井伊直虎は「男」だったのか?~新説では関口氏経の子か? ご意見も募集


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井伊直虎は「男」だったのか?と言う説について、考えてみました。

女性でも城主と呼ばれた例を挙げてみますと、足利氏姫立花誾千代おつやの方お田鶴の方・椿姫小松姫(稲姫)などがいます。

その部類に井伊直虎も入る訳ですが、井伊家の末柄でもある井伊美術館(京都)の館長・井伊達夫さんの説によると、井伊直虎は女性ではなく男性だったとの結論に至ったと言います。

井伊直虎は、井伊谷城主・井伊直盛の娘として生まれたとされています。

生年や幼名は不明です。
しかし、まだ子供の頃に出家して次郎法師(じろうほうし)と称したことは分かっています。
井伊直盛の娘が当然女性で、この次郎法師となったのはまず間違いありません。
ただし、生年や幼名もわからないなど、史料は少ない訳です。

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しかし、のちに井伊家を切り盛りしたとして文献に出て来る、次郎直虎と言う人物がいます。
今までの解釈では、この「次郎直虎」と言う武将とも捉えることができる名前の人物は、女性である次郎法師が還俗したと考えられていました。

ただし、この次郎法師が次郎直虎と改名したと言う事は、文献に記載されているのが見つかっていない?と言う事で、古い研究者がそのように解釈した可能性があり、一般的にそのように考えられるようになったのではと、井伊達夫さんはご指摘されていると言う事になります。

なるほど、完全に否定することができない話でもありません。
ただし、研究を引き続き行うと言う事ですので、今後、新たな事が分かれば、見解も変わって来る可能性は当然ありますので、現時点での話です。

そもそも、次郎法師や次郎直虎の「次郎」(じろう)と言う2文字は、井伊家においては代々、当主となる人物が受け継いできた惣領名ですが、「法師」と言うのも井伊家の惣領名です。

そして「井伊家伝記」では「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」と記載されています。
そのため、次郎法師はほぼ間違いなく井伊直盛の娘で「女性」であったことは分かっており、自分の意志で出家したともされています。
なおかつ、井伊家の実質的な当主と目されてからは「次郎法師」の名を使って、公的な印判状を永禄8年(1565年)頃には発行しています。

ただし、次郎法師として出家することになったと考えられている、許嫁の井伊直親が信州に逃れた天文13年(1544年)の時点で、その井伊直親は10歳。
次郎法師の父・井伊直盛はまだ19歳と若く、この時すでに生まれていた娘・次郎法師(出生年不明)の年齢を想像してみると、年齢が高くても4歳~6歳程度と考えられます。
その場合、とても自分の意志で出家しようという判断力がある年齢に達していたのか?となると、少し疑問が生じます。
もちろん、賢い少女だったのかも知れませんが・・。

次郎直虎の名が見られるのは、私が把握している範囲で、永禄11年11月9日、要するに1568年です。
そして、井伊家の家系図には、この井伊次郎直虎(井伊直虎)の人物名は記されていません。
それゆえに、正式な井伊家の当主として井伊直虎が入っていないのです。

確かに、当主だった、次郎法師の父・井伊直盛の直系で、仮にも井伊家を跡継ぎとなった人物であれば、家系図に掲載されていておかしくない話です。
しかし、井伊次郎直虎(井伊直虎)の名は出てこない。
しかも、称した名前が似ているだけで、次郎法師=次郎直虎(井伊直虎)と、同一人物であった証拠も、現時点では見つかっていないと言うのが、今回ご紹介させて頂いた一説です。

そして、1640年(寛永17年)年に、今川家の家臣だった新野親矩(にいの-ちかのり)の娘らから話を聞いた内容を、1735年(享保20年)に、子孫の木俣守貞が本にまとめたと「雑秘説写記」(ざつひせつ)があります。
この古本には「井伊谷は親矩のおいの井の次郎に与えられた」「関口越後守(関口氏経)の子を井伊次郎として井伊谷をあてがいました」とあるそうです。

関口氏経(せきぐち-うじつね)と言う武将は、築山殿(瀬名)の父である関口親永の一族と考えられますが、遠江の井伊家の目付けを任じられていたようです。
そして、関口氏経は井伊家家老・小野道好(小野政次)を重用していますが、この関口氏経じたいは1560年の桶狭間の戦いにて討死したとも?あります。
そのため、関口氏経の子が、井伊家に対して目付のような役割を果たしていた事は、充分考えられます。

井伊家の当主的立場になる武将は「井伊次郎」と言う惣領名を称しますので、関口氏経の子が一時的とはいえ井伊家の当主となった場合には「井伊次郎」と名乗っても、まぁ、おかしくない話です。
そして、井伊谷では、戦国時代の1568年11月9日に、関口氏経と連署で次郎直虎が領内に徳政令を出しています。

直虎の花押も記載されていますが、女性であれば花押は用いないとする説もあります。
でも、足利尊氏と足利直義の母である上杉清子は女性でも花押を使っている例もあります。
仮に次郎法師が直虎と称したとしても、女性と言うよりは男性と見せかけるために花押を使ったとも十分に考えれます。

このように今までは、その次郎直虎は、次郎法師(井伊直虎)であると考えられていたため、次郎法師がおんな城主になったんだと推定されていました。
ただし、関口氏経は既に死去していた可能性もあり、まだまだ不明点も多いです。
しかし、井伊直虎が井伊家の当主として家系図には掲載されていないのは、つじつまが合います。

