最上義光とは~羽州の狐・虎将と呼ばれた勇将【詳細版】


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最上義光(もがみ-よしあき)は山形城主・最上義守の嫡男として1546年1月1日に生まれた。
母は小野少将の娘で、永浦尼、大崎氏の出身とする説もある。
ただし、永浦尼は最上義守の母、もしくは最上義守の姉妹とも考えられている。

そもそも、最上家の先祖は清和源氏足利家の一族である斯波氏からの分家で、南北朝時代に足利尊氏の「北朝」に味方した。
この時、斯波家兼(尾張彦三郎家兼)が奥州管領として派遣され、斯波家兼の子・斯波兼頼が出羽国按察使(羽州探題)として山形に入りし、山形城を築城。
室町幕府より最上屋形と言う屋号を与えられていた事から、最上氏を称するようになり、1357年に初期の山形城が完成した。

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最上義光はそれから11代目とし誕生し、5歳児の頃には12歳に見られる恵まれた体と、16歳で200キロ近い大石を持ち上げたとされる怪力の持ち主だったと言われる。

1560年に元服すると、将軍・足利義輝より偏諱を受け、最上源五郎義光と名乗った。
1560年3月の寒河江城攻めにて初陣を果たしている。
正室は大崎夫人(大崎義直の娘)。

ちなみに「最上義光」と書いて「よしみつ」と読まないのは、妹・義姫へ充てた手紙に、ひらがなで「よしあき」と書いてあるのが発見された為である。

1563年には父・最上義守と共に上洛すると将軍・足利義輝に拝謁している。
1564年、最上義光の妹・義姫(保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、1567年に長男・梵天丸(伊達政宗)が生れているが、これは最上家が伊達家に従っていたことを示す。

1570年頃、父・最上義守と最上義光は家督を巡って争いとなったが、重臣・氏家定直の仲裁で和解すると、8月に家督は最上義光に譲られた。
1571年、隠居の最上義守は出家し「栄林」と号している。

しかし、1574年1月に再び両者の間が険悪となり、伊達家から独立したいと考えている最上義光を牽制するべく、伊達輝宗が岳父・最上義守を救援する名目で最上領内に侵攻した。
また、最上一族である天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが伊達輝宗に協力するなど、最上義光は窮地に追い込まれたが、攻勢を巧みに退け、9月10日には、最上義光が有利な和議が成立した。
これにより、最上義光はは伊達家からの独立に成功し、以後は、父・最上義守とも和解し再び争うことはなかったと言う。

その後、最上義光は勢威を回復させるため戦ったが、力押しだけでなく時には調略も駆使した。

1577年には天童頼貞の娘・天童御前を側室に迎えて、最上八楯と和睦。

1578年、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻すると、野戦にて撃退したが、その時、義姫が駕籠で乗りつけ、伊達家と和睦している。
1580年、植山満兼の重臣・里見民部に対して、寝返れば上山領を与えると誘い、里見民部は植山満兼を殺害して最上義光に降り、上山城を手に入れた。
1581年、小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破って小国城を攻略し、夏には小野寺家重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略した。

1583年、最上攻めを計画していた庄内の大宝寺義氏の家臣・東禅寺義長らに謀反を起こさ、大宝寺義氏が自刃している。

1584年、最上義光は谷地城主・白鳥長久の娘を嫡男・最上義康の正室に迎えようとしたが応じなかった為、仮病を使って白鳥長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、谷地城を攻略した他、寒河江城主・寒河江高基を攻めると自害させている。

最上八楯の一人・延沢満延に手こずると、延沢満延の嫡男・延沢又五郎に次女・松尾姫を嫁がせ、延沢満延を味方につけ、さらに東根城主・東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城も攻略し、最上義光は最上郡全域を支配下に収めた。
このように、次々と対立勢力を傘下に収め、山形盆地一円に広がる勢力を築き上げている。

1586年、小野寺義道と有屋峠の戦いとなり敗北するも、嫡男・最上義康と楯岡満茂らが反撃し、小野寺勢を撃退した。

1587年、大宝寺義氏の弟・大宝寺義興が上杉景勝に接近していると言う情報を得ると、素早く大宝寺義興を攻撃して自刃させ、大宝寺義興の養子・大宝寺義勝(本庄繁長の子)は越後に逃れている。

1588年2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃した大崎の戦いで、最上義光は援軍として5000を派遣し伊達勢を破った。
しかし、最上義光の妹・義姫が乗った駕籠が両軍の間に入り、停戦を懇願したため、和議を結んで撤退している。

1588閏5月、豊臣秀吉により最上義光が羽州探題に任命された。
8月、上杉家の本庄繁長、大宝寺義勝父子が庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は大宝寺氏に奪還された。

