源頼家の解説~5分でよくわかる鎌倉幕府第2代将軍「2代目鎌倉殿」

源頼家

源頼家とは

源頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代の1182年8月12日に生まれました。
父は鎌倉幕府を開いた源頼朝で、母は正室・北条政子となり、嫡男として、鎌倉・比企ヶ谷にある比企能員の屋敷で誕生しています。
幼名は源万寿と言いました。
源頼朝の乳母であった比企尼の養子・比企能員が父乳母となり、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女である河越重頼の正室があたり、梶原景時の妻のほか、比企尼の三女である平賀義信の正室)、比企能員の妻などが担当しています。

源頼家

1193年5月、富士の巻狩りでは、当時12歳の源頼家が、初めて鹿を射りました。
この鹿狩りでは、曾我兄弟の仇討ちが発生しており、叔父・源範頼(源義朝の6男)が謀反の疑いにて、伊豆・修禅寺に流罪となったあと、結城朝光、梶原景時、仁田忠常らによって誅殺されています。
※源範頼の正室は、安達盛長丹後内侍(比企尼の長女)の間に生まれた娘。


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1195年2月、源頼朝は、北条政子・源頼家・大姫と上洛して宮中に参内しています。
また、奈良・東大寺の大仏殿の落慶供養にも参列し、石清水八幡宮も参拝しました。
ただし、この上洛は、大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行ったものとされています。

東大寺の大仏

1198年、比企能員の娘・若狭局が、嫡男となる源一幡(いちまん)を産んでいます。
側室としては、源頼朝の右筆で僧侶だった昌寛(しょうかん)の娘、足助氏の祖である足助重長と源為朝(鎮西八郎)の娘との間に生まれている娘(足助重長の娘)などが見受けられます。

鎌倉幕府第2代鎌倉殿

1199年1月13日、父・源頼朝が急死すると、源頼家は家督を相続し、鎌倉幕府第2代鎌倉殿となりました。
武勇に秀でた源頼家は、18歳と言う若さではありましたが、父が残した有能な幕府吏僚を率いて、武家の棟梁として、新たに振る舞うはずでした。
しかし、約3ヶ月後には、源頼家による訴訟裁断が停止され、大江広元三善康信中原親能二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政北条義時三浦義澄和田義盛によって「十三人の合議制」がしかれ、政治の実権を失っています。
そのため、源頼家は、自分ヘの取り次ぎ権利(目通り)と、狼藉不問の特権(手向かってはいけない)を、側近である小笠原長経比企宗朝比企時員、中野能成など、5人に与えて、抵抗するも、権力の回復には至らず、鎌倉殿は幕府の象徴のような存在となりました。

1199年7月から8月、源頼家は、中野能成・和田朝盛・比企宗朝・小笠原長経らに命じて、安達盛長の愛妾を奪おうとしましたが、北条政子が阻止した模様です。
少なくとも源頼家に理解を示していた侍所長官・梶原景時でしたが、結城朝光を讒言したとの風聞が立ち、反発した御家人66名が、梶原景時の排斥を求める連判状を、源頼家に提出します。
11月、梶原景時は、一切弁明せずに、一族にて所領の相模・一ノ宮城(梶原景時館)にて謹慎しました。(梶原景時の変)
年が明けると、鎌倉追放を申し渡された梶原景時は、一族を連れて、京へ向かいしましたが、その途中、駿河にて吉川友兼らと戦闘となり、梶原氏の一族、梶原景茂ら33名は自刃しました。
その後、梶原景時と縁があった城資盛が、越後・鳥坂城に籠城して反乱(建仁の乱)を起こし、女武者・板額御前の活躍が知られています。


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それから3年後、1203年5月、源頼家は、源千幡の乳母・阿波局の夫で、叔父でもある阿野全成を、謀反の疑いで捕縛すると殺害しました。
源義朝の7男(源義朝と常盤御前の子)である阿野全成は、北条政子の妹である阿波局(北条時政の娘)を正室にしており、北条時政・北条義時と結んで、次期将軍には、北条政子が産んでいた源千幡(源実朝)立てようとしていました。
武田信光を派遣して阿野全成を捕らえると常陸国に流刑とし、更には八田知家に命じて誅殺しました。
また、阿波局の引き渡しを北条氏に求めましたが、母・北条政子が引き渡しを拒否しています。

この頃から、体調不良に悩まされていた源頼家は、7月に入ると倒れ、8月末には危篤状態となりました。
そのため、存命中から次期跡取りの争いとなり、長男・源一幡と、源頼家の乳母父で外祖父にあたる比企能員が、北条時政の策略にて謀殺されました。(比企能員の変


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病状が少し回復して知らされた源頼家は、堀親家を仁田忠常と和田義盛に使わし、北条時政を討つよう御教書(密書)を送ります。
しかし、和田義盛は、その受け取った御教書を、北条時政に渡したため、工藤行光によって、堀親家は殺害され、すでに源頼家に従う者はいませんでした。

源頼家の若き死

比企能員の死から5日後には、北条政子の命にて、源頼家は出家扱いとなり、跡目となった源千幡は、北条時政の邸宅に移っています。
しかし、牧の方(北条時政の継室)が悪時をたくらんでいると、源千幡(源実朝)の乳母・阿波局が北条政子に報告したため、北条政子は、源千幡を北条時政から引き取っています。
そして、9月15日、源千幡(源実朝)に征夷大将軍が宣下され、北条時政と大江広元によって、源頼家は鎌倉追放されて、9月29日に伊豆・修禅寺にて謹慎となりました。
翌年の元久元年(1204年)7月18日、源頼家は修禅寺の門前・虎溪橋のそばにあった箱湯(筥湯)での入浴中に、金窪行親に襲撃されて死去。享年23。

修善寺温泉・筥湯

亡くなった時のエピソードとしては、金窪行親が源頼家の首に紐(ひも)を巻き付けると、激しく抵抗したため、急所を押さえて刺し殺されたとあります。
小説「半七捕物帳」などで知られる幕末の劇作家・岡本綺堂(あかもと-きどう)の「修禅寺物語」は、源頼家の死を取材しており新歌舞伎の古典として名高いです。
また、その前には、漆がたっぷり入っている湯舟に入り、全身が腫れ上がったと言う暗殺未遂の話もあります。

幽閉された伊豆・修禅寺の付近には、源頼家の供養のために、北条政子が建てた指月殿、江戸時代中期に建立された源頼家の供養塔などが残されています。
下記は、修善寺にある源頼家の墓になります。

源頼家の墓

下記は、北条政子が供養のために建立した、指月殿(しげつでん)です。

指月殿

次男・公暁(善哉)は、叔父・源実朝の猶子として、鶴岡八幡宮の別当にもなりましたが、3代将軍となった源実朝を、1219年、鶴岡八幡宮にて暗殺し、親の仇をとったあと、北条義時の命にて討たれています。
栄実(千寿丸)は、泉親衡の謀叛の企てに利用されて出家したあと、和田義盛の残党に担がれて、六波羅の襲撃に失敗し自刃しのした。
禅暁は、源実朝の暗殺事件後に、仁和寺へ預けられていましたが、公暁に加担していたとして、殺害されました。
竹御所(たけのごしょ)と言う娘は、叔父・源実朝の養女となって、北条政子の死後、実質的な後継者となりました。
1230年、4代将軍・藤原頼経(九条頼経)の正室となっていますが、4年後に難産で死去し、源頼朝と北条政子の血筋は途絶えています。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼家を俳優の金子大地さんが演じられます。

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