毛利元就とは
毛利元就(もうり-もとなり)は、戦国時代の1497年3月14日生まれであり、織田信長と比較すると37歳年上であり、戦国時代の大名としては生年は早いほうとなる。
父は毛利弘元(もうり-ひろもと)で、その次男であった。幼名は松寿丸。
母は正室・福原広俊の娘。松寿丸が生まれたのは母の実家・鈴尾城(福原城)だとされる。
この時の毛利家は、吉田荘を治める安芸国人領主の1人に過ぎず、主家である大内義興の勢力下であった。
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1500年、室町幕府と大内義興の勢力争いに巻き込まれると、父・毛利弘元は隠居し家督を嫡男・毛利興元に譲った。
父・毛利弘元と松寿丸は多治比猿掛城に移ったが、1506年に父がアルコール中毒にて死去。
1507年、松寿丸の後見役であった家臣・井上元盛に、猿掛城・多治比300貫を横領され、城から追い出されてしまった。
生活は困窮し、あばら屋で寝泊りしたことから領民から「乞食若殿」と呼ばれたともあるが、父・毛利弘元の継室・杉大方(すぎのおおかた)が、松寿丸を不憫に思い、実家にも帰らず、また他家に嫁ぐ事もなく松寿丸を養育した。杉大方は松寿丸に朝日を拝む念仏信仰を教え、毛利元就は終生この「朝の念仏」を欠かさなかったとされる。
のちに毛利元就は書状にて下記のようにしたためている。
「吾は、五歳で母に別れ、十歳で父を失った。十一歳の時、兄の興元が京都に上ったので、みなし児になってしまった。 杉の大方殿はあまりの不憫の思ったのか、多治比に留まって見捨てられずに私を育ててくれた。そのため、若い身の上なのに再婚もしないで貞女を遂げられた。」
1511年、杉大方は、京都に赴いていた毛利興元の許可を得て、松寿丸は元服すると、多治比(丹比)元就と名乗って分家を立てた。
1516年、兄・毛利興元が父と同じアルコール中毒にて死去。そのため、多治比(丹比)元就は酒の席では「下戸」だと言い酒は飲まなかったとされる。
毛利家の家督は、兄・毛利興元の嫡男・幸松丸が継いだが、まだ幼少であったため、多治比元就が叔父として後見したが、家中は動揺した。
その隙を突いて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻したため、多治比元就(20歳)は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣したが、これが初陣であった。
多治比元就は、猛将で知られた先鋒・熊谷元直を討ち取り、有田中井手の戦いにて敵の大将・武田元繁を矢で討死させると言う「西国の桶狭間」とも呼ばれた大勝利により、多治比元就の名が轟いた。
この戦いの後、尼子政久へ鞍替えし、安芸国西条の鏡山城の戦いでも、先祖・大江広元ゆずりとも言える類まれな智略によって勝利を重ね、毛利家の家臣らの信望も集めていった。
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そして、1517年?には吉川国経の娘(妙玖)を正室に迎え、1523年に嫡男・毛利隆元が生れている。
戦国大名としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方となる。
1523年、毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、志道広良ら重臣の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。8月10日に吉田郡山城に入っている。
しかし、この家督相続に不満を訴える家臣を取り込んだ尼子経久の策もあり、毛利元就の異母弟・相合元綱を擁してた坂広秀一の一派を粛清・自刃させるなどした他、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂城主・桂広澄が責任を感じて自害もしている。
この家督継承において尼子経久とは敵対関係となり、1525年には大内義興の傘下となった。
以上、毛利元就の誕生から家督を継いだ頃まで詳しく掲載してみた。
毛利元就の逸話
毛利元就は幼い頃から利発な性格だったようであり「うつけ者」とも評されることから、本家に害が及ばさぬように多治比猿掛城へと遠ざけられたともされている。
毛利家の家臣らは、武田信玄の家臣と同様に「独立性」が強いため、その統率力には目を見張るものがある。
しかし、武田家同様に奉行制度を確立して集団指導体制を整えていたが「天下を競望することなかれ」と遺言したのは、織田信長など革新的な時代の変化を予測したともされ、毛利元就の洞察力と先見の明は計り知れないものがあるように感じる。
武田信玄や上杉謙信同様に、家臣には常に気を使っていたようで、身分が低い者にまで親しく声をかけたと言う
また長年の宿敵であった宍戸隆家は娘を嫁がせるなど、父・毛利弘元の遺言を守るなど律儀な面も見られる。
そして、強力な水軍を擁する小早川家には、3男を養子に出して小早川隆景とし、妻・妙玖の実家である吉川家へは2男を養子に送り吉川元春とし、勢力を拡大して行った。
