織田信行(織田信勝)とは
織田信行(織田信勝)は、織田信長の弟と説明すると一番分かりやすいだろう。
1536年に、織田信秀の3男として、母・土田御前との間に生まれたとされるが、生まれた年も含めて不確定要素が多い。
名は織田信行・織田信勝(おだ-のぶかつ、のぶお)の他、織田達成(たつなり)、織田信成(のぶなり)とする自己発給文書も見られる。通称は勘十郎。
うつけと呼ばれた織田信長の事を、母・土田御前は嫌い、多くの家臣もこの織田信行(織田信勝)を跡継ぎにと考えていたとされる。
1551年、父・織田信秀が死去し、その葬儀の時、兄・織田信長は仏前で抹香を投げつけるという愚行を行った。
この時も、織田信行(織田信勝)16歳は、正装をして礼儀正しく振舞い「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と信長公記に記載されている。
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1555年頃、嫡男・坊丸(後の津田信澄)が誕生。
1555年5月頃、織田家の当主になった織田信長に対抗する姿勢を見せ始め、代々の当主が名乗ってきた弾正忠の官途を、この織田信行(織田信勝)が名乗り始めた。
1555年6月26日、弟の織田秀孝(15歳位)が龍泉寺の下の松川渡し(現在の庄内川)で、供回りもつけずに単騎で馬に乗り通行していたところ、この地を領していた叔父にあたる尾張・守山城主・織田信次が家臣らを連れて川狩りに興じていた所に差し掛かった。
その時、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとする不届き者と誤解され、家臣の洲賀才蔵が威嚇の矢を放ったが、誤って殺害してしまう事件が起こった。
織田信次が見ると武士は甥の織田秀孝であり、主家・織田信長、織田信行(織田信勝)の同腹の弟であったため、織田信次は恐れてそのまま逐電。
これを聞いた激怒した織田信行(織田信勝)は、すぐさま軍勢を出して織田信次の居城・守山城の城下を焼き払うと言う報復を行った。
織田信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反にあい自害。
これに対し織田信長は「無防備に単騎で行動していた織田秀孝にも非がある」として放浪中の織田信次は罪を許され、守山城主に戻った。
この事件を機に、織田家の家臣たちは親族のつながりを尊重した織田信行(織田信勝)に、より当主としての期待を寄せる結果となった。
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1556年4月、織田信長の支援者であった岳父・斎藤道三が嫡男・斎藤義龍に攻められて死去すると、織田信行(織田信勝)は林秀貞・林通具(林通勝)・柴田勝家らを味方につけて、織田信長に対して挙兵し、篠木三郷に攻め入ろうとした。
しかし、織田信長は弟の反乱に対して即座に鎮圧軍を出し、8月24日、佐久間盛重が築いた名塚砦を攻めようとした柴田勝家・林通具らと、織田信長・佐久間盛重らは稲生で合戦となった。
信長公記によれば、織田信長の手勢わずか700足らず(佐久間盛重・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀・森可成・織田信房ら)に対し、織田信行勢は柴田勝家1000、林秀貞700の合計1700人と優勢であった。
しかし、織田信長が大声で怒鳴ると、織田信行勢は恐れをなし、織田信長が自ら林美作守を討ち取り、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎ら、織田信行勢の主だった武将を含む450人余が討死し、柴田勝家勢は敗走した(稲生の戦い)。
敗れた織田信行(織田信勝)は、尾張・末森城に籠城し窮地に陥ったが、母・土田御前の取りなしにより、本来切腹でもおかしくない所、林秀貞、柴田勝家、津々木蔵人共々赦免された。
柴田勝家は引き続き織田信行(織田信勝)に仕えたが、織田信長に忠誠を誓い、以後、忠実な部下として大いに働いている。
許された織田信行(織田信勝)であったが、1557年になると織田伊勢守家である岩倉城主・織田信安に通じた上で、津々木蔵人を重用し再度謀反を企て、篠木三郷を支配しようと計画したが、今度は柴田勝家が織田信長に密告。
織田信長は病気になったと偽ると、織田信行(織田信勝)は母の土田御前と共に様子を見るべく「見舞い」として11月21日に清洲城を訪問した。
この時、織田信長は河尻秀隆ら(あるいは池田恒興)に殺害を命じており、清洲城北櫓天守の次の間にて、織田信行(織田信勝)は暗殺された。(享年22歳)
※織田信長を謀殺しようとして返り討ちにあい、織田信長の目の前で自刃したとする説もある。
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なお、織田信行(織田信勝)の子である坊丸(後の津田信澄)は、土田御前の助命もあり許され、柴田勝家の許で養育された。
津田信澄は、織田家一門の中でも信頼が厚く、安土城の造営においては丹羽長秀と共に普請奉行を務め、四国攻めの際には大阪城の守備も任されたが、明智光秀の娘を正室に迎えていた為、1582年6月2日の本能寺の変では内通を疑われ、6月5日に織田信孝と丹羽長秀により襲撃され殺害された。
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