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九鬼氏は、天児屋根命(あめの・こやねのみこと)の末裔にして、古来、神祇伯(じんぎはく)を務めた大中臣氏を祖とされる。
熊野本宮大社の神官職を代々務め、もともと船を操るのが得意な一族として「熊野水軍」にも君臨していたと考えられる。
その後、熊野を追われ紀伊の九鬼浦に移って九鬼氏を称し、さらに子孫が志摩国・波切の川面氏の養子に入り、勢力を拡大して地頭になり志摩・九鬼氏の祖になったと考えられるが、詳細や出自は不明なところが多い。
“九鬼”は江戸時代頃より一般に“クキ”と通称されているが、本来は“クカミ”と称した。
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九鬼氏の苦悩
戦国時代になり、九鬼嘉隆 (くき、よしたか 1542年~1600年10月12日)は、九鬼嘉隆は志摩・田代城主である九鬼定隆の次男として波切城にて生まれた。母は甲賀(志摩市阿児町甲賀)の出身と言われるが名や詳細は不明。
この頃の九鬼氏は伊勢国司の北畠氏に属し「志摩海賊七人衆」のひとりに数えられていた。
1551年に父・九鬼定隆が死去すると、家督は兄の九鬼浄隆が継いだ。
この頃の鳥羽・志摩には多くの地頭いた。
橘宗忠(たちばなむねただ)の鳥羽衆を筆頭に、小浜民部の小浜衆、荒島左門の安楽島衆(あらしま)、浦豊後の浦衆、千賀志摩の千賀衆、国府大膳(こうだいぜん)の国府衆、甲賀雅楽(こうかうた)の甲賀衆、三浦新助の安乗衆(あのり)、青山豊前の志摩・和具衆、越賀隼人の越賀衆、的矢美作の的矢衆。そして、九鬼浄隆の田城衆、九鬼嘉隆の波切衆があり、志摩地頭13人衆と呼ぶ。兵力は九鬼氏が断然多く、他の地頭達は九鬼氏の勢力拡大を危惧していた。
九鬼嘉隆はこのようにの波切城主として兄・九鬼浄隆を助けていたが、九鬼嘉隆が19歳のとき、伊勢から追われる事になる。
1560年、以前から不仲だった志摩海賊衆仲間の掟に背いたとして、志摩の地頭12人衆が連合軍を起こし、伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城城を攻めた。
これに対して九鬼浄隆と九鬼嘉隆の2人は田城城に篭城するが、篭城中に九鬼浄隆が病死(戦死とも?)してしまう。
九鬼浄隆の子・九鬼澄隆が九鬼氏本家を相続したがまだ幼かったようで、九鬼嘉隆が補佐した。しかし、幼い当主に不安を持ち、戦意が上がらない九鬼勢は惨敗。
九鬼嘉隆と九鬼澄隆ら残党は鳥羽の朝熊山へ逃亡した。
織田信長の水軍として旧領を回復
しばらく逃亡生活を続けた後、九鬼嘉隆は1560年に桶狭間の戦いで勝利し勢いある織田信長が伊勢攻略を目指していると知り、滝川一益と親しくなる。
そして、1568年、京にて織田信長に拝謁。正式に織田家の家臣・滝川一益の与力として織田家臣に列した。
織田家において九鬼嘉隆は得意の水軍創設に尽力したと考えられ、九鬼守隆が家臣に宛てた書状が、現在も家臣の子孫宅に多く残されている。
中には船の建造をこと細かく指示した書状もあり、大型軍船「安宅船」(あたけぶね)にはお風呂を作れと言う指示も見られる。
そして、その水軍を率いて九鬼嘉隆は活躍していくのである。
1569年、織田信長が伊勢多芸城の北畠具教を攻める。その際、九鬼嘉隆は鳥羽水軍を率いて北畠水軍を破り、北畠具教の隠居城・大淀城を海上から攻撃し陥落させるなどの活躍をした。
織田勢は阿坂城、船江城と次々に落としたが、北畠具教父子が多芸城から急ぎ本陣を移し篭城した伊勢・大河内城(松阪市)は2ヶ月近くたっても落とせなかった。
白米で馬を洗わせると遠くから見る敵には水で馬を洗っているように見え、水に不足はないと敵の目を欺いたという。
