比企能員(ひき-よしかず)の解説 北条氏にハメられた?【比企能員の変】

比企能員

比企能員とは

比企能員(ひき-よしかず)は、鎌倉時代初期に活躍した武将(鎌倉幕府・御家人)です。
比企氏(ひきし)の本拠地は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡と東松山市)で、下野と武蔵の国司だった藤原秀郷の末裔を称しています。
1159年、源頼朝が伊豆配流となった際に、比企掃部允(ひき-かもんのじょう)が、妻・比企尼と共に、京から領地の比企郡に入りました。
下記は比企郡の宗悟寺にある比企一族顕彰碑。

比企一族顕彰碑

源頼朝が生まれた際に、乳母を務めたのが比企尼(ひきのあま)と言う関係がありました。
比企掃部允と比企尼(草笛光子さん)は、領地から得た税収より、1180年秋まで、約20年間も、源頼朝に仕送りを続けたとあります。

比企尼

比企尼には、3人の娘がおり、長女の丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて、島津氏の祖である島津忠久を産んだとされます。
丹後内侍は、離縁したのち、安達盛長と結婚すると、生まれた娘は、源範頼(源義朝の6男)に嫁ぎました。
次女・河越尼は、河越重頼の正室で、源頼家の乳母を務めたほか、娘・郷御前源義経に嫁いでいます。


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三女は伊東祐清に嫁いでいますが、死別したあと平賀義信に再嫁し、子の平賀朝雅を設け、姉(次女)と一緒に、源頼家の乳母にもなりました。
このように、比企氏は、源頼朝の将軍家と密接な関係を築きましたが、丹後内侍が産んだ島津忠久は、源頼朝の落胤とする説を、島津氏は唱えています。
ただし、源頼朝の挙兵前に死去したと考えられる、比企掃部允には男子がいなかったようで、比企尼は甥の能員を猶子(養子)として比企氏の家督を継がせました。
これは、比企尼の妹?が、阿波(安房)の藤原氏に嫁していた可能性があり、その子が「比企能員」と言う事でして、養子にもらい受けたため、比企能員があわ出身(阿波国または安房国)であるとされる由縁になっているとも推測できます。
比企能員が、安房(千葉)出身という事に関しては下記にて検証してみました。

謎の【比企能員】出自・出身を探る~安房国出身の三浦一族なのか?

そして、比企能員の正室は、渋河兼忠の娘の名がありますが、他にも秩父党の児玉党・片山行時の娘、三浦氏の娘など、側室か後妻と考えられる妻もいた模様です。
子や娘は、余一兵衛尉、比企宗朝比企時員(比企宗員)、比企五郎、比企能本、河原田次郎、若狭局、讃岐局、笠原親景の正室、中山為重の正室、糟屋有季の正室がいます。
下総国印東庄能戸の領主・印東祐信(印東左衛門尉祐信)に嫁いでいる、桟敷の尼は、比企能員の妾(三浦氏の娘)の妹ともされ、工藤氏との関連も見られます。

話を戻しますが、鎌倉の比企能員の館(大蔵幕府の東御門近く)は、京都からの使者の宿舎にもなっており、1182年8月12日、比企能員の屋敷にて、北条政子は、源頼朝の嫡男・万寿(源頼家)を出産しました。

大蔵幕府の東御門

比企能員(比企藤四郎能員)は源頼家の乳母父となり、源頼家が誕生した際の最初の乳付けの儀式は、比企尼の次女である河越重頼の正室が行っています。
また、前述のとおり、比企尼の三娘である平賀義信の正室や、比企能員の正室・渋河兼忠の娘も、源頼家の乳母となりました。


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1189年7月の奥州征伐にて、比企能員は、北陸道(下道)の大将軍として参陣しています。
1192年には、同じ一族である比企朝宗の娘・姫の前が、北条義時に見初められて妻となり、のち、次男・北条朝時、3男・北条重時を産んでいます。

将軍との関係

1198年、源頼家の妻妾となっていた、比企能員の娘・若狭局が、源頼家(17歳)の長男・源一幡(いちまん)を産んでいます。
その翌年、将軍・源頼朝が死去し、源頼家が2代将軍となりました。
しかし、3か月で訴訟の裁決権を奪われ「十三人の合議制」がしかれ、将軍独裁は停止となっています。
更には、梶原景時が失脚し、源頼家は有力な後ろ盾も失いましたが、その後を支えたのが、比企能員でした。

