水野勝成とは
実に主君(仕官先)は8名に渡り最後には名君と慕われた猛将で戦国自由人・水野勝成(みずの-かつなり)は、戦国時代の1564年8月15日、鷲塚城主・水野忠重の長男として生まれました。
幼名は国松で、母は諸説ありますが、本願寺光佐の妹(妙舜尼)とされています。
父・水野忠重は9男で最初、兄の水野信元と共に織田信長に仕えていたようです。
その後、兄と不和となり、岡崎城の徳川家康に仕え、鷲塚城を賜ったと言うことになります。
そして、三河一向一揆の鎮圧で戦功をあげ信頼を得て、徳川二十将の一人に数えられました。
また、徳川家康の母・於大の方は、父の妹(または姉)となります。
そんな父を持った水野勝成は、1579年、武田勝頼との高天神城の戦いにて16歳で初陣を果たしました。
そして、徳川秀忠が誕生すると、水野勝成は乳兄弟として近習になります。
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しかし、1580年、織田家の佐久間信盛が追放された三河・刈谷城が開くと、織田信長の誘いを受けて父・水野忠重は織田家に鞍替えします。
水野勝成も父に従い、奥田城や細目城を任されました。
1580年からの高天神城攻めには徳川家の援軍として織田家も軍勢を出しますが、このとき、派遣されたのが、水野忠重と水野勝成で、徳川勢の軍監か目付を担った模様です。
水野勝成は15の首を挙げる大活躍だったとあり、織田信長は感状を発給しています。
その後、織田信忠の甲斐攻めにも参加しました。
本能寺の変のときには、織田家の家臣として親子は京都・二条城にいました。
東山の東福寺山林に3日間隠れたあと、東福寺境内の塔頭霊源院に潜みます。
その後、霊源院の支援を受けて京都を脱出し、大津城・京極高次を頼ると護衛を受けて、刈谷城に戻っています。
そのとき、父は織田信雄に仕えましたが、水野勝成は父の許しを得て徳川家康の家臣となりました。
そして、水野勝成は天正壬午の乱で甲斐へと出陣し、鳥居元忠、三宅康貞と共に黒駒の戦いにて北条氏忠の陣を攻めています。
戦力的には不利で、北条氏勝が更に北条氏忠の救援に赴き、ピンチでしたが、水野勝成と三宅康貞は撃退したほか、水野勢は内藤某などの300の首をあげています。
1584年、小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の配下になっていた父・水野忠重の陣に加わって戦います。
このとき、結膜炎で目が痛いという理由で兜をかぶらず鉢巻をして戦ったと言いますが、白江成定の陣に突入すると、兜がなくても一番首を取り、徳川家康に届けました。
徳川家中にて井伊直政と武勇を競い、金山城主・森長可は水野家り水野太郎作清久の家来である足軽・杉山孫六が鉄砲で討ち取るという戦功も挙げています。
また、同年1584年の蟹江城の戦いでは、伊賀忍者とともに九鬼船二艘を乗っ取り、滝川一益の子・滝川一積(滝川三九郎)と一騎打ちもしています。
服部正成の甥・服部保英も、水野勝成の軍勢に参加して武功をあげています。
そして、伊勢の桑名城での陣中にて、父・水野忠重の部下が、自分の素行不良を報告したとして、斬り殺したことから、水野勝成(21歳虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったり)は奉公構(他家への仕官禁止)として勘当されます。
徳川家康がしばらく保護して須賀口(清洲城近く)の寺に篭りましたが、父・水野忠重の探索が入り、美濃・尾張と縁者を頼って転々としたのち京都に赴きました。
虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったり、京都では、南禅寺の山門に寝泊まりし、喧嘩はやいことから、たくさんの人を殺害したとも言います。
やがて、織田信雄のつてで、羽柴秀吉より、摂津豊島郡の内、神田に728石を与えられ、豊臣家の家臣に加わりました。
そして、紀州雑賀攻めにも参加したあと、四国征伐(第2次四国征伐)においては摂津国豊島郡700石となり、仙石秀久の家中に加わっています。
しかし、その後、水野勝成は知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と偽名を称するようになりました。
この名は「ろくでなし」から取ったとされています。
