豊臣秀吉の実像に迫る~本当の出自は?【木下藤吉郎の真実】

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莫大な権力と財力を持って、大阪城を築き、天下統一を果たした戦国時代の英雄「豊臣秀吉」について、その生涯を紹介する書籍やホームページは多い。
そのためこのページでは、なぞ?が多いとされる豊臣秀吉の生まれ、本当の出生と若い頃の動向について迫って見た。

豊臣秀吉が生まれた際の身分

豊臣秀吉は、農民出身であると言うのが、我々が知る豊臣秀吉だが、実際にはどうだったのか?
豊臣秀吉の生年は、これまで1536年とされていたが、最新の研究では1537年とする説のほうが支持されることが多い。
生誕日は天正記の記述や、家臣・伊藤秀盛の願文の記載から1537年(天文6年)2月6日とする説が有力である。
尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)で、百姓と伝えられる木下弥右衛門と、なか(のちの大政所)の子として生まれた。
ようするに、我々が一般的に知るように百姓の子として、豊臣秀吉は生まれたと言うのが一般的だ。
ただし、父親である木下弥右衛門は、足軽として織田信長の父親でもある尾張国の武将・織田信秀に仕えていたという説もある。
当時の足軽と言うのは、通常は農業をし、戦の時には兵士として参陣する半農半士の足軽・雑兵も多かったので、仮に足軽の子であったとしても、百姓の出であったと言う表現は、あながち間違いでない。
現存する書状などには木下弥右衛門と言う記載がみられることから、姓名も付かない貧乏農民ではない。
姓名があることから、農民と言えども、ある程度地位のある農民(豪農・名主)であったと考えても良いだろう。
いずれにせよ武士とは呼べない下級の出から、関白にまでなったので、大出世したことには間違いなさそうだ。
テレビドラマや小説などで「日吉丸」と幼少期に呼ばれていたとされるが、この名前は創作であることが確定している。
豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は、晩年、織田信秀の足軽組頭を勤めたとする説を考えて見ると、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が、織田信長に小者として仕えることになったコネが全く無かった訳ではないと説明が付く。
足軽大将1名には、足軽組頭(足軽小頭)が数名ついて、足軽組頭は30名前後の足軽を統率したとするのが戦国時代での例だ。
現代の軍隊に例えるなら、足軽組頭は「軍曹」のような地位だろう。
ただ、誰でも足軽組頭になれると言う訳ではないので、こちらからも、木下弥右衛門は農民でも豪農や名主など、みんなをまとめる役にあったか?、合戦で手柄を立てて、足軽組頭になったものと推測される。
一方、木下と名乗ったのは、木下藤吉郎が「おね」(のちの北政所)と結婚した際、おねの家が木下だったので、その名跡を継いだからだと言う説もあるので、念のため記載しておく。
要するに、のち天下人にもなった豊臣秀吉の出自が姓名も無い農民ではいささかマズイと言う事で、もともと木下と言う名であったことに、してしまった事も考えられるが・・。

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木下藤吉郎は最初、織田信長に仕えていない

1543年に父・木下弥右衛門が亡くなると、母の大政所(本名・なか)は竹阿弥と再婚した。
しかし、秀吉は義父の竹阿弥と折り合いが悪く、いつも虐待されるなどしたため、家を出る事を決意し、行商などを行って生計を立てつつ駿河国に行ったとされる。
一説によると、豊臣秀吉自身が、織田信長などに仕える前には、針の行商人だったと言う。他にもイロイロな職業が垣間見える。
針は重くなく、たくさん持ち運びできるし、腐る事も無いので無駄が出ない。
要するに、遠方に持って売りに行くのには、もってこいの商売である。
恐らくは、木下藤吉郎はイロイロな世の中を見て歩いて見聞を広めつつ、仕官先を探しながら旅を続けたのではないかと小生は推測する。
そして、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、最初から織田信長に仕えたと言うのは表現は、現在のところ正しくはない。
最初、木下藤吉郎は松下家の家臣となった。
1554年?(それより数年前とも)、木下藤吉郎17歳前後のこととされている。
松下氏は松下之綱(松下加兵衛)と言い、今川家の直臣・飯尾氏の配下で、引馬城の支城・頭陀寺城主だった。
要するに今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)の家来として、最初、木下藤吉郎は仕えたのだ。
木下藤吉郎はこの松下之綱(松下加兵衛)より、文字・武芸・学問・兵法などを学んだともされている。
それらを考慮すると、正式な家臣と言うよりは、素質を見込まれた若き勉強生と言う存在だったのかも知れない。
城の蔵から物が良く紛失することから、試しに木下藤吉郎に蔵番をさせてみると、木下藤吉郎は「犬」と一緒に番に立ったので、蔵から物が無くなる事が減ったと言う逸話も残る。
ただ、人より優れていると、妬まれると言う事があるように、木下藤吉郎は松下之綱(松下加兵衛)の同僚を敵に回したようで、松下之綱(松下加兵衛)は惜しみつつも、木下藤吉郎に路銀(30疋=300文約3万円)を渡して、出て行くようにと言う結果で終わった。
事実、織田信長に仕えてからも、織田家中の者は秀吉を快く思っていなかった者が多い。
それだけ露骨に出世欲をむき出しにしていたのかも知れない。
ちなみに、松下之綱(松下加兵衛)は桶狭間の戦いにて、今川義元が討たれたあとは徳川家康に仕えたが、武田勝頼高天神城を攻めた際、篭城・降伏している。
そして浪人となったところを、長浜城主になっていた羽柴秀吉に召抱えられたようだ。
江戸幕府が開かれると遠江久野藩16000石として松下之綱(松下加兵衛)は大名に取り立てられている。

