豊臣秀勝 (羽柴秀勝)~豊臣秀吉の親戚・岐阜宰相(小吉秀勝)

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豊臣秀勝 (羽柴秀勝)とは

豊臣秀勝(とよとみ-ひでかつ)は、戦国時代の1569年に萩原城で生まれた。幼名は小吉(こきち)。
父は尾張の萩原城主・三好吉房(出自不詳)。母は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の姉・日秀(とも)。
実兄に豊臣秀次、弟に豊臣秀保がいる。

羽柴秀吉が織田信長の元で出世して行った事と子供がいなかった事で、縁者として父・三好吉房や兄・羽柴秀次らと共に羽柴秀吉に仕える事となった。

本能寺の変で、明智光秀により織田信長が亡くなり、柴田勝家も滅ぼし、天下取りに向けて実力をつけた羽柴秀吉の信頼できる親戚衆としてより一層栄華を極める事となる。

1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任し、豊臣秀吉と名乗ると、同じ1585年10月18日頃、羽柴秀勝はお市の方の娘・浅井江(お江、お江与、崇源院)を正室に迎えた。
浅井江(お江)は、佐治一成と婚姻していたが、羽柴秀吉によって離縁させられて羽柴秀勝と再嫁したのだ。
2人の間には、1592年に羽柴完子と言う娘が生まれ、淀殿に養育され、のち藤原氏摂関家・九条幸家の正室になっている。
完子の子孫は代々関白を歴任し大正天皇の皇后・九条節子は昭和天皇を生んでいる。

1585年12月に羽柴秀勝(織田信長の4男で、羽柴秀吉の養子)が18歳で病死すると、遺跡である丹波29万石を相続して亀山城主となると左近衛權少将に任官したこともあり「丹波少将」と呼ばれた。隻眼であったとも伝わる。
織田家の血を引く羽柴秀勝を邪魔だと感じた豊臣秀吉によって殺害され、同じ名前の人物(豊臣秀勝)にすり替えられたとする説もあるが、織田秀勝の死を嘆き悲しみ、同じ名前を使わせたと言う見方が強い。


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1587年、豊臣秀勝は九州平定に予備軍として5000を率いて従軍。
戦後の論功行賞で活躍しなかったにも拘わらず、知行の不足を訴えた為、羽柴秀吉の不興を買い、結果的に所領没収になったとされる。
※一柳直末の後任として美濃大垣城主に任じらたとも?

しかし、1588年には豊臣姓を下賜されるなど次第に許され、1589年には後継ぎがないため廃絶した蜂屋頼隆の遺領50000石を継いで敦賀城主となった。
※ただし、同年に豊臣秀吉は敦賀城を大谷吉継に与えている。

1590年の小田原攻めには小田原征伐に参陣。その戦功によって7月には甲斐と信濃2か国(62万石)を与えられ、甲斐の要害山城(躑躅ヶ崎館)を居城とした。
ただし、一条小山に新城(甲府城)を築城開始したと考えられている。
甲斐では郡内地方や河内の検地実施を試みたり、寺社への寺領安堵や禁制、中道往還の右左口に対する諸役免許発行などの実績が見られるが、治世は僅か8ヶ月で、1591年3月には美濃国を与えられ岐阜城へ移、甲斐・信濃は加藤光泰に与えられた。
なお、正室・お江は京都聚楽第の豊臣秀勝屋敷に居住しており、甲府や岐阜へは赴いていなかったと考えられている。

また、小田原攻めの後、実兄・豊臣秀次は改易された織田信雄の旧領の尾張・伊勢北部5郡など100万石になっており、父・三好吉房は尾張犬山城主となった。

同じ1591年、実兄・豊臣秀次が豊臣秀吉の跡継ぎとして関白に任じられた。
豊臣秀勝自身も、従四位下参議に任じられ「岐阜宰相」と呼ばれ栄達を極めた。

文禄の役では8000を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将として朝鮮出兵。
しかし、病にかかり朝鮮の巨済島にて1592年9月に24歳と言う若さで病死した。
遺体は京の嵯峨亀山に葬られ、遺領である岐阜は織田秀信に与えられた。


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正室のお江は1595年に徳川秀忠と再婚することになったので、娘の完子は茶々の猶子として引き取られたのだ。

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