日本の馬(戦国期の軍馬)が気性が激しかった理由

落馬事故死した3武将




 前回『落馬事故死した武将』という記事を書かせて頂き、その中で十河一存佐竹義重源頼朝の3人物を紹介致しましたが、これらの人物の落馬事故死は、氷山の一角過ぎず、日本(無論海外も含め)で、落馬によって負傷或いは不幸にも命を落とした人は数多いるのも確かでございます。
 落馬事故の原因は、「乗り手(騎手)の技術未熟」「大音など突発的な環境変動により、乗り手を振り落とす」等々、様々あるものですが、その中でも主因となるのは『馬自体』にあります。
 馬の調教(乗用馬としての訓練/馴致)が不十分であったり、馬が生来、相当小心(ビビり)な性格であるために、少しの音などに驚いてしまう、ということが挙げられます。また逆に、気性があまりにも激しく癇の強い馬(それは調教が不十分な部分も大いに関わってますが)も、尻跳っね/棹立ちなどを行い乗り手を振り落とそうする馬もいるのであります。特に、噛み付く、棹立ちになって相手を威嚇するなど気性が激しい馬には「未去勢の牡馬(雄馬)」が多いのであります。

 日本の馬飼養史、日本畜産史と言っても過言ではないのですが、古代から江戸期という近世にかけて日本国内で飼養されていた牡馬に対して生殖器官を人工的に取り除く措置『去勢が行われなかった』という諸外国からしてみれば、極めて特異な歴史を持っているのであります。
 歴史作家・司馬遼太郎先生は、一大紀行シリーズ『街道をゆく33 白河・会津のみち 赤坂散歩』(朝日文芸文庫)の本文で、古代より日本では東北(奥州)および関東(坂東)は馬の一大産地であり、その軍馬(騎馬武者)という軍事力を背景して源頼朝と坂東武士たちが政権を確立したことを書かれた上で、当時の日本(東日本)の馬文化の独自性も以下のように書かれておられます。

 『奥州も関東も馬地帯ということである。ところが、世界の騎馬民族史からみると、坂東・奥州の馬文化は特異(ユニーク)であった。オス馬を去勢せず、去勢の思想も技術もなかったことである。ユーラシア大陸では信じがたいほどのことらしい。』
 
 『たとえば、13世紀のモンゴル帝国の軍用馬はすべてオスで、さらには去勢馬以外は絶対につかわれなかった。(中略)ヨーロッパの場合も、軍用・農耕のオス馬は、種馬をのこしてすべて去勢されていた。』

 『ともかくも、坂東・奥州の乗り手たちが、ナマ(非去勢の)馬を駆っていたということが、普遍的な騎馬文明とは異なっていた。』

(以上、「関東と奥州と馬」の本文より)

 未だ種(生殖器官)が付いている牡馬に去勢を行うことによって、その生殖機能を絶やし「悪い馬の血筋淘汰」というのも目的もありますが、他にも『対象馬の気性も和らげる』という重要な手段も含まれています。因みに馬以外の家畜動物である雄牛や雄羊などにも普通に去勢を行いますが、それを行うことによって「動物の肉質を向上させる」「肉質に含まれる独特の臭みを抜く」など、食肉品質向上目的もあります。
 中国・欧米などユーラシア大陸中心では、(スキタイ・匈奴・蒙古など遊牧民族の活動が好例のように)、古代より馬・羊・山羊・牛などを多種多様な畜産動物を、盛んに飼養生産してきた諸外国では、より多くの質の良い肉や乳・毛皮などを得ることに腐心し、良き動物の血統は遺し、悪い血統は根絶するために、去勢は当たり前のように行われておりました。
 その措置は、(上記の司馬先生がモンゴル軍の軍馬についてお書きになられた如く)、馬に対しても勿論例外ではなく、良馬の血は遺すと同時に、気性穏やかで騎馬として調教し易い馬に仕立て上げるために去勢が行われ、その馬たち(「騸馬」=せんば、去勢された牡馬)が重宝されることによって、欧米を中心とするユーラシア大陸では乗馬技術(西洋馬術)が発展してきたのです。
 もう一点、日本とは違い外国の馬飼養で大きく違った点を挙げさせて頂くと、(宣教師ルイス・フロイスも『日欧文化比較』で指摘していますが)、諸外国では広大な大陸を疾駆する馬蹄の摩耗を防ぐ目的で「蹄鉄(鉄沓)」を蹄に装着する装蹄技術も諸外国では発達しましたが、日本では蹄鉄技術は全く発達せず、藁沓、即ち馬用草鞋が蹄鉄の代わりに主流となっていました。「馬にも草鞋」とは、稲作国家の日本らいし技術ですが、国土の大幅を急峻な山や河川・湿地帯であった昔の日本では滑り止め防止には良かったのです。
 
