成瀬正一と成瀬正成~意外性もあった徳川家の家臣とその功績


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成瀬正一(なるせ-まさかず)は、影山城主・成瀬正頼の次男として1538年に生まれた。

この父・成瀬正頼は三河・松平家の家臣で、徳川家康の父である松平広忠の岡崎城復帰を支援した武将のひとりで、1540年?に安祥城が織田信秀によって攻撃・落城した際に討死した。

そのため、家督は兄・成瀬正義が継いだようであるが、松平家も今川義元に屈服していたため、成瀬家も苦悩したことであろう。

1560年、桶狭間の戦いで、松平信康(徳川家康)が岡崎城にて独立すると、成瀬家も徳川家康に従い多く合戦にも出陣した。
しかし、1562年に兄・成瀬正義が仲間を斬って徳川家から出奔する。
兄・成瀬正義は1563年から三河一向一揆となった際に、松平家(徳川家)に戻り、その後も徳川家の家臣として1570年の姉川の戦いにも参戦した。

一方、弟の成瀬正一は兄が出奔したより前である1560年に徳川家を離れたようで、武田信玄に仕えると諸角虎定(室住虎光)の与力となったようだ。
1561年の第4次・川中島の戦いにて、討ち取られた諸角虎定(室住虎光)の首級を、石黒将監(石黒五郎兵衛)と共に取り返した戦功により、甲斐・黒駒に領地を与えられている。

その後、成瀬正一は小田原城主・北条氏康の誘いを受けたなど諸説あるが、のち兄が再度仕えた徳川家康の元に戻り、兄・成瀬正義と共に姉川の戦い、三方ヶ原の戦いにも参陣した。

1567年には、弟・成瀬正一と正室・熊谷直連の妹との間に、嫡男・成瀬正成(なるせ-まさなり)が誕生しており、幼少より小姓として徳川家康に仕えている。

しかし、1572年12月22日、三方ヶ原の戦いにて旗奉行を務めていた兄・成瀬正義は、徳川家康を逃がすため馬場信春隊の突撃を防いで討死した。
成瀬正義が討死した場所は「成瀬谷」と呼ばれている。

弟・成瀬正一は暗闇の中、浜松城まで逃れる徳川家康の道案内を務め、徳川家康の命にて、弟・成瀬正一が家督を継いだ。
なお、成瀬正義の正室・勒(本多忠勝の姪?)は、4人の遺児を連れて高天神城近くの本楽院大澤寺に入り菩提を弔っている。

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1575年、武田勝頼との長篠の戦いでは、大久保忠世の与力として成瀬正一や日下部定好の名が見られる。
この時、成瀬正一はかつて武田家にいたことから、武田勢の旗指物を識別したりしながら、鉄砲隊を指揮した。
この戦いの様子が描かれた「長篠合戦図屏風」やのち豊臣秀吉と戦った「長久手合戦図屏風」は成瀬家に伝わるものが原本となっている。

武田勝頼に占拠されていた高天神城の攻略では、日下部定好と共に高天神城を取り巻く砦(小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・三井山)との連携を強化させて、1582年の落城に貢献した。

1582年、武田家が滅んだ際の駿河・田中城攻めでは、頑固に抵抗した依田信蕃に降伏勧告すため、徳川家康より急遽呼び出されて、成瀬正一と山本帯刀(山本勘助の弟?)が使者となった。
田中城の受け取りは大久保忠世が担当している。
また、織田信長の武田狩りが行われた際には「成瀬吉右衛門を訪ねるように」と立て看板を出し、成瀬正一が武田旧臣の多くを遠江・桐山に匿ったと言う。

本能寺の変のあと、徳川家康が甲斐へ侵攻した際には、甲斐の奉行を日下部定好と成瀬正一が務めた。
この時、武川衆の米倉忠継、折井次昌や、大久保長安らを徳川家臣に加えているが、その後、大久保長安が頭角を現すと、甲斐の奉行は3名体制となった。