織田信長は北畠具教と和睦し、織田信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養子に差し出し、北畠具教を三瀬館に隠居させ、のちの1573年には織田信雄に伊勢国司を譲らせ、織田信雄は田丸城主となっている。
そして、九鬼嘉隆は宿敵である志摩の地頭たちを攻め破った。小浜景隆と千賀志摩は九鬼勢に敗れたのち、甲斐・武田信玄の誘いを受けて武田水軍の創設に加わった。
浦城の浦豊後や的矢美作は一族もろとも自刃。越賀隼人、和具青山豊前らは降伏し九鬼氏家臣となり、青山豊前はのち九鬼豊前と名乗ることを許されている。
橘宗忠は娘(妹とも)を九鬼嘉隆に人質に出して降伏。九鬼嘉隆はその女を妻に迎え、志摩統一に成功した。九鬼澄隆も田城城を回復している。またこの年、九鬼嘉隆には正室との間に九鬼守隆が誕生している。
織田信長から志摩国の領有を認められ、織田家の水軍として鳥羽水軍は大水軍となった。
そして、織田信長が九鬼本家の家督を継ぐように命令。(別説では、織田信長没後の1583年に九鬼嘉隆が甥の九鬼澄隆を殺害して九鬼家の家督を奪ったと言う説もある。)
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鳥羽水軍・九鬼水軍の活躍と鉄甲船
1574年、伊勢・長島で一向一揆が発生。鎮圧する為、織田信長は軍を出したが、この時九鬼嘉隆は安宅船14隻、軍船300隻、小船300隻を率いて海上から九鬼水軍自慢の長銃で砲撃するなどして織田勢を支援し、一向一揆鎮圧に尽力した。
石山本願寺や雑賀衆は織田信長より圧迫を受け陸路からの物資搬入が困難になると、毛利勢の毛利水郡・村上水軍の力を借りて、海路より補給を受けていた。
その海上封鎖を行う為、織田信長は鳥羽水軍を派遣。
1576年、北畠氏の不穏な動きを察知した織田信長は織田信雄に命じて、北畠具教・4男徳松丸・5男亀松丸などを殺害。名門北畠氏は滅亡した。
同年1576年7月、毛利勢の村上武吉率いる村上水軍と小早川水軍・児島水軍・乃美水軍ら600隻(プラス警護舟300隻とする説もあり)と、織田勢総大将・九鬼嘉隆の他、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑ら7将を船将とした鳥羽水軍など安宅船10隻など300隻が、摂津・木津川沖で海戦(第一次木津川口の戦い)となった。
戦いは夜を徹して行われ、毛利水軍・村上水軍は焙烙玉、雑賀衆の焙烙火矢の前に、数の上でも不利であった鳥羽水軍は多くの船を焼かれて大敗。
織田勢は真鍋貞友、沼野義清、沼野正盛、沼野大隈守、寺田生家、野口某(花隈)、小畑某(尼崎)、杉原兵部丞、宮崎鎌太夫、宮崎鹿目介、吉井五良九郎、坂本元永、菱木五助が戦死。毛利勢に名だたる武将の戦死は見られない。
この敗戦に激怒した織田信長は、九鬼嘉隆に燃えない船を造るように命じた。
そして九鬼嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄を貼り燃えないようにした鉄甲船である。
鉄甲船の建造には莫大な資金が必要だったが、織田信長も鉄甲船建造に同意し、堺の代官・松井友閑に対し「九鬼兵糧」と称し月毎に九鬼嘉隆に支給を命じ、間に合わなかったら、織田信長の直轄領である平野から立て替えてでも「九鬼がこと欠かざるように奔走せよ。」と命じた。
織田信長が配慮して強固な水軍創設に力を注いだことがよく分かる。
こうして「伊勢浦の大船」と呼ばれた鉄甲船が建造された。焙烙が効かないうえに、大筒・大鉄砲など3門を装備し、船の大きさは縦12m・横22mあり、5000人を乗せることができたとされる。
1578年6月26日、九鬼嘉隆の率いる6隻の鉄甲船と、滝川一益の大船1隻(鉄甲船とも?)が伊勢浦を出航。石山本願寺は雑賀浦で雑賀・淡輪の雑賀水軍500隻(門徒水軍)で迎撃するが壊滅。