比企能員

源頼家の命にて、阿野全成が謀反の疑いとなり、妻・阿波局(北条時政の娘)を保護していた北条政子のもとに、比企時員が身柄引き渡しを要求しています。八田知家が阿野全成を誅殺し、京にいた阿野頼全も殺害されました。
このように、源一幡の母の実家である比企氏と、源頼家の母方の外戚である北条時政・北条政子とが対立するなか、源一幡が6歳になった建仁3年(1203年)7月に、源頼家が危篤状態になったため、次の3代将軍を巡って家督争いとなります。
源一幡の母の実家である比企氏と、源頼家の母方の外戚である北条時政・北条政子とが対立し「比企能員の変」が起きました。


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吾妻鏡によると、源一幡には、日本国総守護と、関東28ヶ国の守護・地頭職が相続されることになりました。
しかし、北条時政側で12歳の源千幡(源実朝)には、伊勢・鈴鹿の関から西の関西38ヶ国の守護・地頭職が譲られると言う「分割相続」が発表されたため、比企能員が反発します。

比企能員の変

吾妻鏡によると、比企能員は、娘・若狭局を通じて、病床の源頼家に、北条時政を討つように訴え、北条時政追討が決定したとあります。
これを、北条政子が障子の影から立ち聞きし、父・北条時政に知らせたため、北条時政は大江広元ほ味方につけ、先手を打ちました。
1203年9月2日、薬師如来像の供養会として、比企能員を名越の北条時政邸(名越亭)におびき出すと、待ち構えていた、天野遠景仁田忠常が誅殺しました。
慈円が、比企能員の娘婿・糟屋有季の従者から聞いた話をまとめた「愚管抄」によると、比企能員は、日本国総守護と、関東28ヶ国の守護・地頭職が、源一幡に与えられることに満足していたようで、安心して、平服で名越亭も訪問していたとあります。
このままだと、源一幡が3代将軍となり、比企氏が叔父として 権力を持つことを、北条氏は恐れたのでしょう。

残された比企能員の子である比企三郎、比企時員、比企五郎、猶子の河原田次郎、娘婿の笠原十郎親景、中山為重、糟屋有季らは、源一幡の屋敷・小御所にて籠城しましたが、北条政子は、これを「謀反」として、軍勢を差し向けます。
大将は北条義時で、北条泰時、平賀朝雅、小山朝政、小山宗政、小山朝光、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村和田義盛、和田常盛、和田景長、土肥維平、後藤信康、所右衛門尉(藤原朝光)、尾藤知景、工藤行光、金窪行親加藤景廉、加藤景朝、仁田忠常らが小御所を襲撃しました。
混戦となりましたが、最後に、畠山重忠が来週すると、比企一族は館に火を放ち、6歳の源一幡らと自刃して果てました。

比企氏館跡

比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は、女装して逃走を図りましたが、追っ手の加藤景廉によって討ち取られています。
また、比企能員の舅(岳父)・渋河兼忠(渋川兼忠)も誅殺されました。
乱後の処理としては、小笠原長経、中野能成、細野兵衛尉が拘禁され、島津忠久は連座して大隅国・薩摩国・日向国の守護を没収されています。

数日後、少し病が回復した源頼家は、嫡男・源一幡と比企一族の滅亡を知ります。
そして、堀親家を仁田忠常と和田義盛に使わして、北条時政を討つよう御教書(密書)を送りましたが、和田義盛は、その受け取った御教書を、北条時政に渡したため、工藤行光によって、堀親家は殺害されました。

以上が、比企能員の変の話ですが、事態はそれだけで収まりませんでした。


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比企能員の死から5日後には、北条政子の命にて、源頼家は出家扱いとなりました。
そして、跡目となった源千幡は、北条時政の邸宅に移っています。
しかし、源千幡(源実朝)の乳母・阿波局が、牧の方(北条時政の継室)が、悪時をたくらんでいると北条政子に告げたたろ、源千幡を北条時政から引き取っています。
そして、9月15日、源千幡(源実朝)に征夷大将軍が宣下され、北条時政と大江広元によって、源頼家は鎌倉追放となり、9月29日に伊豆・修禅寺にて謹慎となりました。
翌年の元久元年(1204年)7月18日、源頼家は修禅寺にて、入浴中を金窪行親に襲撃されて死去。享年23。

なお、北条義時の正室・姫の前は、離縁させられていたようで、上洛すると、源具親と再婚したようです。
比企能員の末子・比企能本(ひき-よしもと)は、まだ2歳だったため、和田義盛に預けられたのちに安房国へ配流となりましたが、のち、比企ヶ谷に法華堂(妙本寺)を創建しています。
妙本は母の法名です。

妙本寺

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、比企能員を俳優の佐藤次郎さんが演じられ、渋河兼忠の娘と考えらる「道」(みち)と言う正室を、女優の堀内敬子さんが、熱演されます。
源頼朝を支えた乳母・比企尼(ひきのあま)のキャスティングは、大女優の草笛光子さんです。


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