その後も上杉家との小競り合いが続いたが、上杉家の重臣・直江兼続石田三成を介して豊臣秀吉に接近したため、最上義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて豊臣秀吉との交渉当たった。
しかし、最終的には豊臣秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認されている。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは宇都宮城にて豊臣秀吉に拝謁し本領24万石が安堵されている。
この時、最上義光は伊達政宗よりも遅参したが、直前に没した父・最上義守の葬儀のためと、徳川家康を通じて連絡していた為、お咎めは受けていない。
なお、名門意識から参陣せずに改易された、正妻の実家・大崎家旧臣の多くを自らの配下に加えている。

1591年、徳川家康が九戸政実の乱の征伐に北上すると、次男・最上家親を徳川家康の小姓として差し出している。
また、豊臣秀次が山形城に立ち寄った際に、最上義光の3娘・駒姫を見染めて側室に差し出すよう迫ったが、最初、最上義光は断っている。
しかし、度重なる要求を受けたため、渋々差し出す事になり、せめて駒姫の成長を待って欲しいと願い出ている。
更に、3男・最上義親を豊臣秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。

1592年、朝鮮出兵では名護屋城に詰めたが、食糧輸送が主な任務で渡海はしていない。
この年から山形城の拡大改築を始め、豊臣秀吉からは羽柴の姓を与えられている。

1594年、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送りつけ、小野寺義道が八柏道為を成敗すると言う計略を用いた。
なお、岩出山城にいたはずの伊達政宗の母・義姫が出奔し、山形城に戻っている

1595年、駒姫が15歳になったと言う事で、約束通り豊臣秀次のもとへ送り出した。
京に到着した駒姫は最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、豊臣秀吉の命により豊臣秀次が高野山で切腹となった。
この時、豊臣秀吉は豊臣秀次の妻子も殺害するように命じており、捕えられた駒姫も、8月2日に他の側室らと三条河原にて11番目に処刑された。

まだ実質的な側室になる前だったとされ、最上義光も必死で淀殿などに助命嘆願を行い、豊臣秀吉もついに無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣したのであったが、あと一町の差で間に合わなかったとされている。駒姫・享年15。

悲報を聞いた最上義光は数日間食事を摂ることもできず、駒姫の生母・大崎夫人(釈妙英)も、駒姫の後を追うように27日後に亡くなっているが、自ら命を絶ったのではとも考えられている。

更に、豊臣秀吉はこの態度に怒り、豊臣秀次への加担も疑い、最上義光は謹慎処分を受けたが、間もなく解けている。
しかし、最上義光の豊臣秀吉に対する憎しみは決定的であり、慶長伏見地震の直後には、身を心配した徳川家康の方に駆けつけ、また、豊臣秀吉の茶会に招かれた徳川家康を自発的に護衛するなど、徳川色を強めた。

1598年、会津若松城主・蒲生秀行が転封されると、会津には天敵である上杉景勝が送り込まれた。

上記写真は、山形城にある最上義光の銅像。

長谷堂の戦い(慶長出羽合戦)

1600年、徳川家康が会津征伐を開始すると、最上義光と伊達政宗は徳川家に協力し、米沢城攻撃の準備を進めた。
しかし、石田三成が挙兵したため、徳川家康は会津攻撃を中止し、最上義光、伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じて江戸城に引き返した。

ただし、伊達政宗は旧領・白石城を奪還しようと攻めたが、その後、上杉景勝と講和を結んでしまう。
そのため、上杉景勝(120万石)と敵対するのは最上家(30万石)だけとなり、不利を悟った最上義光は、嫡子・最上義康を上杉家の人質に出すことで講和をはかった。
しかし、最上義光が秋田実季と結んで上杉家に対抗する姿勢もあったため、講和は成立せず、最上家は完全に孤立する形となる。

上杉家の重臣・直江兼続は、石田三成と徳川家康を挟み撃ちするべく、上杉景勝に進上するが、上杉謙信公は背を向けた敵を追撃する事は無かったとして却下したため、上杉勢は分断されている庄内と会津の中間にある山形へと侵攻することになる。

最上勢は7000を小野寺義道を牽制するため庄内に出していたため、約3000にて直江兼続2万の軍勢と戦った。

畑谷城の守将・江口光清は僅か350にて籠城戦を演じ、上杉勢の損害は死傷者1000にもなったが、畑谷城は全滅して陥落。

続いて上杉に長谷堂城を攻撃されたが、守将・志村光安率いる1000が鉄砲を駆使し、鮭延秀綱らの奮戦もあり敵将・上泉泰綱を討ち取るなど、長谷堂城を良く守った。
他にも上山城・里見民部、湯沢城・楯岡満茂らも善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いている。

最上義光は嫡子・最上義康を救援要請のため北目城に送り、伊達勢の留守政景が山形へ出陣する。
なお、この時、義姫も伊達政宗に対して援軍要請の書状を送っており、戦後には留守政景にも感謝状を出している。

