酒井忠次とは
酒井忠次(さかい-ただつぐ)は戦国時代の1527年、酒井忠親の次男として三河額田郡の三河・井田城(岡崎市井田町)で生まれた。母は不明。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では酒井忠次を俳優の大森南朋さんが演じられる。
下記写真は酒井忠次の誕生地で最初の居城となる三河・井田城。
酒井氏はもともと大江忠成(大江広元の5男)の先祖とする海東氏の一族で、酒井忠則のとき世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(松平親氏)を娘婿に迎えたことから松平家とは深いつながりがあるとされる。(諸説あり)
そのため酒井家は、松平氏の一番古い庶流家で松平家(徳川家)の譜代家臣と言える。
酒井忠次も元服すると徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小平次、酒井小五郎、後に酒井左衛門尉と称した。
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1537年、父の酒井忠親が死去。
1543年、織田家へ寝返るが、後に松平家へ戻る。
1548年、再び織田家へ寝返り、三河・上野上村城を守った。
1549年 上野端城の戦いに織田方として参加したが、襲来した今川勢に敗北。
安祥城の戦いで織田軍も敗北すると、酒井忠次は今川家に降伏した。
同年 駿河へ行き、人質に出されていた竹千代(徳川家康)に仕えたたと言うが、従う家臣の中で酒井忠次が最高齢者(徳川家康より15歳年上)だったと言う。
1556年 福谷城の戦いで柴田勝家を撃退。
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1560年5月、桶狭間の戦いでは松平軍の先鋒部隊に加わり、織田家の丸根砦を攻め落とす。
しかし、織田信長が今川義元を破り、徳川家康が岡崎城で自立することを、酒井忠次は他の家臣たちと共に支持。
以降は、家臣筆頭として重用され、1563年の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、酒井忠次は石川数正同様に徳川家康に従い、敵対する酒井忠尚の上野城を牽制するなど、合戦では常に先鋒をつとめた。
なお、長沢松平家・松平政忠が桶狭間で討死した為、嫁いでいた碓井姫(徳川家康の叔母)が、酒井忠次の正室となり、1564年に嫡男・酒井家次が誕生している。(側室も複数人いたとされる。)
1562年、酒井忠次は徳川勢1000を率いて佐脇城と八幡砦を攻撃。一度敗北するが、徳川家康と合流して両拠点を攻略した。
1564年、吉田城攻めで小原鎮実を破る戦功をあげ、徳川家が三河一国を支配すると三河・吉田城主となった。
この時、小原鎮実は城から逃げる際、酒井忠次を殺害しようと倉庫に爆薬を仕掛け、罠は作動したが火薬の量が足りなかったので、爆音に驚いたものの酒井忠次らは無事だったと言う。
また、城から退去する今川勢の安全を保証するために、娘の「お風」(おふう)を人質に出したとも。
以降、酒井忠次は「東三河の旗頭」として三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を担った(西三河は石川家成)。
1568年、武田家の山県昌景、穴山信君と交渉して徳川家・武田家の同盟を成立。
遠江・久能城主の久能宗能を調略。
徳川家に降伏した曳馬城の接収を担当。
同年、徳川家康とは別行動で浜名湖西岸へ侵攻。現地の国人衆を味方に付け、境目城を一日で攻め落とし、宇連山城を攻撃すると翌年攻め落としている。
ただし、今川家の人質になっていた娘・おふうは、同じく人質の松平康俊らと共に、今川家を裏切った三浦与一郎(三浦与次)によって甲府に連行されたと言う。
1569年、碓井姫が次男・九十郎(本多康俊)を産む。
1569年、徳川家康と合流して掛川城を攻撃し掛川城は開城。
酒井忠次は今川氏真を護衛し、今川主従の安全を保証する人質も務めた。この件では北条氏政から感謝の手紙も貰っている。
1569年末、甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河へ侵攻(駿河侵攻)した際、徳川家は当初、武田進言と同盟して今川領国の割譲を約束していた為、酒井忠次が武田進言との交渉を担当している。
酒井忠次は「海老すくい」の踊りが得意で、軍議や外交の席でも披露して出席者の緊張を和らげたとされ、徳川家最高位の重臣でありながら気さくに振る舞う人物だったとされる。
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1570年、姉川の戦いに参戦。味方の陣形が崩される中、酒井勢は朝倉軍の猛攻を凌いで勝利に貢献した。
この年、3男・小笠原信之が誕生。(母不詳)
