忠義の士である岡部元信と岡部正綱とは~出世した岡部長盛も


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岡部元信(おかべ-もとのぶ)は岡部長教(ながのり)、岡部真幸、岡部元綱、岡部五郎兵衛、岡部丹波守など色々と名前があるが、「元」の字は主君・今川義元から賜ったものと推定される。
父は岡部親綱(岡部玄忠)で母は不詳。兄弟には岡部正綱、岡部長秋がいる。

このように、1542年生まれの岡部正綱(おかべ-まさつな)は岡部元信の兄とされるが、生年不詳の岡部元信の方が早く生まれている可能性が高く、岡部正綱の父は岡部久綱とする説もあり、正直、どれが正しいのか理解しにくい。
恐らくは兄ではなく岡部一族の者と考えられるが、ここでは従来のとおり、便宜上わかりやすく兄・岡部正綱、弟・岡部元信として2人の優秀な武将をご紹介したい。

父は今川氏輝の側近であり花倉の乱では今川義元に協力したことから、岡部元信は兄・岡部正綱と共にも今川家の重臣として活躍し、遠江・三河の平定に大きく貢献した。

兄・岡部次郎右衛門尉正綱は、駿府にて今川家の人質となっていた徳川家康と仲良くなり、岡部家は、徳川家康の日常生活面を助けたと言う。
そのため、今川家の家臣の中では、徳川家康に最も好意的な態度をとっていたことが記録にある。

弟・岡部元信は1548年の第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に「猪」の立物をつけて奮戦し勝利に貢献。
1549年、安祥城の戦いで戦功を挙げると、尾張・鳴海城の在番となり、織田家を牽制した。

兄とされる岡部正綱(岡部次郎右衛門尉正綱)は、16歳とされる1557年が初陣ともされるため、兄弟ではない可能性が指摘されている一因でもある。
この時、岡部正綱は兜首2つを挙げ名を馳せた。

1560年、桶狭間の戦いでは、その鳴海城が今川家の拠点となり織田信長に対したが、今川義元が織田家に討たれる。

弟・岡部元信は織田勢を撃退して退却する今川勢を助け、更に主君・今川義元の首との交換を条件に鳴海城を開城した。
この忠義に感動した織田信長は、今川義元の首級を丁重に棺に納め、で送り届けたとされている。
そして、岡部元信は今川義元の棺を「輿」に乗せて、鳴海城から堂々と撤退した。

更に岡部元信は、戦功が無いまま駿府に戻るのを良しとせず、刈谷城を100余の手勢で攻撃すると水野信近を討ち取り、城を焼き払っている。
この奮戦を今川氏真は喜び、6月8日付で岡部元信を「忠功比類なし」と褒め称え、感状を与えたうえで加増も行った。

しかし、今川家は衰退の一途を辿り、1568年12月、武田信玄が駿河侵攻を行い、今川氏真が駿府から掛川城へと逃れてしまう。
兄・岡部正綱は最後まで武田勢に対して果敢に対抗し、武田信玄が甲斐に戻ると今川館を奪還。
この武勇が評価され、武田信玄は、臨済寺の僧・鉄山宗鈍に仲介させて、今川氏真の助命などの諸条件を岡部正綱に提示し、今川館は開城した。
そして、その後は、弟・岡部元信と共に武田信玄に臣従し、以後は武田家臣として活躍する。

ふたりは、三方ヶ原の戦いなどでも活躍したが、1573年4月、武田信玄が駒場にて死去すると、引き続き武田勝頼に仕えている。

1574年6月、武田勝頼高天神城の戦いで勝利すると、弟・岡部元信は高天神城の城将となった。
1575年5月、織田信長・徳川家康の連合により長篠の戦いにて武田勝頼が大敗。
その後は、徳川家康の遠江侵攻が参加となったが、岡部元信は高天神城を何度も守り切ったため、所領を加増されている。

なかなか落とせない高天神城に対して、徳川家康は1580年10月から周辺に付城や砦を築き、刈田を行なって兵糧攻めを行った。(第2次高天神城の戦い)

この時、弟・岡部元信は武田勝頼に後詰(援軍)を要求しているが、武田勝頼は小田原城主・北条氏政と対峙しており、援軍を出せていない。
田中城や小山城からの補給も絶たれたため、岡部元信は徳川勢に降伏したいと申し入れをした。
しかし、徳川家康は高天神城が、そう長くは持たないと分析しており、降伏受入を拒否している。
そのため高天神城の兵糧は底を尽き、城兵は草木をかじって飢えを凌いだと言われる。

1581年3月、岡部元信は覚悟を決めて「この城に入った時から生きて帰ろうとは考えていない。信玄公・勝頼公の恩義に報いるために打って出る」と最後の決戦を決意。
その日の夜、城兵と最後の酒宴を開いた。

3月22日、岡部元信は敵陣を突破するべく、動ける城兵と共に大久保忠世の陣になだれ込み、二の丸の下となる林之谷に付近で戦闘となった。
迎え撃ったのは大久保忠世の実弟・大久保忠教で、まさか岡部元信が自ら先頭に立って突撃して来るとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると後は家臣・本多主水に任せて、あとから迫って来る敵の対応をしたと言う逸話がある。
本多主水は岡部元信と勝負を挑み、岡部元信が急坂を転げ落ちたところを討ち取った。
岡部元信の享年は70歳に近いと推測されている。

本多主水も、討ち取った敵将が総大将とは思っておらず、のちの首実検で岡部元信と分かり驚愕したとされる。

また大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と「三河物語」で大功を逸した悔しさを述べている。

なお、岡部元信と共に玉砕した城兵は730余に及んだ。
徳川家康は岡部元信を討ち取った事を喜び、首級を安土城の織田信長の許に送り届けている。

高天神城からは、わずか11名が甲府に逃れる事ができている。
その中に横田尹松が含まれている。

一方、兄とされる岡部正綱は、高天神城が陥落し武田勝頼に失望したようで、武田家を離れて浪人する。
その浪人中に、かつて仲良く少年時代を過ごした徳川家康が迎えた。
徳川家康が北条氏政と激突した際には、岡部正綱が、生きて帰れない可能性が高い殿軍を引き受け、その功績により、7600貫となっている。

1582年、本能寺の変のあと、徳川家康が甲斐に入ると、岡部正綱は武田勝頼の菩提を弔ったり、旧武田家臣の調略を担当した。
徳川家の甲斐支配では、平岩親吉と同格であったとも言う。

しかし1583年12月8日に死去。
死因は戦傷が原因ともされる。
また、武田旧臣を調略する際に毎回酒宴をひらいていた為、アルコール中毒で身体を壊したとも言われ、没年にも諸説ある。

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岡部長盛

岡部正綱の子・岡部長盛(おかべ ながもり)は、1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の第1次・上田城の戦いでも鳥居元忠と共に上田城攻めでの真田昌幸との対戦。

1590年、徳川家康が江戸城に入ると下総山崎1万2000石を与えられている。
1600年、関ヶ原の戦いでは、下野・黒羽城にて上杉景勝の南下に備えた。
その後、1609年には丹波・亀山城3万2000石となり、のち加増を受けて4万石。

1615年、大坂夏の陣でも功績があり、1621年に福知山城5万石となった。
そして1624年には、美濃・大垣城5万石に移封となっている。

1632年11月2日、岡部長盛は65歳で死去。家督は長男・岡部宣勝が継いだ。
岡部正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉・岸和田城に6万石となっている。

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