そして九鬼嘉隆らの船団は堺港に入港した。織田信長は、近衛氏・細川氏・一色氏や堺の豪商、一般民衆らを集めて、堺で鉄甲船を披露した「大船御覧」を開催。
この催し後、九鬼嘉隆は織田信長から褒美として千人扶持を与えられている。
これに石山本願寺は本願寺教如を毛利に派遣し再び毛利氏に援軍を頼むと11月には木津川河口に進出してきた毛利水軍・村上水軍と再び海戦(第二次木津川口の戦い)となる。
鉄甲船の威力は凄まじく、九鬼嘉隆は毛利水軍600隻を打ち破り、大勝利を収めた。実際には能島・因島村上水軍は本合戦に間に合わず、乃美・児玉水軍が功に焦って大敗したとも考えられ、別の説ではこのような大海戦になったか疑問を唱える説もある。
そして、鳥羽水軍は境港入港し、上方の人々を驚かせたのである。大坂湾の制海権は織田勢に移り、石山本願寺は以降毛利氏より海路による物資供給を受けることができなくなり、本願寺顕如は2年後に織田信長に降伏するのてある。
九鬼嘉隆はこの戦功によって志摩に加え、摂津野田・福島などを与えられて7000石を加増され、合計35000石を領する大名となり、織田信長によって九鬼嘉隆は、従五位下大隈守に任じらた。
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豊臣秀吉の元、日本の水軍総大将の地位に
1582年6月、織田信長が本能寺の変で死去。その直後は伊勢の織田信雄に従ったが、のち羽柴秀吉に臣従した。
1583年9月から始まった大阪城普請では、九鬼嘉隆が石垣用の巨石の船運搬を担当。また、相当量の石垣を1585年の鳥羽城補強に流用している。
1584年の小牧・長久手の戦いでは豊臣勢として滝川一益と共に参戦。6月15日、滝川一益と九鬼嘉隆は尾張・大野城を攻撃したが、救援に来た井伊直政の抵抗を受け蟹江城に退却。
翌日6月16日には小浜景隆率いる徳川勢に蟹江城も攻められて滝川一益はのちに降伏。九鬼嘉隆は射撃の名手・村田七太夫に助けられ、なんとか海上に脱出し田城に帰還している。
1584年11月23日、九鬼本家の当主だった九鬼澄隆が田城で死去。病死とされているが、前述した通り九鬼嘉隆が本家家督を正式に得る為、九鬼澄隆を毒殺したと言う説や、1582年に九鬼澄隆が早朝に田城近くの河内川で顔を洗っている時、背後から何者かに斬られたとされる説もある。
1585年には、羽柴秀吉の計らいで従五位下・大隅守に叙位・任官している。そして、答志郡鳥羽の地を本拠地と定め、1585年に鳥羽城の築城に着手。田城の石組みの一部も鳥羽城に移されたと言う。
1585年に豊臣秀吉が根来衆・雑賀衆を攻めた際には、水軍の総大将に命ぜられている。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐にも参陣。
1588年、豊臣秀吉は海賊禁止令三ヶ条を出し、海賊行為や海上交通の支配を独自に行う事を禁じたが、鳥羽湾の通行支配権だけは九鬼氏に認めていたようだが、結果的に海上戦闘を得意とする村上水軍などは勢力を弱め全体的には日本の水軍力が低下。
豊臣秀吉はのちの朝鮮出兵が失敗する布石を敷いたようなものであった。
1590年3月、豊臣氏にまだ従わない相模・北条氏の水軍本拠地である伊豆・下田城を攻撃。豊臣勢の水軍は長宗我部元親、脇坂安治、九鬼嘉隆ら約10000。対する下田城篭城兵は城主・清水康英、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など600。
豊臣勢は下田城の副将・江戸朝忠を討ち取るなどしたが抵抗にあい包囲は約2ヶ月に及ぶ。ようやく下田城が降伏勧告に応じたのは4月23日であった。
