木付鎮直と木付統直とは~杵築城の戦い・石垣原の戦い【杵築城訪問記】


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杵築城(きつきじょう)は木付城、勝山城、臥牛城とも呼ばれる連郭式平山城で、八坂川河口の台山(だいやま)に築かれ、3方を川と海に囲まれた天然の要害になっています。

最初の築城は、1393年の木付頼直とされ、木付氏が代々の居城としました。比高は10mです。
木付氏は大友氏の一族となり、もともとは竹ノ尾城が居城でした。

戦国時代には、戸次川の戦いに勝利した島津家久が府内の大友館を襲ったあと、新納忠元の大軍が木付城(杵築城)に攻め寄せました。

この時の木村家当主は、第16代の木付鎮直(きつき-しげなお)です。

子の木付統直(きつき-むねなお)と共に豊後・木付城にて2ヶ月に渡る籠城をします。
そのうち、豊臣秀吉の九州攻めの部隊が続々と接近したため、新納忠元が撤退を開始した1587年2月22日、城から討って出ます。
追撃は見事に成功し島津勢は大打撃を受け、木付鎮直と木付統直は勝利を納めたため、木付城は「勝山城」と呼ばれたともあります。

1593年、文禄の役では子の木付統直(木付左衛門尉統直、木付三郎)が一族5名、騎馬武将33三騎、歩卒77名、合わせて150名を率いて大友義統に従っています。
この中には、木付統直(木付左衛門尉統直)の子・木付直清(木付甚九郎直清)も伴い朝鮮に渡って戦いました。
しかし、鳳山の戦いで嫡子・木付直清は討死したようです。
そして、追い打ちを掛けるように、大友家が豊臣秀吉の逆鱗に触れてしまいます。

鳳山城を破棄して敵前逃亡した罪により、主君である大友館主・大友義統が所領没収・改易となるのです。
大友義統に従って朝鮮で戦っていた木付統直は帰国の途につきますが、関門海峡(門司の浦)で入水自害してしまいました。

この悲報が木付城(杵築城)に届くと、子・孫、そして主家も失った木付鎮直は、妻と共に自害して果てます。享年66。
そのため344年間、木付城(杵築城)にて、輪違い・抱き杏葉の家紋を掲げて来た木付氏の歴史は幕を閉じました。

その後、木付城(杵築城)には、1595年に豊臣秀吉の五奉行の一人である前田玄以が入りました。

しかし、すぐに丹波・亀山城に移ったようで宮部継潤を経て、翌年の1596年には近江・坂本城から杉原長房が木付城主となっています。

1598年には、その杉原長房が但馬・豊岡城へ移封となり、1599年、丹後・宮津城主である12万石の細川忠興が、徳川家康の推挙で豊後杵築6万石が加増され、杵築城も支配しました。

細川忠興は、木付城(杵築城)に重臣の松井康之(松井佐渡守康之)と有吉立行(有吉四郎左衛門立行)を派遣して領内経営をさせています。
そして、4月15日には細川忠興本人も杵築を視察し、木付城(杵築城)の大幅改修が開始されました。

1600年、関ヶ原の戦いの際には、旧領主・大友義統は西軍に属して再起を図ります。
豊後に上陸すると、吉弘統幸ら岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生、200騎が木付城(杵築城)を攻め「杵築城の戦い」となりました。

1600年9月10日夜、木付城・二の丸にいた野原太郎右衛門が大友勢に内通して城下に火が掛けられます。
この時、松井康之・有吉立行らは、残すは本丸のみと言う所まで押し込まれましたが、松井康之が相原山に伏兵を置いて柴田統生を討取るなど反撃します。

中津城にいた黒田官兵衛(黒田如水)は、攻撃予定であった垣見一直の富来城を後回しにして、熊谷直盛の軍を撃破し、木付城(杵築城)に駆けつけます。
これを見た、大友勢の吉弘統幸らは別府・石垣原へ撤退し、黒田勢と杵築勢による「石垣原の戦い」が9月13日に別府にて行われました。

