道17号を埼玉県方向に南下、神流川を渡る「神流川橋」の北橋詰に『神流川古戦場』の石碑と案内板がある。
県境の橋を渡って埼玉県側の橋詰にも「古戦場」の案内板がたたずんでいる。
ほかにこれといったものもない。「この辺一帯が神流川の戦い(かんながわのたたかい)の古戦場!」と言っているようだ。
当時はもちろん堤防もなく、大軍同士は神流川を挟んだあたり一面に展開して戦ったことだろう。

▼前哨戦では、滝川軍が北条氏邦の先鋒隊金窪勢600人あまりを蹴散らして260人を討ち取り、余勢を駆って武蔵国に侵入し金窪城を包囲して火を放ちこれを落城させた。
神流川橋を渡り、国道17号から埼玉県上里町の旧中山道に入って『金窪城跡』を探す。


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さすがにマイナーすぎて迷うことしばし…。

金窪城址は地図にもカーナビにも出ていないが、「黛神社」が金窪城の外堀を挟んですぐ北西に隣接しているので、それを目標に行くといい。
黛神社の西脇を通る小径は「旧三国街道」だと言われる。
金窪城は当時主要街道の国境を押さえる要地にあったわけだ。
狭い路地を行きつ戻りつしてるうちに、突然児童公園に出る。

「えっ、何ここ?」注意深く見渡すと、隅にひっそりと『金窪城跡』の碑が建っている。

金窪城跡

あたりは一般住宅地になっているが、わずかに土塁の名残がある。
金窪城は、悲運にも小田原の役(1590年)で北条家の持ち城だったため再び落城する。
徳川の関東入府後は川窪信俊が陣屋を構え、元禄期に川窪氏が丹波へ転封になるまで使われ、のち廃城になった。
川窪信俊は、武田信玄の弟・武田信実の子で、武田滅亡後に旗本として徳川家康に仕えていた。

▼6月19日になると、当主・北条氏直率いる北条本隊が到着し、形勢は一転する。
北条氏直は滝川勢を誘い出しては伏兵をもって挟撃する戦法で撃破し、新手を次々繰り出して次第に滝川勢を圧倒してきた。
連日の疲れと大軍の前に戦意を失った上州諸将は次々に離脱していった。
滝川一益はやむなく手勢に守られて倉賀野城に引いた。

倉賀野城

そして、翌日の20日には厩橋城に帰陣した。

前橋城

▼金窪城址近くのJR高崎線脇に「大光寺」(上里町)というお寺があり、合戦のときの銃弾の痕が残った惣門があるというので回ってみた。
惣門なのに本堂のウラの墓地の片隅にひっそりと移転してあった。

大光寺

門柱に弾痕や矢きずらしきものが多数ある。

弾痕、矢創といわれる門柱の痕跡

▼本能寺の変直後の関東甲信地方の旧武田領争奪戦は「天正壬午の乱(てんしょうじんご)」と呼ばれている。
このときの北条の動きは大軍を擁しながらも戦略の一貫性を欠いていて、上杉景勝や徳川家康を相手に、場当たり的な右往左往の軍事行動に終始したようにみえる。
滝川一益は北条の緩い追撃をかわしながら、松井田城に留め置いた手勢1千人と合流して、碓氷峠を越え小諸城に入り、情勢を見極めつつ信濃木曽路を抜けて7月1日、伊勢長島城に帰った。
木曽までは真田昌幸の手勢500人も一益の警護にあたったともされている。

▼しかしこの撤退戦と逃避行に貴重な時間を失い、肝心の「明智討伐」にも「清須会議」(清洲会議)にも間に合わなかった。
滝川が「男の美学」にこだわった時間の代償はあまりに大きかった。

羽柴秀吉が「中国大返し」を断行して山崎の合戦で明智光秀を瞬時に粉砕したように、一益のこのとき果たすべき急務は「京へ急行する」ことだった。
滝川一益がやらずともの「神流川合戦」を挑んだのにはいくつか理由があるだろう。
上州の戦国史研究に詳しい故 山崎一氏はその著書の中で次の3点を挙げている。
北条の電撃的な上州侵攻の動きに対応させられた。
上野国衆の離反による滝川軍殲滅の危機の可能性を考えた。
厩橋城に駐屯する滝川一益の手勢3千人の伊勢への帰国を確保したかった。
これらのために、滝川一益はいったん北条に一撃を与えてひるませ、なおかつ上州国衆の力を削いで自分に向けられる謀反のリスクを軽くし、自らの手勢を敵地から脱出させることを狙いとして、あえて北条との戦に向ったのではないだろうかと。


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▼滝川一益は、あの気むずかしい織田信長にその人柄を愛されたという。
織田家の中途採用組で重用されたのは、羽柴秀吉と明智光秀、そしてこの滝川一益くらいのもの。
晩年は、いったん秀吉と対立するも柴田勝家が滅ぶと、しぶしぶ羽柴秀吉の麾下に入り、対徳川の「小牧・長久手の戦い」などに参加した。
「小田原の役」(1590年)で北条が滅びるのを待たずに、神流川合戦から4年後、1586年、豊臣傘下の1万5千石の小禄大名のまま病死した。
真田昌幸の娘・於菊は、のちに滝川一益の孫・滝川一積と再婚している。

▼神流川合戦では滝川軍は3千7百余の戦死者を出したといわれる。
関東の地方戦では最大級の戦死者として記録される。
戦死者は「首塚八幡宮」(高崎市新町)とその至近地の「胴塚稲荷古墳」(藤岡市岡之郷)に手厚く葬られているという。

首塚八幡宮

胴塚稲荷古墳

なお、文中の日付や人数などについては、有力な説に基づいたが、諸説あることを付け加えておきたい。(終)

(寄稿)柳生聡

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