下田城開城後、豊臣勢の水軍は小田原城を海上より封鎖する作戦に向かっている。
朝鮮での水軍
1592年から始まった文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)では、村上水軍の村上武吉を差し置いて九鬼嘉隆が総員9000名を指揮する水軍総大将に命ぜられる。豊臣秀吉より金団扇の馬印と茜色の吹貫を賜ったとも言われる。
日本で始めて艦船に日の丸の旗を掲げた新旗艦・日本丸(推定300トン)に乗船し、九鬼嘉隆勢1500、藤堂高虎勢2000、脇坂安治勢1500、加藤嘉明勢750などと共に水軍を組織して大船団を率いている。
日本丸の周囲には、水船、台所船、荷船、馬船などが従っていた。
当時、朝鮮や中国鉄砲はほとんどなく、16万の大軍であった豊臣勢は当初優勢で、ソウル・平壌を占拠。何度も李氏朝鮮に服従を求めた。反撃の機会が遅れた李氏朝鮮は海路より攻撃する作戦に出て、李舜臣率いる朝鮮水軍が九鬼嘉隆らの日本水軍に体当たり戦法を行った。
1592年4月29日に起こった最初の海戦「沖島の戦い」こそは九鬼嘉隆が指揮し全軍が言うとおりに動いたので、敵大型船2隻を捕獲するなど戦果を上げ、慶尚道右水使元均率いる朝鮮水軍が総力を挙げて挑んできた「熊川の戦い」でも、九鬼家臣・越賀隼人隆政らが大小百数十隻の敵船を拿捕し壊滅的打撃を与えた。
しかし、朝鮮水軍の指揮官に李舜臣が着任すると、日本の水軍は緒戦に勝利した気の緩みもあり、九鬼澄隆の指揮を聞かず、各水軍が勝手に行動するなどして指揮系統も乱れ、大苦戦することになる。
李舜臣が用いた朝鮮水軍の「亀甲船」は昔に建造されていた船であったが、細長い流線形で速い速度が得られ、左右両舷に各6門、前後に各1門の銃口を備えただけでなく、長年の海賊対策で構造上強いのを最大の武器に、李舜臣は高速で敵船に突撃し、船の構造自体を破壊する戦闘方法を取った。
日本の水軍は武力(火力)を使用したあと、敵船に乗り込み船を奪う戦闘方式が主流。また当時の日本大型船は速力を軽視し、構造上も弱く体当たりされると壊れやすい。
しかも、朝鮮出兵に際して与えられた任務は海上輸送が中心で水上戦闘を想定していない。総勢16万に対して水軍が1万もいないことからシーレーン確保は最初から無理であった。
全羅道麗水の基地を出発した李舜臣の水軍は、1592年5月7日から玉浦沖で藤堂高虎勢の20余隻を撃破。5月29日、李舜臣は兵船23隻で九鬼嘉隆ら日本水軍の本隊が停泊する慶尚道まで遠征。
慶尚道の泗川浦には日本丸の他、安宅船12隻が停泊し、九鬼嘉隆と加藤嘉明が指揮し。陸の泗川城には400名ほどの兵が駐屯していた。
李舜臣は攻撃もほどほどに退却すると見せかけて、九鬼嘉隆らを海上戦に誘き出し、満潮を見計らって一転して反撃に転じ、九鬼嘉隆らは大きな被害を受けている。
以後、李舜臣の前に日本水軍は連戦連敗を喫し、日本から朝鮮への海上補給も充分にできなくなり、朝鮮での戦局は逆転。
6月に入ると、豊臣秀吉の命令で、残存水軍を再編成し、九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明の連合軍で出撃したが、功を焦った脇坂安治が、九鬼嘉隆や加藤嘉明の出発を待たずに7月7日、李舜臣と戦闘し閑山島の戦いとなる。脇坂安治は狭い海峡で暗礁地帯も多い閑山島沖にうまく誘い出され、約70隻中、63隻が沈没すると言う大敗を喫した。
脇坂安治を追ってきた九鬼嘉隆と加藤嘉明の水軍は、7月9日に安骨浦で李舜臣と戦闘し大敗を喫した。
なお、九鬼嘉隆は四官という朝鮮人6人を捕虜にして、鳥羽に連れ帰っており、今も子孫が残ると言う。
1597年、朝鮮再出兵(慶長の役)の際には、九鬼嘉隆は高齢でもあり、前回の失敗から水軍人選に選ばれなかった為、これを機に九鬼嘉隆は隠退。家督を次男の九鬼守隆に譲って5000石で隠居した。
