大村純忠 日本初のキリシタン大名の生涯


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日本では、今いたるところで地域起こしが行われている。
長崎県大村市は「カレーのまち」とアピールしている。
なぜ?
それはカレーに使用されるスパイスが、日本に初めて入ってきたのが、大村だからだ。

そうあの有名な天正遣欧使節が、日本に持って帰ってきたそうだ。
そして、この使節を派遣したキリシタン大名である有馬晴信大友宗麟大村純忠の3人のうちの1人「大村純忠」が今日紹介する人物である。

大村純忠といえば日本最初のキリシタン大名。
そして今書いたようにヨーロッパに天正遣欧使節を派遣し、さらに江戸時代唯一のヨーロッパとの窓口となった長崎をひらいたことで知られる人物である。
しかし、それ以上の細かいことはあまり一般には知られていない。
大村純忠とはいったいどのような人生を送ったのであろう?

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大村純忠が生まれたのは1533年のことである。
この翌年に織田信長が生まれているので、戦国時代真っ盛りに生を受けたことがわかる。
 
大村姓だが、実は有馬氏の出なのである。
肥前の国を治める有馬晴純の次男として生まれたのだが、母が大村氏の娘であったため養子として送られたのである。
力の弱かった大村氏は有馬氏から養子を受けざるを得なかった。

実子がいたにもかかわらず。その実子は後藤家に養子に出され、後藤貴明と名乗った。
後藤貴明は終生、大村純忠を恨み続けることになる。

ちなみに大村家の祖は伝説によるとあの承平天慶の乱で有名な藤原純友であるという。

大村家の家督を継いだのが、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきた翌年の1550年のことである。
大村純忠18歳の時であるが、大村家で安泰な日々を送るというわけにはいかなかった。

時は戦国時代、まわりは敵だらけという状況であった。
いやまわりだけでなく、家臣の中にも実子をおいやって大村家に入ってきた純忠に反感をもつ者もおり、実子の後藤貴明と結び、反純忠の動きをたびたび起こした。

そんな時、大村純忠に一つの転機が訪れる。
平戸に来航してきていたポルトガル人が船長以下14人が殺される事件が起こる。
その解決に向けて誠意ある動きをしない松浦氏に対しポルトガルは怒りを募らせ、ついに別の港を求めるようになるのである。
目を付けたのが純忠の領地の横瀬浦であった。
両者の提携が成り、横瀬浦はポルトガルが入港する港として栄え、ポルトガル人はここを「キリストの聖母の港」と名付けた。
港口に浮かぶ島の頂上には十字架が建てられ港の目印になったという。
キリスト教との距離を縮めた大村純忠はついに洗礼を受け、バルトロメオと名乗った。
日本初のキリシタン大名の誕生である。1563年純忠31歳の時のことだ。それは織田信長が桶狭間の戦いで勝利した3年後のことである。

大村純忠は受洗の翌日、出陣するのだが、その途中武士の守護神として尊崇されていた摩利支天像の頭部にあった雄鶏を斬り捨て、堂に火をかけたとされる。
また、受洗後も側室を持っていたが、後には側室とは別れ、正室と結婚式をやり直して、一夫一婦制を守ったという。

1564年、大村純忠を恨む後藤貴明が動いた。
キリスト教に傾き先祖の位牌を焼くような純忠の行為に反発する家臣団と結び、横瀬浦を焼き討ちするのである。
しかし、大村純忠の心は折れない。
1565年には福田港、そして1570年には長崎港を開いていくのである。長崎は各地からキリシタンや商人が集まり、またたく間に人家が増えていった。
さらに後には長崎はイエズス会に教会領として寄進されることになっていく。
なぜか?
1574年、大村純忠は、キリスト教へ改宗を強制するようになる。反対者は殺害もしくは追放され、寺社は破却された。
国内が恐怖に包まれることになった。領内の人民はみなキリシタンとなった。その数6万。
それまでは、仏教は神道関係者とも交流をはかっていたのに。かつて自分の命を救ってくれた仏教者に対してもその手を緩めなかった。
時間をかけ機が熟したゆえの行動なのか、それとも突発的なものであったのか。宣教師コエリヨの言葉に動かされてのことという専門家の指摘もあるが・・・・真相はわからない。

明智光秀による本能寺の変で織田信長が殺される約4か月前、天正遣欧使節がヨーロッパに向けて出発した。
派遣された少年の1人である千々石ミゲルは大村純忠の甥であった。

この頃、「肥前の熊」とよばれた竜造寺隆信の圧迫が強まり、息子たちを次々に人質として差し出さざるを得なかった。
ついには領主の座からも引退させられ、城を追われた。
家臣一人も伴うことも許されずに・・。

しかし、竜造寺隆信は、島津・有馬との戦いで戦死し、首を打たれる。
大村純忠はこれにより領主の地位に返り咲いた。しかし、残された命は長くはなかった。

1587年、台風のように巨大な勢力をもった豊臣秀吉が九州へ乗り込んできた。
大村純忠は豊臣秀吉に従い本領を安堵される。
しかし、この時にはすでに病床についていた。
長年の心労により、肺を患い咽喉がんにもかかっていた。
そして、最期を迎えた。
豊臣秀吉により伴天連追放令が出されたのはこの1か月後のことである。

さて、大村純忠はなぜキリスト教に入信したのか?

戦国大名としてポルトガルとの貿易の利益の打算からか?
ならばキリスト教徒としての振る舞いはポーズなのか?
それとも本当に心の底からキリスト教を信じたのか?

いや、最初は打算であったのが、後に本物の信仰に転じていったのか?

人間は自分の心さえわからない時がある。
まして過去の人間の心などわかろうはずがない。

死去の前日には可愛がっていた1匹の小鳥を籠から出して空に放たせた。この時、純忠には既に病のために小鳥を放つ体力さえなく、侍女にそれを頼んだのだが、侍女は小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにした。しかし怒る事は神の意思に反するとして純忠は侍女に立派な帯を与えて、「小鳥はデウス様が作られたものであるから、予はそれを可愛がっている。それゆえ今後とも愛情をもって扱ってほしい」と述べたと伝わる。

寄稿共通カウントPV


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コメント

    • 高田哲也
    • 2015年 4月 29日

    伊藤様、ご寄稿ありがとうございました。
    九州の戦国大名は、知識が乏しい為、大変参考になりました。
    御礼申し上げます。

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