なお、1584年の小牧・長久手の戦いでは、小姓組にいた嫡男・成瀬正成が初陣し、兜首ひとつを挙げた功積により、徳川家康から脇差と500石を受け取っている。

1585年、石川数正豊臣秀吉の元に出奔し、徳川家の軍制が漏れた際に、徳川家康は武田流の軍制を取り入れるが、命じられたのは成瀬正一であった。
成瀬正一は武川衆・市川家光の協力を得て「旗下大番六備の作法の書」「分国の仕置」「法度の式目九十九箇条」「軍伍」といった武田流軍制を整えた。
ちなみに、井伊直政の赤備隊には、諸角虎定(室住虎光)の首級を一緒に取り返した、石黒将監(石黒五郎兵衛)が加わっている。
また、鉄砲を得意とした根来寺の残党である根来組50名が、成瀬正一の嫡男・成瀬正成(17歳)の配下に置かれた。
根来組の鉄砲師範には後の牛久藩主・山口重政が任ぜられている。

1590年、徳川家康が江戸城に入ると、成瀬正一は武蔵・鉢形城の城代となり、与力の武川衆と共に政務に当たり、1592年に再建した秩父神社の本殿は現存する。
一方、嫡男の成瀬正成は小田原攻めにて戦功があり、下総の葛飾郡栗原(船橋)にて4000石となり、江戸城下の四ツ谷にも屋敷を与えられた。
この時、甲州街道の備えとして、内藤新宿に根来組を配置している。
また、成瀬正成は朝鮮出兵の際に豊臣秀吉の目にとまり、50000石で豊臣家に来ないかと誘われたが「二君に仕えず」として涙を流して、どうしてもという事であれば腹を斬るとまで言った戸の逸話がある。

1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢の旗奉行として上田城の戦いなどに参加し、のち武蔵と近江にて合計2100石となり、成瀬正一は伏見城の留守居役となっている。
嫡男・成瀬正成の方は徳川家康の使番として根来組100名を従って、関ヶ原では先鋒を務めた。その功により堺奉行に抜擢され、本多正純、安藤直次らと老中として初期の徳川幕府の幕政に関与した。
そのため、幕府直轄領であった甲斐に2万石と、三河・加茂郡内に1万石を与えられ、合計3万4000石の大名となっており、徳川家でも異例の出世と言えよう。

1614年、大阪冬の陣では嫡男・成瀬正成が参戦し、諸大名の軍勢を統制した他、本多正純、安藤直次らと大坂城の「堀」の埋め立て工事指揮を執った。
大坂夏の陣では、真田信繁(真田幸村)の突入を受け、徳川家康の旗本が潰走していく中、奮戦した武将として、成瀬正一の3男・成瀬正武(成瀬正成の弟)の名も見られる。

また、成瀬正成の方であるが、尾張藩の附家老だった平岩親吉が死去し、無継断絶すると、徳川家康から頼まれて徳川義直の附家老に任じら、犬山藩主となり犬山城に入っている。

この時の逸話としては「もし徳川義直に逆心があった時は知らせるように」と起請文を書くように徳川家康から命じられたが、直属の家老となるからには、主は徳川義直であるとし、徳川義直が謀反を起こしたら、自分もそれに従うから、このような起請文を書くことは出来ない、と成瀬正成は断ったとされている。

伏見城の留守居役を務めていた成瀬正一の方も、1615年には徳川家康から亀山城主として大名に列するとの打診を受けたが断ったと言う。
代わりに受け取った金子も、日下部定好などの仲間や配下と分け合い、1620年6月28日、伏見城にて生涯を閉じた。

成瀬正成は1625年1月17日に死去したが、死の間際、徳川家康の眠る日光東照宮に行くと言ってきかず、家臣は籠を担いで、日光へ向かう振りをしたという逸話が残っている。

なお、成瀬氏は2004年まで国宝・犬山城を代々私有することで、守り続けて来たのも大きな功績と言えよう。

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