九鬼守隆は次男で、長男は九鬼成隆であり、朝鮮出兵でも活躍したが、九鬼成隆は側室の子であった為、家督は継げず、正室・橘宗忠の妹との間に生まれた九鬼守隆の家臣となった。
1598年、豊臣秀吉が死去すると朝鮮からも撤退。九州には赴いたが朝鮮出兵を免れた徳川家康は兵力・経済力も温存でき、豊臣政権勢力と対立して行く。
ちなみに、日本水軍をさんざん苦しめた李舜臣はその後失脚し、一兵卒となっていたが、朝鮮水軍の新指揮官が1597年戦死すると後任として復活。またもや日本の水軍を果敢に撃退していた。
しかし、豊臣秀吉没後の撤退する島津義弘勢の船団を追撃した、1598年11月18日の露梁海峡の戦いの際、船に伏せていた島津の狙撃隊の一斉射撃を浴びて、名将・李舜臣も遂に倒れた。部下には「勢いづいている今、自分の死は伏せて置くように」と言い残したと言う。これが朝鮮の役最後の戦いであった。
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関が原の戦いと九鬼氏
さて、豊臣秀吉亡き後、伊勢・岩出城に入った稲葉道通が木材を大阪方面に海上輸送する際、九鬼氏に「通航税」を払うのを拒否。
稲葉道通は九鬼嘉隆が朝鮮出兵した際の論功行賞においても、豊臣秀吉が九鬼嘉隆に恩賞を与えようとした際に反対して人物である。
九鬼嘉隆は徳川家康に、豊臣秀吉の時代から伊勢湾の通航税徴収の特権は九鬼氏が得ているものと訴え出たが、徳川家康はこれを拒否。
ついに、水軍の役割として重要な通航税が鳥羽水軍からも奪われた。以後、九鬼嘉隆は徳川家康に反感を抱く。
1600年、徳川家康の会津征伐には当主の九鬼守隆が徳川家康に従い従軍。
九鬼守隆は氏家卜全の子である西軍の桑名城主・氏家行広・氏家行継を破り、東軍として最初の首級を挙げると言う活躍をした。
しかし、7月に石田三成が挙兵すると、石田三成からの使者や書状により、伊賀・伊勢・紀伊の3国を石田三成から保障されたり、九鬼嘉隆の娘が正室になっていた新宮城主・堀内氏善からの要望もあり、隠居し兵を持たない為、断っていた九鬼嘉隆も西軍に加担。九鬼嘉隆は手薄となった鳥羽城を占拠。
鳥羽城の留守居役は、九鬼嘉隆の長女を正室に迎えている豊田五郎右衛門であったが、九鬼嘉隆勢に勝てず、城を脱出している。
新宮城の堀内氏善(熊野水軍)も350を率いて鳥羽城内へ入れて九鬼嘉隆に与した。堀内氏善は石田三成より80000石を約束されていたと言う。
九鬼嘉隆の4男・九鬼主殿助の正室の実家になる伊勢沼木郷中島村の北勝蔵も宮川渡しの通行税が取れなくなった事に怒っており、300の手勢にて加勢。
淡路・岩尾城主・菅平達長も兵船20隻を引き連れて九鬼嘉隆に加わった。
1600年7月21日、九鬼嘉隆勢は稲葉道通の伊勢・岩出城を攻撃開始。しかし簡単にはいかず、一時退却している。そして、九鬼嘉隆は菅平達長らと兵船30隻を率いて、尾張・三河沿岸に遠征し、民家に放火し、食料などを略奪。のち、石田三成が入った西軍の拠点である大垣城に送った。
徳川家康の元に、九鬼嘉隆が徳川家の旧領・三河で暴れまわっているとの報が入ると激怒。九鬼守隆に対し、九鬼嘉隆がすぐさま東軍の傘下に入るよう命じ、徳川家康に加担したら九鬼氏には南伊勢五郡を加増する約束もした。
九鬼守隆は父・九鬼嘉隆に使者を出すだけでなく、自らも鳥羽に向かった。しかし、徳川家康に恨み持つ九鬼嘉隆は子・九鬼守隆の話に首を縦に振ることはなく、九鬼守隆は鳥羽城に入ることができず、鳥羽城に程近い廃城の畔乗城に入った。
徳川の目付役人も一緒に同行していた事から、徳川家康を怒らすような時間稼ぎなどばできず、約200を率いて鳥羽城奪還も試みている。目付がいた九鬼守隆勢は実弾を放ったが、篭城する九鬼嘉隆勢は空砲を撃った言う言い伝えもある。