いずれにせよ、次郎直虎は井伊家の当主格として、領内に触れを発給していますので、短期間とは言え、当主となったとも言えます。
しかし、今川氏真は小野政次(小野但馬守道好)を井伊谷の代官にしたようですので、今川家が井伊家や豪商・瀬戸方久を追い詰めたと言えるでしょう。

そして、徳政令が出たあと小野政次は井伊家に謀反を起こして、井伊谷城を占拠します。

これに対して、井伊家としては徳川家康に支援を求めて、小野政次を捕縛して処刑し、今川家に反旗を翻し、井伊直政を擁立することになるのです。
ただ、言えることは、次郎法師は、井伊直虎と称していなくても、南渓和尚らと伊直政擁立と井伊谷の政治に関しても、関与していたのは間違いなさそうです。

当然、色々な説がありますので、上記の内容は、そのなかのひとつに過ぎません。
新説を唱えるのが良くないと言う事でもなく、昔に研究した方が史料も乏しい中ですので、誰が悪いと言う事でもなく、歴史の研究はそもそも難しいのです。
新野親矩の娘が話した内容が、子供の頃の記憶で間違った解釈をしていたり、その後、伝わって行くなかで話が変わってしまった可能性だって否定はできません。
もちろん、次郎法師が、井伊直虎し称して「おんな城主」になった可能性も完全に否定はできない訳でして、私にはどれが正しいかは、正直、わかりません。

と言う事で、非常に解釈が難しい事案なのですが、このような説もあると言う事でご紹介させて頂きました。
いずれにせよ、大河ドラマ「おんな城主・直虎」の放送で、新たな発見が出てきたり、研究が進む可能性もありますので、非常に良い事ですし、注目できます。

ただし、勘違いしないで頂きたいのは、ドラマはあくまでもドラマであり、フィクション・創造・脚色が入っています。
100%史実どおりに制作するドラマはありませんので、視聴者の皆様には「史実と違う」なんて思わないよう、ご注意願いたく存じます。
見る人が楽しめるように、わかりやすく、ドラマチックに描くのが劇(時代劇)であり、それが発展したのがドラマでございます。
個人的には、ドラマでの井伊直虎は、女性で良いと存じますし、男性にと変更する必要性も、全くないと考えております。

なお、上記の井伊直虎が「男だった」可能性がある件に関しましては、差し支えなければ、皆様からも多くのご意見を賜りますと幸いに存じます。
下記のコメント欄よりご意見を賜りますと幸いです。

私も上記の説が正しい、間違っていると申し上げている訳ではなく、ひとつの説としてご紹介させて頂いております。
他の人の意見が間違っているなど、絶対こうだなど、偏った思想・批判的なことなどが記載されていなければ、コメント欄にそのまま公開承認させて頂きます。
※必ず掲載させて頂くと言う事ではありませんので、判断はお任せいただきます事、ご容赦願います。
※このページに関してはお寄せいただいたコメントに対して、当方よりご返信掲載することは自粛致しますので、ご了承願います。

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コメント

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  • コメント (4)

    • どさ
    • 2016年 12月 16日

    まずは新しい資料をきちんと批判してから。
    新設に飛びつく人には今までどれだけの偽書が世間を賑わせてきたかを考えてほしいものです。

    • のんの
    • 2016年 12月 30日

    先ず
    先日において発表された新説提唱者の方々も次郎法師(今回大河の主人公)が女性であることは認めています。
    さらに、この次郎法師が虎松(直政)の養育に係った可能性もあります。

    ただ
    問題なのは今回発表された新説の根拠となる史料そのものが
    今川忠臣だった新野左馬助の娘とされる当時としては超高齢の方の伝え聞いてものを
    天正13年(1585)生まれである当時の彦根藩家老の木俣守安が寛永17年(1640に)書き留めたを
    およそ100年後の彼の子孫と思われる木俣守貞が享保20年(1735)に書き写したもの(写本)であることと

    その写本にも
    今川家臣だった関口氏経の息子とされる井伊次郎が「直虎」だという記述がなかったことから鑑みると
    新説発表のタイミングが何か意図的だったと感じてしまっても無理はないと思いますが如何でしょうか?

    • 福木伸哲(ふくぎのぶあき・実名です)
    • 2017年 1月 06日

    歴史とは過去であり古くなればなるほど正確性を欠くもの
    真実を追求するのは恐らく不可能です
    だからそこは個人的に気に入った解釈をもとに
    あくまで自分自身の心のなかでその時代に想いを馳せるのが
    歴史を楽しむ醍醐味だと東大教授の本郷先生も言ってました
    だから良くない事は一部の解釈を真実だと信じこみ
    他人にその説を押し付けることかと
    歴史の解釈は個人の自由かと思います

    • あみ
    • 2017年 1月 14日

    【『「うちの70過ぎの母の話によると、母のいとこ(男)が殿様の家に入ったとのことだ」と100年前の当家2代がしるしている』と書かれた井伊家家老の文書が残っていることがわかった。】と言われてもため息しか出ません。そんな話題をとりあげるサイト全体が怪しいものに思われます。
    せめて、「数少ない忠臣、新野左馬助一族の者を追いやってまで、氏真が小野但馬守を取り立てた理由はこうだ!!」という理論武装くらいないと。
    ただの歴史愛好家なら好きにすればいいですが、真田丸にしてやられた他局やその系列新聞社の大河つぶしのデマを拡散するのは恥ずかしいことです。

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