 西洋馬術や獣医学が本格導入される明治期以前までの日本では牡馬の去勢は、(江戸中期の数例を除いて)前述のように、行われることはありませんでした。
 『日本農書全集』という面白い書籍シリーズが社団法人・農山漁村文化協会から敢行されましたが、その第60巻(1996年刊行)に近世日本の畜産・獣医(伯楽とも)の古文書(現代訳文)が収められている書籍があります。
 その書籍の中には、使役牛の疾病や怪我の治療および対処法が網羅されている『牛書』(江戸中期刊行 著者不明)、馬の居住空間(厩舎)および馬の飼料や給餌方法が記されている『厩作附飼方之次第』(刊行時期および著者名は不明)などが収められており、中近世の日本獣医史を知る上で、とても読み応えのある素晴らしい内容となっていますが、同じく収容されている古文書の中で、江戸幕末(嘉永5/1852年)に太子流の馬医(獣医)であった菊池東水(諱:武樹)にとって著された『解馬新書』(1・2巻)というのもあります。
 本書は、西洋学が横行した時代背景(幕末期)としている折に刊行されたので西洋医学(オランダ学)が大いに適用され、それまでの東洋医学(陰陽五行説、鍼灸術や漢方薬)に依存した内容とは一線を劃しており、詳細な馬の解剖図も書かれている合理的な書物であり、近代獣医学の始祖を思わせます。
 その第2巻第9項に「馬の去勢(騸篇 第九)」について短文ながらも、外国では馬を含める家畜動物に対して去勢が行われていることが以下のように序文から紹介されております。
 
 『馬の去勢は、西洋や中国で馬を駿馬にしたいときに、精巣を除去して性欲を断つことである』(「夫れ騸(筆者注:牡馬)は、西洋及び支那、馬をして駿良ならしめんと欲すれば、則ちその睾丸を断って、以て其の欲念を断つ」)

 つまり海外では駿馬にするために、馬に去勢を施し気性を和らげると説明しているのであります。『しかしながら』と、東水は本編は以下の如く結んでいます。

 『しかしながら、わが国の風俗として、これまでに去勢術は実際行ったことはない。』(「邦俗いまだかく如く実測を尽くすもの有らず」)
 
 余談でありますが、解馬新書を著した菊池東水は、徳川将軍家の御三卿の一橋家(即ち一橋慶喜)に馬医として仕えた人物であり、次回のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一も青年期は、東水と同じく一橋家に仕えていたことは有名でありますから、こじつけ覚悟で言うと、東水と栄一は、同じ主君を戴く同僚であったのです。時期もほぼ同時代でありますから、もしかしたら東水と栄一は顔を合わせていたかもしれません。飽くまでも想像の世界の与太話でありますが。
 