毛利元就が参戦した合戦は、鏡山城の戦い、吉田郡山城の戦いなど、公式にわかっている戦いだけで220戦と非常に多い。
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大内家の主導で出陣した出雲遠征では、毛利元就が指揮できずに不利な戦いを強いられ、自身もあと少しで討死と言う手痛い敗北を経験している。
そのため、毛利元就は、大名として独立すべく、強引かつ拙速に権勢拡大を図って行くキッカケとなった。
厳島の戦いの際には、毛利家が動員できる兵力は最大で5000程度。しかし、敵の陶隆房が率いる大内勢は30000以上である。
この劣勢を挽回すべく、毛利元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀った。
そして村上水軍・村上武吉には「1日だけ味方してほしい」と交渉し、陶晴賢を自刃に追い込んでおり、大内氏は衰退して行った。
50年以上もの歳月を掛けて築き上げた所領は「なんとか天運味方して、危機をことごとくすり抜けてきた」と、毛利元就も謙虚に述懐している。
1557年に家督を毛利隆元に譲って隠居したが、この時「14箇条の遺訓」(三子教訓状)を作成し、家中の結束を呼びかけている。
この遺訓が「三本の矢」の逸話の基となった。
1本の矢は簡単に折れてしまうが、3本にまとまった矢は折れない。
このように、死ぬ間際の毛利元就は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景と言った3人の息子に対して、結束して毛利家を守っていくのだと説いた。
ただし、側室:乃美大方、三吉隆亮の妹、中の丸などが産んだ子も含めると、穂井田元清、毛利元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、毛利秀包、二宮就辰と男子はたくさんいる。
しかし、正室と側室の子の違いをはっきりさせていたようだ。
父や兄の死から、毛利毛歴代が酒に害されやすい体質であると察した毛利元就は、子らに節酒の心得を説いている。
孫・毛利輝元の元服式では、実母の尾崎の局に、小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外には、酒を飲ませないようにと細かく指示している。
毛利元就は徳川家康も顔負けの健康通で、75歳で亡くなるまで、下戸を貫き通したとされる。
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嫡男・毛利隆元に言い残した訓戒の1つは下記。
能や芸や慰め、何事も要らず。
武略、計略、調略こそが肝要にて候。
謀多きは勝ち、少なきは負ける。
・毛利氏発祥の地はこちら
・妙玖 (毛利元就の正室)とは
・厳島の戦い~戦国時代の三大奇襲戦と宮島の宮尾城と勝山城
・穂井田元清とは~桜尾城と洞雲寺の陶晴賢の首塚も
・毛利元秋とは~毛利元就には3人どころか10人も男の子供がいた?毛利元秋の墓も
・乃美宗勝とは~浦宗勝とも名乗り水軍を率いた小早川家の勇将
・小早川隆景【詳細版】~毛利家大きく支えた智将
・吉川元春~毛利家の中国制覇に大きく貢献した名将
・末次元康の解説~毛利の矢は3本だけじゃない・甥を支え続けた功臣
・猿掛城 山陽道の重要拠点となる穂田(穂井田)の山城
・村上武吉~瀬戸内海の村上水軍を率いた日本最大の海賊
・宍戸隆家 毛利家を大きく支えた重臣筆頭
・吉川元春~毛利家の中国制覇に大きく貢献した名将
コメント
コメント ( 5 )
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数か月前に大河ドラマ「毛利元就」を見ました。
元就は早くに両親を亡くすなど、耐え難いといえる経験をしていますが
75歳まで生き中国地方を制覇しました。
それは、正室の方、そして息子たちが元就の心の支えとなっていたことも考えられます。
さらに、調略とはいえ悪い言い方をすれば「卑怯な手」を使って勢力を拡大していきました。
普通に考えれば人心が離れてしまいますが、彼を裏切るような家臣もいませんでした。
息子たちや家臣への心遣いやものの伝え方なども調べてみるとおもしろいかもしれませんね
しげさま、いつもコメありがとうございます。
そうなんですよね。毛利元就はやはり、家臣の掌握もうまいと申しましょうか、見らなう点が多く、エピソードなども多いと思います。
しかし、なかなか西国の武将まで、手が回らない状態で、当サイトにおいても課題なのでございます。
執筆して下さる方がもっといればよいのですが・・。(^-^)
いつも楽しく拝見させていただいてます。
毛利元就の誕生日は4/16日ですよ。
935さま、ご指摘、誠にありがとうございます。
記事での月日に関しましては、できる限り、旧暦の日付にて記載させて頂いております。
新暦ですと、ご指摘の通り4月16日と言う事で間違いございませんが、旧暦ですと3月14日となりますので、ご参考賜りますと幸いです。
旧暦だったのですね。失礼しました!!