九鬼守隆は伊勢湾に侵入する西軍の船の監視もしており、西軍の伊勢・桑名城主ろ氏家行広の兵船が伊勢湾に侵入すると、国府沖にて撃破。兵船3隻を奪い、首級30余りを挙げている。
稲葉道通は約840の兵にて岩出山城を9月1日出発し鳥羽城に向けて進軍。九鬼嘉隆はこの稲葉の動きを察知し、北勝蔵と挟み撃ちにしようと考えたが、宮川を渡った稲葉勢は急に方向を変えて北勝蔵の館を急襲。
急ぎ救援軍を出したが、守りが薄かった北勝蔵の館は火に包まれた。稲葉道通勢はそのまま岩出山城に引き返し、関が原の戦いまで城から出ることはなかった。のち、徳川家康は九鬼嘉隆を足止めにした功績の恩賞として稲葉道通に20000石加増し、田丸城を与えている。
1600年9月15日、関が原で戦が開始され、徳川家康の東軍が大勝利を収めた。鳥羽城に東軍勝利の報がもたらされると、堀内氏善は逐電。
九鬼嘉隆は付き従ってくれた家臣や北勝蔵らに金銀を分け与え、自らは船で答志島の和具に逃れた。
堀内氏善は10月に東軍の和歌山城主・桑山一晴に新宮城を攻められ所領を失い、紀伊加田村に蟄居。のち許されて肥後・加藤清正に仕え2000石を知行し、宇土城主となった。
九鬼嘉隆の最後
関が原で西軍が敗走し、答志島に逃れていた九鬼嘉隆は潮音寺に隠れ得度した。そして、九鬼氏の故地・紀州熊野に更に逃れたが、熊野の人々は徳川の仕返しを恐れた為、九鬼嘉隆は再び答志島の和具にある、娘の嫁ぎ先でもある青山豊前邸に戻った。
一方、九鬼守隆は九鬼嘉隆の除名嘆願に動いていたが、九鬼家の行く末を案じた九鬼守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で答志島の青山豊前邸を尋ね、西軍に組した九鬼嘉隆が生きていては九鬼家に累が及ぶと九鬼嘉隆に進言した。(豊田五郎右衛門の指示により青山豊前が九鬼嘉隆に進言したとの説もある。)
九鬼嘉隆も九鬼家存続の為、西軍に加担したのであり、自分のせいで子の九鬼守隆に累が及ぶのは本意ではない。1600年10月12日、九鬼嘉隆は自刃を決意する。享年59。
和具の洞仙庵(どうせんあん)にて自決の際「自分の首は山頂に掲げよ。死後も徳川を恨める。」と言い残したと言われ、九鬼嘉隆の首塚は今も和具の築上山頂にある。
下記写真は答志島の築上。
九鬼嘉隆の4男・九鬼主殿助と、5男・九鬼五郎八も相次いで自刃。
除名嘆願に動いていた九鬼守隆は、池田輝政を通じ徳川家康に二条城にて拝謁していたが、戦の勝敗を左右する可能性もある鳥羽水軍復活を恐れる徳川家康はなかなか許さない。池田輝政が福島正則と共に徳川勢で最初に戦功を上げたのは九鬼守隆であると何度も助命を請い、最終的には徳川家康も許した。
その結果、九鬼嘉隆の命だけでなく、当初の約束であった南伊勢五郡20000石の加増を九鬼守隆に約束。九鬼守隆は急ぎ、その朗報を知らせる急使を鳥羽に出した。
急使が10月13日伊勢・明星の茶屋に着いた際、九鬼嘉隆の首を九鬼守隆に届けようとする豊田の使者と出会う。独断で動いた豊田五郎右衛門に九鬼守隆は激怒し、豊田五郎右衛門を堅神の地において鋸引き(のこぎりびき)と言う、首を鋸りで切り落とす、戦国時代一番残忍な極刑に処した。
九鬼守隆は、父の胴体が葬られた洞仙庵近くに胴塚を建て供養し、首級は徳川家康の首実検の後に答志島へ戻し、遺言通り築上(つかげ)山頂に埋葬し、首塚を建てた。のちの1669年に孫の九鬼隆季が胴塚を再建し、胴塚と首塚は今でも答志島の和具にある。
現在、答志島へは鳥羽より高速船が出ており、答志島の温泉旅館などに宿泊もできるので、是非訪れて見て欲しい。
鳥羽藩として
九鬼守隆は父と弟2人を亡くしたが、20000石加増され35000石として鳥羽藩初代藩主となった。