 江戸幕末には、既に馬の去勢術について知識としては入っていたのですが、東水先生が記すように、『わが国の風俗(邦俗)』が主因となって実際に去勢は行われていなかったのであります。
 解馬新書内に『わが国の風俗』についての詳細の記述はございませんが、この点が正しく『要点』であると筆者は思っております。
 江戸期あるいは、その以前の戦国期、武士の勃興期である源平争乱~鎌倉期も含める、武家政権の時代に横行していた馬に対する『風俗』とは何か?それは未去勢の気性が激しく癇が強い『悍馬(牡馬)』を巧みに乗りこしてこそ一人前の武士である、という考え方が一般的であったという事であります。
 源平争乱~江戸期を通じ武士・大名が騎乗していた馬(軍馬)は、未去勢の男性ホルモン(つまり攻撃性)が強い牡馬が使われており、対して柔和な性格が強い牝馬(メス馬、ひんばと呼ぶ)は、戦場を駆る武家には好まれず、専ら農耕や荷駄など、専ら使役馬として使われていました。因みに現在の馬術や乗馬の世界では、牝馬も騎乗用として多々使われております。
 

 『気性の激しい馬を乗りこなしてこそ一人前の武士であるように、クセの強い家来を使いこなしてこそ真の大将である』武田信玄

『名馬は悉く悍馬より生ず』伊達政宗

『名馬に癖あり/癖ある馬に能あり』(日本の諺)

『男子須らく巌頭に悍馬を立たしむべし』(初代司法卿・江藤新平、「男子たる者、悍馬に乗って切り立った絶壁に立つ如く意気込みで危険に挑め」)

 以上の箇条書きをご覧になってお分かりになるように、武家ひいては日本では「悍馬」が尊重させていたことを物語っており、その乗り手に対して従順ではない剽悍な馬を上手く御し駆ってこそ優れた武士(乗馬のプロ)であると昔の日本人では強く信じられていたのであります。
 最初に挙げさせて頂いた格言を遺した武田信玄。この名将の愛馬が『黒雲』という名馬であったことは歴史通の間では有名でありますが、その黒雲、正しく戦国期の名馬=悍馬、気性が激烈な馬の代表格の存在であり、信玄本人しか黒雲を乗りこなせなかった逸話もまた有名であります。
 その黒雲についての有名な挿話があります。日本映画界の巨匠・黒澤明監督の名作『影武者』(東宝、1980年公開)の劇中で、信玄の弟・武田信廉(演:山崎努さん)たち武田氏重臣によって奉戴された信玄の影武者(演:仲代達矢さん)がある日、信廉たちに黙って黒雲に乗って落馬してしまい、それが原因で信玄の側室たちに自分の正体が明るみになり、影武者はお役御免となってしまうシーンがありますが、これは信玄本人しか乗りこなせなかった黒雲の逸話、ひいては戦国期の軍馬の気性の激しさを物語っているものであります。
 因みに、信玄の父である武田信虎の愛馬「鬼鹿毛」も名うての悍馬であり、武田氏家督相続前の信玄が信虎に対して、鬼鹿毛を所望したが信虎が無下に断った逸話も有名であり、古代より朝廷の御牧(官営牧場)が多く存在する甲信地方で活躍した信玄には、「武田騎馬隊伝説」を含め馬と関わる逸話が多くあります。

 武家の馬術=乗馬の修練は、武士が政権を把握した鎌倉期から、俗に『弓馬の道』と称せられるように武士にとって必須科目であり、「流鏑馬」「犬追物」「笠懸け」という騎射三物は武士(特に東国武士団、御家人)たちは、馬を御しつつ弓矢を射る訓練に勤しんでいたのであります。
 勿論、鎌倉期の武士団たちが乗っていたのも悍馬であり、彼らの棟梁にして鎌倉幕府の創設者・源頼朝の愛馬である「生食(いけずき、生月とも、後に佐々木高綱の馬となる)」は、「生けるものを食い殺すほどの猛々しき悍馬」であったから生食という物騒な名前が付いたとされるのですが、この例に採って見てもわかるように、武士が勃興した鎌倉期以来、日本では悍馬が好まれたのであります。しかし、生き物を食い殺すほどの獰猛な馬とは、現代感覚からすると、最早ウマではなく、『猛獣の類』であります。
 『日本の馬(在来馬)は猛獣である』という感覚は、筆者だけのものではなく、戦国期ひいては近世の日本に訪れて、実際に日本馬を観たりした外国人も実感したものであり、彼らは後世にしっかりと日本の馬についての感想を遺してくれています。
 先ずは戦国期に来日し、キリスト教布教のために生涯を捧げる一方、『日本史』『日欧文化比較』などの大作を著し戦国期日本の在り様を、我々後世に伝えてくれた偉人・ルイス・フロイス(1532~1597)。
 フロイスは自著『日欧文化比較』(別名『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫 岡田章雄氏 訳注)の第8章「馬に関すること」内にて西洋の馬と日本の馬の違いについて紹介しており、その本文で以下のように書いています。