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1587年、肥後・隈本城に入った佐々成政に1000石で召し抱えられると、隈部親永の反乱(肥後国人一揆)での菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城の救援でも先鋒を努めました。
そして、武勇で知られる阿波鳴門之介(後に尼子十勇士のひとり)と戦功を競ったと言います。
佐々成政が一揆を抑えられず小西行長が宇土城に入ると、今度は中津城の黒田官兵衛の家中に加わります。
そして、野中鎮兼が籠城した長岩城からの撤退戦では、後藤基次(後藤又兵衛)と殿(しんがり)を争っています。
その後、黒田長政が大阪城に赴く途中、同行するも、船の操船を手伝わされたとされ、鞆の浦で下船して出奔します。
1588年には、小西行長に1000石で仕官し、天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)にて、総大将となった小西行長の弟・小西主殿介の副将を務め、同じく小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競っています。
志岐鎮経の志岐城を加藤清正からの援軍と攻略し、さらに天草種元の本渡城を陥落させました。
その後、再び加藤清正、そして柳川城の立花宗茂へ仕官先を変えましたが、いずれも出奔しています。
ここから約10年浪人しますが動向はよくわかっていません。
備中の鶴首城主・三村親成の食客となった際には、1594年9月、月見の宴席で茶坊主が無礼だと斬りつけ出奔しますが、翌年1月にはまた三村親成の食客として復帰しました。
このとき、水野勝成は世話をしてくれていた、藤井皓玄の娘である於登久(おとく)との間に子ができ、のちに福山藩第2代藩主となる水野勝俊が生まれました。
1598年、豊臣秀吉が死去すると、妻子を残して京に出て徳川家康に接近します。
そして、山岡景友の仲介を受けて父・水野忠重と15年ぶりに再会すると和解しました。
同年1598年4月22日、水野勝成の妹・かな姫(清浄院)が徳川家康の養女となって加藤清正と結婚し、加藤家とも縁戚になります。
そして、慶長5年(1600年)に徳川家康に従って会津征伐のため下野・小山城に宿陣します。
そのあと、7月18日に、三河・池鯉鮒にて、父・水野忠重は加賀野井城主の加賀井重望から西軍に誘われました。
しかし、断ったため、父は殺害されたとされ、同席していた堀尾吉晴が殺害したされた加賀井重望の懐から、徳川家の関係者を殺害すると領地恩賞を与えるとの石田三成から書状が発見されたと言います。
7月25日、水野勝成(37歳)は、一旦、刈谷城に戻って、三河国刈谷3万石の家督相続を行い、以後は、徳川家康の側近として仕えました。
関ヶ原の戦いでは、大垣城の備えとして包囲しており、決戦前日の夜、松平康長・西尾光教・津軽為信・松下重綱らと共に、石田三成が出撃して留守居のみの大垣城を攻め、三の丸まで占拠しています。
本線で徳川勢の東軍が勝利すると、曽根城まで退いて、大垣城に残っている西軍の秋月種長が顔見知りであったため、説得したともされます。
こうして、翌日、相良頼房・秋月種長・高橋元種が、大垣城にて一緒に籠城していた垣見一直・熊谷直盛・木村由信・木村豊統の首をもって降伏し、ついに守将の福原長堯は大垣城を明け渡しました。
このとき、水野勝成は石田三成から福原長堯に与えられていた正宗の名刀を奪いとっています、
また、大垣城には加賀井重望の息子・加賀井弥八郎がいたため、父の仇として討ち取っています。
水野勝成は福原長堯の助命を願いでましたが、許されずに切腹となっています。
捉えられた石田三成・安国寺恵瓊・小西行長は市中引き回しとなりましたが、このとき、水野勝成は用意していた「編笠」を被せてあげたと言います。
そのあと、国元に戻ると刈谷城を大改修開始しています。
1601年、水野勝成は従五位下に叙任され、明智光秀以来、みな遠慮していた「日向守」を希望して称しました。
その勇猛さから以後は「鬼日向」と呼ばれますが、徳川家康も光秀所用の熊毛の朱槍を授けたと言います。
また、時期は不明ですが、三村家親の娘・お珊が三村親成の養女となって、正室として嫁いでいます。
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1602年8月28日、水野勝成の伯母で、徳川家康の母でもある於大の方が亡くなりました。