その後、九鬼守隆は、大坂の陣においては三国丸という大船と安宅船、早船50隻で参戦。九鬼家老・九鬼数馬が戦死するなどしたが、野田要害と福島要害の攻略に戦攻があったと新たに1000石が加増され36000石となった。
しかし、江戸幕府は諸大名の戦力や経済力を弱めるために、大型船の所持を一切禁止。 諸大名が持っていた大型船は集められ没収したのだが、その船の受取り役に任じられたのは九鬼守隆であり、日本最後の水軍としての活動も終焉した。
九鬼守隆の死後、5男の九鬼久隆と3男の九鬼隆季との間に家督争いが起こり、九鬼氏は摂津・三田藩36000石と丹波・綾部藩20000石に分割移封、歴代の所領である志摩を失うのである。
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田城城跡(田城々跡)
田城城跡(田城々跡)(たしろじょう)は、三重県鳥羽市岩倉町にある。
加茂川とその支流である鳥羽河内川の合流点に築かれた、川が自然の堀となっている城であるが規模は小さい。
志摩十三地頭のひとりである田城左馬之助と言う武将が築いた城だとも言われている。
しかし、田城城と書くため、なんとも漢字が間際らしい城跡である。
九鬼嘉隆の祖父・九鬼泰隆が、1541年に北畠晴具より二見七郷を与えられたとあるため、鳥羽城を攻めた功績により九鬼泰隆が田城城主となったのであろう。
それまで九鬼泰隆は志摩・波切城主であり、九鬼嘉隆も1542年に波切城にて生まれているが、以後、九鬼家は田城城を本拠としている。
1551年、家督を九鬼浄隆が継ぐと志摩7党と抗争を繰り返し、上記にて前述のとおり1560年には、警戒した土豪衆12名が結束して北畠具教からの援軍を得て田城城を攻めた。
田城城主・九鬼浄隆は弓の名手として知られ田城城の周りも湿地帯であったため、九鬼浄隆と九鬼義隆は良く守ったが、戦いの最中に城主・九鬼浄隆が急死する。
討死したとも言われている。
その後、遺児の九鬼澄隆が家督を継ぎ、波切城からの援軍を得て、九鬼嘉隆が補佐したようだ。
しかし、士気が下がり九鬼義隆らは朝熊山へと逃れ、田城城は落城した。
なんとか波切城へ戻った九鬼嘉隆も、更に土豪衆に攻められて海路脱出し志摩から逃れて、滝川一益の仲介にて織田信長の家臣に加わる事になった。
1569年、織田信長が伊勢・北畠具教を攻めた際、九鬼義隆は水軍を率いて活躍し、九鬼家の家督を継ぐように命じられ、再び田城城に入った模様だ。
ちなみに志摩・波切城主には、遺児・九鬼澄隆を配置したと推定されているが、のち1582年に九鬼澄隆を暗殺したとも言われている。
その後、1585年から鳥羽城の築城を開始したため、その後、田城城は廃城となったと考えられている。
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現在の田城城跡には、九鬼総領権現が祀られている「九鬼岩倉神社」となっている。
これは、暗殺された九鬼澄隆の霊を祀るために、九鬼嘉隆の子・九鬼守隆が1626年に創祀した神社となる。
今回、伊勢方面を訪問していた際に、国道167号を走行していて、写真だけ1枚撮影した。
下記の地図ポイント地点が、田城城跡(田城々跡)がある場所で、若干、土塁も残っているらしい。
すぐに退散したため、駐車場があるかは不明。
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コメント
コメント ( 2 )
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子孫がごま油で有名な九鬼産業を興していますね 面白い一族です
知子さま、コメントありがとうございます。
九鬼嘉隆は好きな武将でもありますが、御子孫さまが九鬼産業をご経営なさっておられるとは存じ上げませんでした。
情報、ありがとうございました。