 『われわれの馬は走っていても、ぴたりと止まる。彼らのはひどくあばれる』(第4項)

 『われわれの馬は臀(しり)に乗ることを許す。日本のは、そのように慣らされていない』(第5項)

 よく時代劇などで疾走している馬を騎手(武士)が手綱を引っ張り、急停止させると馬が棹立ち状態なるシーンを見掛ける場合がありますが、悍馬で西洋に比べ馬の調教技術が未熟な当時の日本では、馬を急停止させると騎馬が怒り反抗して、乗り手を振り落とすべく棹立ちになることが多かったと思われます。フロイスもその場面を多々見たのかもしれません。また馬が臀部に人を乗せることを忌む箇所も、馬がその様に調教されていないために尻跳ねして、臀に乗った人を落とそうとした事をフロイスは書いたと思います。

 フロイスはご存知のように戦国期に来日し、当時の日本文化や風習を観察記録した西洋人でありますが、時代が下って江戸幕末期に来日した西洋人(ドイツ人)、ハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)。成功した実業家にしてギリシャ神話で有名な古代都市「トロイア遺跡」を発掘した偉大な考古学者でもあったシュリーマンも来日した際に、当時の日本の馬(悍馬)について以下のように書き記しています。

 日本の馬はいつも互いに喧嘩しようとしている。全くひねくれていて、人に懐かない。街道で荷を運んでいる馬に出会ったら、馬を避けて回り道をしなければならないくらいだ。牝馬は牧場にいるか、仔馬を産むために田舎に留められているので、牡馬(筆者注:未去勢馬)しか見ない。』

上記は、シュリーマンが、1865年にインド・清国(当時の中国)と日本などアジア諸国を旅行した後に書き記した『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫 石井和子氏 翻訳)に書かれている一文であり、シュリーマンが日本の役人5名の護衛の下、馬で横浜から江戸へ向かう途上の休息の折に、彼の日本馬への感想が上記のように書き綴られています。
 シュリーマンは日本の風習や日本人たちの教養(識字率)・人格の高さなどについて好意溢れる感想を多々遺してくれていますが、日本在来馬の性格の獰猛さに対しては、前掲の如く酷評しております。
 シュリーマンと殆ど同時期に来日していたプロセイン王国の駐日公使・F・オイレンブルク、米国の地質学者・鉱山開発者であったR・パンペリーら外国人も、『日本の馬は体格が小さいくせに、噛みついたりする粗暴さと悪癖には困らされた』というように、在来馬への悪評を遺しています。
 文明開化をスローガンにして国際社会の仲間入りをした明治初期でも日本在来馬、大日本帝国陸軍の軍馬(未去勢の悍馬)の凶暴さについては諸外国で悪評であり、明治政府の本格的外征である「日清戦争(1894~1895)」・「義和団事件(別名:北清事変、1899年)」などで、日本騎兵が諸外国の騎兵軍団と軍事協同した際に、外国の軍人たちは(先述のシュリーマンたちと同様に)『日本陸軍の馬は猛獣だ』と酷評。
 義和団事件の後に日本陸軍側が書き記した記録でも、『わが国の出征軍馬のみは、素質獰猛で、牝馬を見ては隊列を乱し、(中略)各国兵から軽蔑嘲笑を受けた』と、恥を忍んで「日本在来馬=未去勢の悍馬の凶暴さ」を白状しています。
 源平鎌倉期から武士が日本の政権を握って約700年間、武家政権の世の中であり「性格猛々しい馬を御するようになるが一人前の武士である」という考え方が定着していた日本とって、明治期で迎えた対外戦争で諸外国の人々から『日本の馬は猛獣』と酷評あるいは嘲笑されてしまったのは、大きなカルチャーショックであったに違いありません。
 その証拠に明治政府は、義和団終結直後の1901年に、明治政府は3歳以上15歳未満の牡馬に去勢を施すことを義務付ける「馬匹去勢法」(馬政第一次計画の一環)を制定し、去勢技術員の育成および去勢奨励金の交付などを実施。去勢法が本格的に施行されたのは1917年以降でありますが、同年に全国1123ヶ所で牡馬の去勢が行われ、これ以降は年平均約3万頭も牡馬の去勢がされたほど、日本国内での牡馬去勢は普及しました。
 民間の方でも、近代日本馬術会の礎を築いた米国人獣医(お雇い外国人教師、後に第9代駐日米国公使)・エドウィン=ダンも、日本国内の牡馬去勢の普及に努めた人物であり、周囲から去勢術についての強い抵抗もありましたが、当時日本随一の馬術家(日本近代馬術家の始祖)であった函館大径(小野義三郎)の理解協力を得たりして、馬匹改良(去勢の普及)に努め、それまでの「武術としての馬術」という中世馬術から、「スポーツとしての乗馬」という日本近代馬術に変革させていったのです。
 しかしながら、余談の如く敢えて馬匹去勢法の施行について欠点を挙げさせて頂くと、馬の去勢が普及したことにより、伝統ある日本在来馬の頭数が激減しました。有名な木曽馬(長野県)をはじめ、対馬馬(長崎県)、野間馬(愛媛県)などの頭数激減ぶりは顕著であり、現在でも希少在来馬として扱われている状況でございます。悍馬を減らすという政策の欠点が、自然に在来馬の淘汰という結果に繋がったのであります。
 