話を戻すが、松下氏の元を離れた木下藤吉郎は、仕官を諦めず、このあとすぐに織田信長に仕えるようになったものと推測されている。
しかし、織田信長が仕官を許した経緯は諸説ありハッキリしない。
定説では織田信長の小人頭であった「がんまく一若」の紹介で仕官を願い出たとされている。
いずれにせよ、気性が激しく、一歩間違えれば斬られてもおかしくない、織田信長が仕官を許したのであるから、木下藤吉郎の才覚を見抜いての事だあろう。

木下姓を名乗り始めた時期

松下之綱(松下加兵衛)の世話になる際に、豊臣秀吉は木下姓を名乗っていたとする説に基づいてこれまで記載してきたが、実は、木下姓を名乗り始めた時期にも諸説ある。
その松下氏に仕える事になった際、「松下」由来である「木下」を名乗るようになっとする、興味深い説もある。
別の説では、おね(北政所)が元々、木下家であって、結婚した際に木下の家督を継いだ(婿養子)の可能性もあるとされている。

蜂須賀小六の全面協力をなぜ得られたのか?

蜂須賀小六(蜂須賀彦右衛門正勝、蜂須賀正勝)は、尾張北東部を拠点にした野武士の棟梁で「川並衆」と呼ばれる約2000人を率いていた。
時には美濃・斎藤氏に協力し、時には織田氏に協力するなど、固定の勢力に属さない、木曽川流域に住む独立勢力であった。
この当時、大きな川は国境や領地の境になる場合が多く、その川筋・川域は、どの勢力からも支配されない地帯になることがある。
そのため、村を出た元農民、罪を犯して逃亡している者など、住むところを失った「ならずもの」が河川敷に集まることが多いのだ。
木曽川でも、恐らくはそのような事情を抱えた烏合の衆が集まり、普段は水運・舟渡しなどを行って生活費を稼いでいたのであろう。
そして、自衛手段として集団で武装して戦闘もおこなったので「川並衆」として、戦が起こればどこぞやの勢力に、金で雇われて戦に参加すると言う、現代で言えば「傭兵集団」の側面も持ち合わせたのだ。
いずれにせよ、織田信長に仕えた木下藤吉郎は、この川並衆・蜂須賀小六の全面協力を得て、1561年(1566年とも)、墨俣に一夜城(墨俣城)を築くのである。
しかし、まだ若く駆け出しの織田家家臣で、まだ名も知られていない木下藤吉郎の協力要請を、蜂須賀小六はなぜ受けたのであろうか?
この点を探ると、木下藤吉郎と言う人物像に、より迫ることができる。
まず、少なくとも、木下藤吉郎は、諸国を放浪していた際に、蜂須賀小六と接触し、一時期世話になっていたものと考えられている。
接点がないことには面会すら難しいだろう。
諸説あるが木下藤吉郎の父・木下弥右衛門は、蜂須賀小六の父・蜂須賀正利に仕えていた可能性も捨てきれない。
家臣ではなくても、元々知り合いだったのかも知れない。
要するに、木下藤吉郎と、蜂須賀小六は古くからお互いを知る間柄であったことが考えられる。
その為、木下藤吉郎の巧みな話術などにより、蜂須賀小六の協力を得る事ができたのだろう。
いずれによせ、土木工事・利水工事にも強く、操船や山岳戦も得意な川並衆2000人を味方にできると言うことは、この時、木下藤吉郎は数万石の大名と同等の戦力を有していたのと変わらない。


 

豊臣秀吉の指は6本だった?

木下藤吉郎(豊臣秀吉)の手は指が1本多い「多指症」だったと、宣教師ルイス・フロイスの記録や、前田利家の回想録「国祖遺言」に記されている。
2種類の書物に記載があるので、事実だった可能性が高い。
日本人の遺伝的な先天性多指症は、親指がもう1本多いことが多く、豊臣秀吉も同じく、右手の親指が1本多かった。
ある程度、身分もあるような家系であれば、現代でもそうだが、幼いうちに指を切断して5本にする。
しかし、豊臣秀吉は6本のまま大人になったものと考えられる。
織田信長からは「猿」と呼ばれる他に「六ツめ」とも呼ばれていたようだ。

よって、幼い頃から、邪道扱いされたり、いじめられたり、気苦労も耐えない中、成長したのだろうと推測できる。
しかしながら、ときには慈悲を受け、必死に生きてきたためか、人を引き寄せる話術を習得しただけでなく、出世して見返してやろうと言う意欲が並みではなかったのが、成功へ繋がったのだろう。
そのためか?、豊臣秀吉は晩年、子供ができると、自分のように捨てられて・拾われてここまで出世することを願いたいと言うような、「すて(捨て)」「ひろ(拾い)」と言った幼名を子供につけている。