そんな中、長谷堂城を包囲する直江兼続のもとへ9月29日になって、関ヶ原の戦いにて石田三成が敗退したとの報が届いた。
その為、上杉勢2万の大軍は米沢城まで撤退することとなり、最上義光は自ら先頭に立って上杉勢を追撃した。
しかし、上杉勢は直江兼続自ら殿(しんがり)を務めており、一斉射撃にて最上勢の堀喜吽が討死し、最上義光自身も兜に被弾してたが、嫡男・最上義康が助けている。
この見事な上杉勢の撤退には、最上義光も賞賛を惜しまなかったとされている。

最上義光は谷地城に籠る尾浦城主・下秀久を攻略し、短期間のうちに十五里ヶ原の戦いで失った旧領の奪還に成功した。

論功行賞では、最上義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を徳川家康から認められ合計57万石となり、出羽山形藩の初代藩主となった。

最上家一門としては下記の通り。

清水城主・清水義親~27000石。
大山城主・大山光隆~27000石。
上山城主・上野山義直~21000石。
山野辺城主・山野辺義忠~19300石。
岡城主・楯岡光直~16000石。
白岩城主・松根光広~12000石。

1万石以上の主な家臣は下記の通り。

由利城主・楯岡満茂~45000石
亀ヶ崎城主・志村光安~30000石
寒河江城主・寒河江広俊~27000石
野辺沢城主・延沢光昌~20000石
天童城主・氏家光氏~17000石
長崎城主・里見民部~17000石
長谷堂城主・坂光秀~13000石
東根城主・東根景佐~12000石
真室川城主・鮭延秀綱~11500石
滝沢城主・滝沢政道~10000石

ちなみに、念願の庄内を手に入れた事で、大好物の塩鮭が自由に食べられると記載した書状も見受けられる。

伊達家と争っていた頃から、大減税を行うなど荒れた領内の復興に努め、領民に対しては非常に寛容であったことから、最上義光の存命中には、一揆が発生したと言う記録が無い。

本拠地・山形城も国内有数の平城へと拡張され、城下町を整備した際には、山形城下において商人から地子銭・年貢を免除し、125坪から150坪の土地も与えたと言う。
また、用水を整備して庄内平野の開発を進め、羽州街道・笹谷街道を整備し、日本海の要津・酒田港からの海運へと繋げて流通を盛んにし、藩財政を大いに潤した。

最上義光は大宝寺城を改築して改称した鶴ヶ岡城へ隠居すると、嫡男・最上義康との関係が、里見民部、里見権兵衛、原八右衛門の讒言によって次第に険悪となる。
また、徳川家康の近習となっていた最上義光の次男・最上家親を、徳川家康は大層気に入っていたため、次男・最上家親に最上家を継がせたいと考えたともある。

このような経緯から嫡男・最上義康を廃嫡すると、最上義康は家臣らの説得を受けて、高野山へ向かう事となり、重臣・浦山源左衛門らと旅だった。
しかし、その途中で土肥半左衛門ら20名に矢と鉄砲を射かけられ、裏山源左衛門は即死、嫡男・最上義康は臍を撃たれたため、自刃した。

この事件で、嫡男・最上義康の首を見た最上義光は涙を流して我が子の死を深く悲しみ、また遺品の中から、父の武運長久を願う日記を目にする。
そのため、家臣・斎藤光則に調査を命じると、危険を察した里見民部が前田家を頼って山形を去ったが、斎藤光則らの手により粛清されたようだ。

義光山常念寺を最上義康の菩提寺として葬ったが、駒姫のときと同じく大変手厚いものであったと言う。

1611年3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官し、新築祝いのため駿府城を訪問したが、この頃から病がちになる。

1613年、病をおして最上義光は江戸城にて将軍・徳川秀忠に謁見。
さらに駿府城にも赴き、徳川家康に最上家の今後を託した。

戦国一「邪悪」であり、裏切りなどを繰り返したとされる最上義光も、激動の世の中をうまく切り抜けて故郷を守り抜いたと言えよう。
1614年1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく死去。享年69。

家督は次男・最上家親が継いだ。
葬儀当日に、寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守の4名が殉死している。

最上義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。

最上家の掟

一つ、女、子供、病人をみだりに殺さない事。
一つ、敵の領地でも刈田狼藉は働かぬ事。
一つ、武具は身分以上のものを揃え、衣服は質素を旨とする事。
一つ、酒を飲み過ぎないようにする事。
一つ、佐々木高綱みたいに仲間を騙したり、民間人を騙し討ちして手柄をたてようとしない事。

戦国時代では細川幽斎前田玄以に次ぐ、33巻・248句もの連歌を残しており、最上義光はかなりの文化人であったことも伺える。
テレビドラマの影響でダークなイメージが強い最上義光であるが、間違いなく名将と言えよう。

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