桶狭間の戦い解説~徳川家康の目線から「どうする家康」最初の戦略(写真付でわかりやすく)

桶狭間の戦い解説

どうする家康

戦国時代の1560年、兵力に劣っていた織田信長桶狭間の戦いにて今川義元の首を取り大勝利した。
今川勢に従っていた数多くの武将の運命も大きく変える合戦であったが、このとき今川義元に従い参陣していた若き徳川家康に焦点をあて、家康の目線から桶狭間の戦いを検証してみたい。

この頃、徳川家康の名前はまだ松平元康(まつだいら-もとのぶ)と名乗っていた。
もともと、徳川家康(松平元信)は、三河・岡崎城主である松平広忠水野忠政の娘・於大の方伝通院)との間に生まれた嫡男である。

三河・岡崎城

織田信秀による三河進攻があったため、松平家は今川家に従属していたが、3歳のとき、母の兄・水野信元が織田信秀に寝返った。
そのため、母・於大は離縁され、6歳になった竹千代(徳川家康)は今川家への人質として駿府に送られた。
<注釈> 人質に送られた際に、三河・田原城の戸田康光が裏切り、織田信秀のもとに連れて行かれたが、その後、今川家との人質交換で駿府に入った。


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その前後に父・松平清康は24歳の若さで死去したと考えられ、岡崎城には今川家から朝比奈泰能や山田景隆、山田元益(山田新右衛門)などが城主として派遣されており、松平氏は衰退したと言える。

しかし、竹千代は臨済寺太原雪斎より英才教育を受けるなどし、1555年3月に駿府にて元服。

臨済寺

松平元信(15歳)は、関口親永の娘・瀬名(築山殿)を正室に迎え、松平家の当主として、今川氏の三河方面を期待される若武者となった。
1558年、三河・寺部城の鈴木日向守が織田家に寝返ったため、松平重吉らとともに攻撃し初陣を果たしている。

桶狭間の戦い

三河と尾張の国境では今川家と織田家の領土争いが一進一退状態であり、ついに今川義元は大軍を西に向ける。
1560年5月12日、大軍の今川勢は沓掛城に入った。

沓掛城

この時、松平元康(徳川家康)も松平好景・鳥居忠吉ら三河衆や奥平貞勝を率いて参陣しており、5月18日、籠城を続け困窮していた大高城鵜殿長照に兵糧を届けている。

大高城

次の5月19日朝3時頃、松平元康と朝比奈泰朝が織田勢の丸根砦鷲津砦を奇襲攻撃した。
この知らせを聞いた織田信長は、清洲城にて敦盛を舞うと、午前4時頃に緊急で出陣。
熱田神宮にて軍勢を整え、戦勝祈願すると朝10時頃、約3000にて善照寺砦に入った。

善照寺砦

その間、松平信康らは丸根砦の佐久間盛重は討ち取り、鷲津砦では飯尾定宗・織田秀敏の首も取った。
こうして大高城周辺を攻略できたため、沓掛城の今川義元は本隊を大高城方面へ向かわせた。

桶狭間の戦い

その動きを察知した織田信長は善照寺砦から討って出て、すぐ南の中嶋砦をかすめる。
そこで、中嶋砦の佐々政次・千秋四郎が、今川勢の先陣に攻撃を掛けたようだが、少数の為すぐに撃破された。


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恐らく、この緒戦の勝利が続いたため、今川勢に油断が生じたものと考えられる。
午後13時頃、ひょうが降る荒天の豪雨となったようで、雨で馬や甲冑の音も消される中、織田勢は今川義元の本陣を急襲した。

桶狭間の戦い

今川勢は松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳、久野元宗、久野宗経などの重臣がことごとく討死し、服部一忠毛利新介によって今川義元も討ち取られた。

今川義元の墓

松平元康(徳川家康)はと言うと大高城にて休息中だった。
しかし、今川勢は総崩れとなったため、撤退すると手勢18名にて岡崎の大樹寺に入ったとされる。
撤退においては深溝城の松平好景が殿軍を務めたとある。

大樹寺

大樹寺に入った松平元康は、歴代松平氏の墓前にて自害しようとしたが、住職の登誉天室に説得され、今川勢が逃げた三河・岡崎城に入ると独自の軍事行動をとるようになった。

徳川家康の武運

桶狭間の戦いでは、今川勢の多くの武将が命を落としている。
しかし、松平元康(徳川家康)は大高城への兵糧輸送や、織田勢の砦への先制攻撃など、今川勢の中ではあまりやりたくない役目を先に任されていたことが功を奏したとも言える。
結果的に大高城に入っていた時間に、桶狭間で本戦となったことから、織田勢の総攻撃を受けておらず命拾いしたと言えよう。
なお、今川勢が敗れても織田勢は少数のため、松平勢が桶狭間で反撃に転じることもできたはずだ。
しかし、今川義元討死では士気が下がっていたこともあり、撤退と言う決断をしたと推測されるが、このような判断が求められるのが戦国の世の常である。


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この決断の連続はまさに「どうする家康」であり、大きな判断を迫られることになった。
幸いにも岡崎城の城代を務めていた今川家の家臣・山田元益(山田新右衛門)は、今川義元討死の報を知ると弔い合戦を挑んだようだが討死。
こうして三河・岡崎城から今川勢がいなくなったと言う幸運もあって岡崎に復帰した徳川家康は、徐々に今川氏真から離れて行き、1年後には織田信長と清洲同盟を結ぶのであった。

桶狭間の場所や大高城などに位置関係は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイント致しており確認できる。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩カーナビとしても可能)

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