慶長13年(1608年)、水野勝成は備中の成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せて、水野勝俊は徳川秀忠に仕えます。
大坂の陣では軍監として子の水野勝俊を連れて参加し、道明寺の戦いでは後藤又兵衛と交戦すると、軍監でしたが自ら一番槍を果たし、後藤勢を壊滅させています。
真田信繁(真田幸村)が徳川家康の本陣に突っ込んだ際には、越前松平隊と茶臼山を落として後方を遮断します。
そして、600名を率いて真田勢に攻め寄せ、水野勢は大谷吉治を討ち取ります。
越前松平隊が明石全登に押されて逃げてくると、自ら先陣にて明石全登の部隊を壊滅させ、家来の汀三右衛門が明石全登を討ち取りました。
そして、水野勝成は大坂城桜門に一番旗を立てています。
敵の首97をあげた水野勢の論功行賞では「戦功第二」とされ、加増を受けて大和郡山城にて60000石となりました。
ただし、この6万石は、評価が低いと、水野勝成も30万石くらいは期待していたようですが、2度の命令違反もあったこともあったようです。
立腹していた水野勝成に対しては、徳川秀忠があとで10万石にすると口約束してなだめたとも伝わります。
こうして、1619年、広島城・福島正則の改易(所領没収)のあと、10万石となって神辺城に移りました。
そして、福山城の新築工事を開始します。
天守は5重、3重櫓も7基あると言う大変豪勢な巨城が出来上がりました。
徳川秀忠の指示で、伏見城からも多くの建物が移築されています。
浪人中世話になっていた三村親成が没落していたため、高禄で家老に迎えるなど、以後は藩政に尽力し、放浪時代の人脈から在地領主・郷士を積極的に登用しています。
また、戦乱で荒れていた神社仏閣の修理・再建なども数多く実施し、新田開発も積極的に行い国を豊かにしました。
家臣から誓詞も取らず、法度もなく、目付を配置したり監視もしませんでしたが、不思議と家中で問題は生じなかったと言い、農民一揆も発生していません。
若い頃から放浪したため、庶民の暮らしもよく理解しており、家来らの気持ちもわかっていたのだろうと考えられます。
また、城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模の上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海での海上交通にも力を注ぎました。
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1638年、島原の乱のときには6000にて、子・水野勝俊、孫・水野勝貞と共に出陣しています。
九州以外の大名では唯一の出陣命令であり、75歳の高齢にもかかわらず水野勝成の戦歴と経験が請われたようです。
そして、水野勝成の提案により、原城へり総攻撃が行われました。
布陣は水野家が最後尾でしたが、他の大名が三の丸・二の丸から攻めているうちに、水野勢は直接本丸を攻撃しました。
ただし、水野勝成が直接指揮をとっていなかったため、水野家としては、はじめて100人を超える戦死者を出す結果になったと言われています。
しかし、原城の戦いは、幕府の方針で他の大名家も軍功を大きく評価しなかった、水野勝成は不満を持ち1639年に隠居して、水野勝俊に家督を譲りました。
なお、隠居料の1万石を、自分のために使うのではなく、領内の投資に使用するなど藩政には関与したようです。
寛永20(1643年)、京都大徳寺でにて1年間、禅の修行をします。
87歳の時でも鉄砲を的に的中させて、周囲を驚かせたという水野勝成ですが、慶安4年(1651年)に福山城にて88歳で死去しました。
菩提寺は賢忠寺です。
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知名度は決して高くはないですが、戦国武将としての生き方はまさに破天荒ですが、最後にはきちんと収まり善政を敷いたと言う水野勝成。
生前「下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり」(庶民の気持ちがわかるのは、自分も貧しい虚無僧だったからだ)と述べていたと言います。
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