 明治期は、官民一体となり軍事や経済面など様々な分野において一大変革を起こしたことは周知の通りでございますが、上記のように当時、多くの外国人の指摘によって『悍馬=名馬』『悍馬を乗りこなしてこそ本当の武士』という江戸期まで通用していた考え方が大きく変革したのであります。しかしながら武士時代の真っ只中というべき戦国期には当然、日本の馬=悍馬の最盛期でした。
 前掲のように武田信玄は「黒雲」という名馬を所持、信玄の宿敵である上杉謙信は「放生月毛」、織田信長は「大芦毛」、徳川家康は「白石」、といったように当時を代表する戦国大名も名馬を所持していましたが、彼らの軍馬は皆、未去勢の牡馬=悍馬であったのであります。
 現在での去勢技術や調教技術が行き届いている乗馬世界でも、落馬事故の危険性と隣り合わせで乗馬に臨みますが、戦国期当時に悍馬に乗っていた信玄や謙信、信長たちも生涯の内に落馬した可能性は大いにあるのですが、よく落馬で大怪我、最悪の場合は事故死にならなかったものであると筆者は、武将たちの乗馬技能に感心してます。以前、落馬事故死した武将として佐竹義重、十河一存などの名将を紹介させて頂きましたが、彼らも悍馬に乗っていために、振り落とされた挙句、命を落としたことが容易に想像が付くのであります。
 たとえ悍馬でも調教がしっかり施され、馬の性格が少しでも馴致されていれば、落馬事故の危険性は減るのですが、戦国期当時の馬の調教というのは、現在の調教法に比べて遥かに杜撰・乱暴で、武士の騎馬に対しては『乗り手に刃向かえば、力で抑えつける、責める』、という「目には目を歯には歯を」方式であり、武士が馬を調教するというのは、正に『武士vs馬』の合戦であり、現在よりも危険なものであったのです。そしてその戦を制し、悍馬を御することが出来た武士は一人前とされたのです。
 余談でありますが、悍馬を好んだ戦国武将たちの中で、例外的存在として思い浮かぶのが、黒田官兵衛(如水)と並んで、戦国期における軍師参謀の双璧(即ち「両兵衛」)とされる竹中半兵衛(重治)であります。半兵衛は、いつも気性穏やか馬に跨って出陣していた逸話が有名であります。
 