黒田官兵衛の兵は臨時に雇った農民が多いですが、指揮は母里太兵衛(母里友信)、井上九郎右衛門(井上之房)、栗山善助(栗山利安)といった歴戦の勇士であり、杵築城の松井康之を合わせて約1万でした。
それに対して、大友義統らは3000と劣勢だったこともあり、吉弘統幸・宗像鎮統など名だたる武将が討死。
大友義統は自刃しようとしましたが、田原親賢に諌められ、剃髪すると大友宗麟の娘が妻である母里太兵衛(母里友信)に降伏を打診し、中津城に連行されました。

石垣原の戦いの石碑(石垣原古戦場跡の碑)がある場所には、無名戦士の供養碑が数基安置されています。
石垣原古戦場跡の碑がある場所は、下記の地図ポイント地点となります。
駐車場はありません。

なお、熊本城加藤清正も援軍を向けて、別府を見下ろす旗の台まで進出していましたが、松井康之より勝利の報告が入ると熊本に戻っています。
※旗の台の写真はこちらのページ下部にあります。

関ヶ原の戦いあとには、細川忠興が豊後・木付6万石に加算される形で39万9500石にて中津城に入り、更に城下町が整備されました。

1632年、細川忠利のとき小倉城から肥後・熊本城へ転封となり、代わりに小笠原忠真が小倉城に入ります。

このとき、小笠原忠真は弟・小笠原忠知に木付40000万石を与えて大名にしたため、ここで初めて木付藩(杵築藩)が成立しました。

1645年に、小笠原忠知は三河・吉田城へ転封となったため、豊後高田城より松平英親が3万2千石で木付に封じられます。
この時、松平英親は台山の北西麓に御殿を築き、それまでの山城部を廃棄しました。

本丸の天守は1608年の落雷で焼失しており、再建されることはなかったと言います。

なお「木付」が「杵築」と言う漢字になってしまった理由は、1712年、徳川幕府の将軍・徳川家宣の名にて、木付藩3代藩主・松平重休に発給された朱印状に「豊後国杵築領国埼速見弐郡」とあったことからに始ります。
間違って記載されていたようですが、木付藩では幕府に願い出て、1712年8月14日より「木付」を「杵築」と改めました。

そして、明治維新まで松平家が10代数えて杵築城を本拠としました。

現在の天守は独立式望楼型3層3階の模擬天守となります。
杵築城の良い所は、むしろ風情ある城下町が色濃く残っている点です。

城下は、杵築城の西にある台地の先端が2つに分かれている箇所にあります。
2つの伸びた丘の上に武家屋敷が並びます。
その2つの台地に挟まれた低地(杵築市役所などがあるところ)が商人町だったようで、地元では日本唯一の「サンドイッチ型城下町」なんて命名されています。

下記は有料拝観の杵築藩の家老・大原邸です。

大変立派な武家屋敷になっています。

この2つに別れた城下町が、ほんとうによい雰囲気を出していまして、杵築を代表する観光地にもなっています。
臼杵城の城下町より見どころが多く気に入りました。

大分空港から別府や大分に出る際には、必ず杵築を通過します。
お時間が許せば、是非立ち寄って頂きたい場所です。

さて、杵築城の駐車場ですが、下記の地図ポイント地点となります。
ちょっと分かりにくいのでカーナビで指定していると良いです。

上記の駐車場は西から入ると大きな鳥居がありますが、突き進みます。
赤い橋を渡って道なり登って行くと途中、コンクリートの建物脇にも駐車場がありますが、無視してとにかく突き進んだ終点の駐車場が杵築城に最寄りで、高低差も少ないです。

また、城下町にも数箇所、駐車場がしっかりと設けられていますので、観光しやすいです。
大分空港などで杵築の散策マップを手に入れたいところです。

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