1572年には三方ヶ原の戦いの前、武田勢に吉田城まで迫まれたが、酒井忠次らは武田軍を撃退。
三方ヶ原の戦いでは酒井忠次が率いる徳川軍右翼は武田軍の部隊を敗走させたが、全体では大敗。城に戻った酒井忠次が、浜松城の太鼓を打ち鳴らし、退却する味方を鼓舞。さらに城門を開け放ち、篝火を焚くよう城兵に指示した。
接近した武田軍は、浜松城の無防備な様子を見て不気味に思い、戦わずに引き上げた。
1573年 遠江の向笠城を攻め落とし、その後、長篠城攻めに参加。
1574年 武田軍が高天神城を包囲。酒井忠次は吉田城で織田軍と合流し救援に向かうが、間に合わず高天神城は降伏した。
1575年、2男・九十郎が織田信長の人質となり、その後1580年には伊奈城主・本多忠次の養子となり、1589年に本多康俊として継いでいる。
1575年、長篠の戦いにでは、別働隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行し、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出。
そして、武田勝頼の叔父・河窪信実らを討ち取り、織田信長から「背に目を持つごとし」と賞賛されている。
同年、遠江の諏訪原城攻めに参加して攻め落とす。他にも小山城攻めに参加。
撤退する徳川軍の殿軍を務めて、城兵の追撃を防いだ。
徳川家康から厚い信任を受けていた酒井忠次は、1579年に織田信長から徳川家康の嫡子・松平信康の件で詰問を受けたとき、大久保忠世と共に弁解の使者として安土城に赴いて馬を献上した。
1582年、織田信長の武田家討伐に参加。嫡男・酒井忠次は駿府に駐留した。
1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変の直後、伊賀越えにも同行し、岡崎城に戻った徳川家康が明智光秀を討とうと出陣した際には先陣を務め尾張津島へ進軍し、情報収集を行った。
織田信長の横死後に空白地帯となった甲斐・信濃へ徳川家康は進出を図った(天正壬午の乱)際には、1582年6月27日、酒井忠次は信濃へ派遣されて信濃国衆の懐柔を試み、奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻し北条家に味方する諏訪・高島城を攻撃。
しかし、北条家の大軍が押し寄せるとの報せを受けて城攻めを中止。
諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反もあり、北条軍40000と交戦したが、徳川勢3000の中で、酒井忠次は殿軍を務めて奮闘し撤退に成功している。
1583年、徳川家康の娘である督姫の北条家への輿入れを実現させた。
1584年、徳川家は織田信雄から援軍要請を受け、酒井忠次は先行して伊勢・長島城に入り織田信雄と会って相談。
その後、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いにも出陣した際には、最重要拠点の小牧山城を確保し、徳川家康から「国家の安危この一挙にあり、ひとへに汝が計策によるべし」と言葉を受けている。
1585年、同じく宿老であった石川数正が出奔すると、徳川家康第一の重臣とされ、1586年10月24日に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官された。
1586年 伊豆で徳川家康と北条氏直の会見を実現させている。
晩年は視力を悪くしたようで、1588年10月、長男・酒井家次に家督を譲って一智と号し隠居。
徳川家康の使者として上洛して、豊臣秀吉に会うと、豊臣秀吉から京都桜井の屋敷と、在京料として1000石を与えられ以後は京都に在住した。
この年、3男・小笠原信之が、伊那小笠原氏の当主・小笠原信嶺の娘を娶ってその養嗣子となった。
1589年、豊臣秀吉の北条攻めが現実味を帯びてくると、北条氏規から酒井忠次に「秀吉が北条家に送る予定の文書の内容について、ご存じなら教えてほしい」と手紙が届いた。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が関東に移封された時には、既に隠居の身であったことから、酒井家次に下総臼井30000石が与えられている。次男・本多康俊は5000石。
1596年10月28日、酒井忠次は京都桜井屋敷で死去。享年70。
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墓所は知恩院の塔頭・先求院。
墓は知恩院山腹の墓地内にある。
酒井家次は下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石となり、子孫は最終的に出羽庄内藩17万石と譜代屈指の大身となり、譜代の名門として栄えた。
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