 竹中半兵衛の名を出して思い出したのですが、『悍馬(未去勢)の気性を作戦に用いて合戦(籠城戦)に勝利した』という極めて面白い一例が戦国期にあるであります。
 半兵衛が晩年に、当時織田信長軍の中国方面司令官であった羽柴秀吉に従軍して、1578年に播磨国(兵庫県南部)の最大勢力であった別所長治の本拠地・三木城攻防戦の中で35歳という若さで病没しているのは有名でありますが、その時期に秀吉・半兵衛たちと敵対した別所長治側の国人領主の1人で、淡河定範(長治の義理の叔父 1539?~1579?)という武将がいました。この人物こそ先述の悍馬の気性を利用して合戦に勝利した隠れた智将であります。
 現在でも山陽自動車道上には淡河サービスエリア(神戸市北区淡河町)があり、淡河という美しく珍しい地名が目に止まります。定範は同地に存在した淡河城を本拠しており、先述のように長治に加担し秀吉率いる織田攻略軍と敵対。よって1579年に秀吉の弟・羽柴秀長率いる軍勢に淡河城を包囲されてしまいます。
 定範は、その包囲軍に向かって牝馬数頭を放ったであります。(何度も記述させて頂いておりますが)、当時の軍馬は生殖器官が付いている未去勢の馬しか用いられていなかったので、その群れに牝馬を放つとどうなるか?牡馬は一気に興奮状態となり、牝馬を追っかけ回して、牝の尻に乗っかろう、つまり「交尾」しようとします
 筆者も何度も見たことがありますが、馬の繁殖(オスとメスの自然交配)をする折の牡馬の興奮状態は凄まじいものであります。『ブヒー!!!』と、それこそ馬でなく猛獣のような大奇声を常に発して、リード線(ホルダー)で制御している人間を無視するが如く、牝馬を目掛けて突進していくのですから、牡馬、悍馬の底力を思い知らされます。
 定範もその悍馬の気性(強い性欲と言ってもいいかもしれませんが)を熟知しており、淡河城を包囲される以前に、わざわざ場内に牝馬数頭を置いておき、籠城本戦で包囲軍に向かって牝馬を開け放ち、羽柴軍の騎馬武者の悍馬たちは、武者たちを無視して興奮状態となり陣形が乱れたのを好機とし、定範は攻撃を仕掛けて羽柴軍を撃破したのであります。
 「牝馬を使って敵軍を撃破する」という極めて奇抜な作戦を仕掛けるのを見ると、定範という武将は、三国志演義の天才軍師・諸葛亮(孔明)、太平記の名将・楠木正成のような神算鬼謀の才覚を持っているような智将を感じさせます。それが理由であると思えるのですが、コーエーテクモゲームスさん制作の人気歴史ゲーム「信長の野望」「太閤立志伝」の両シリーズにおける淡河定範は、マイナー武将の1人ながらも統率(或いは戦闘)・智謀能力の初期設定値は70代中盤と高めになっております。
 最終的には、天下の織田軍の強勢には抗えず、後に淡河城は落城。定範の正確な消息は不明(戦死説と生存説の両方あり)なのでありますが、当時の軍馬=未去勢の悍馬の生理的特性(メス馬を観ると100%興奮する)ことを逆利用した定範の優れた作戦には目を見張るものがあるのであります。

 以上のように、長々と日本の馬=戦国期の軍馬が何故気性が激しかったのか?という事を記述させて頂きました。未去勢の悍馬という、ある意味では猛獣に跨って疾駆していたのですから、佐竹義重や十河一存など千軍万馬の名将でさえも、「弘法筆の誤り」の如く、最期は落馬事故死してしまうのも頷けるのであります。全く恐ろしいものであります。
 皆様も自家用車という「鉄の馬」を運転をされることも多々あると思います。自家用車は悍馬と違い、乗り手に対して強い反抗はしませんが、どうか日々の運転にはご注意を。という運転下手を自負する筆者が一番気を付けなければいけないのですが。

(寄稿)鶏肋太郎

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