信長公記には、織田信長の慈悲深さが良く分かる「山中の猿」の記載が残されている。
これは、山の中で乞食として暮らす一族がいたのだが、遠い先祖が常盤御前を殺し、その罪により、子孫代々、障害者として生まれるため、村などには住めず、山の中で猿のように乞食として暮らしていたのだ。
その恵まれない一族に、織田信長が品物や食料などの生活物資を定期的に与えて、保護する話である。
要するに、理由があって恵まれない人々を織田信長は保護・支援すると言う、現在で言えば「生活保護」を行っていたので、木下藤吉郎も慈悲を受けて、小者に取り立てられた可能性も捨てきれない。
ちなみに、日本人で、生まれながらに手・指に異常がある確率は出生1000人に対して1.25人程度で、その異常の20%は手の異常とされている。
母親がタバコを吸う女性だと、確率が約1.3倍に上がると考えられている。

一概には言えないとは思うが、豊臣秀吉は多くの側室抱えながらも、子供にあまり恵まれなかったと言うのもこのように障害を持っていたからだとする説もある。

天下人になると多数のアクドイ事も・・

織田信長も比叡山焼き討ちなど、一般的には「惨い」(むごい)ことをいくつか行ったが、豊臣秀吉も日本で一番の権力を手に入れてからは、それ相応にヒドイことをいくつも行っている。
実の妹・朝日姫(旭姫)を離縁させてまで、実質的な人質として徳川家康の継室に出したり、特に、跡継ぎとなる子が生れてからは色々と目立ち始め「聚楽第の落書き事件」では罪のない町民なども含めて60名を斬首したりしている。
また、弟・豊臣秀長が亡くなったあとからは更にビトクなっている。
千利休の切腹、関白・豊臣秀次の一族大虐殺、朝鮮半島での残虐行為など、記載しなくても良いだろう。
その結果もあってか、正義感の強い加藤清正福島正則らと、豊臣政権をなんとか維持したい石田三成大谷吉継らの対立に繋がったと主張する方も多いが、皆様の意見はいかがであろうか?

豊臣秀吉の総評

豊臣秀吉が織田信長に仕えるまでの資料を調べているうちに、気がついたのは、木下藤吉郎は少なくとも幼少期から青年期まで、親にはほとんど見捨てられ、現在で言えば中学生・高校生の頃、自分だけの力で、大変苦労して生き抜いたことが良くわかった事である。
15歳前後より東海地方で士官先を探すのだが、元々貧しいので旅費(生活費)がなく、針を売り歩きながらの放浪生活。
大きな武家に生まれ、将来がある程度約束されていた織田信長や、徳川家康とは大違いである。
そのように自分一人で解決しなくてはならない環境下であり、自然に商売人の心構えを身に付け、話術・好かれる術を身に着けるに至った。
なるほど、実力もない若造が、様々な実力者の協力を得て、織田家の中で出世して行けたのも納得が行くのである。
たいていの人物であれば、農民から武家の家臣になり、家禄を得て生活が楽になっただけで、満足してしまうだろうが、それに満足せず、誰よりも「もっと」偉くなりたいと言う出世欲にはとても凄まじいものを感じる。
さすがに晩年の悪行は評価できないものの、天下人になるまでの過程に限って見れば、多くの方が素晴らしい行動力だと感じるのではないだろうか?
私は、これらの事を調べるまで、単に大出世したと言う豊臣秀吉を、余り好きではなかったのだが、本当は「苦労して出世した」ことがわかり、次第に好意を感じるようになってきた次第である。

豊國神社(大阪城)

大阪城を訪問した際に「豊國神社」(ほうこくじんじゃ)も訪れたので、ここで写真をまじえてご紹介したい。

大阪城にある豊國神社(豊国神社)は、明治天皇が建立の御沙汰を出し、明治12年に大阪府北区中之島に創建されたが、昭和36年になって現在の大阪城・二の丸に遷座した。

太平洋戦争中に鉄材供出された豊臣秀吉像が2007年4月17日に復元された。

大阪城の観光と共に、多くの外国人観光客も訪れており、出世開運の神様として人気が高い。

社殿の右奥には「秀石庭」と言う庭園もある。
下記は広島・不動院にある豊臣秀吉の遺髪塚だが、遺髪とは言え、豊臣秀吉の墓としては大変貴重な存在となる。

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※トップ画像出典:逸翁美術館

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コメント

    • 2016年 7月 09日

    とても良くまとまっており、大変わかりやすい説明、感激しました。
    それにして、豊臣秀吉が生まれて、出世するの出の事は、複数の説もあって、よく分からない事もたくさんありますよね?
    更なる豊臣秀吉も是非、教えてください。

    • 高田哲也
    • 2016年 7月 09日

    猿さま、コメントを賜りまして誠にありがとうございます。
    豊臣秀吉に関しても、更に充実して参りたいと存じます。

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