郡内小山田氏・小山田信有(小山田越中守信有と小山田出羽守信有)


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 かつて町田市小山田を治めた小山田氏、その末柄であり、津久井城を攻めた武田信虎に属していた小山田氏武田信玄相模原市内を進軍した際、武田軍最強と言われた郡内小山田氏、そして、相模原市津久井に残る折花姫伝説に関連する小山田氏として、小山田有信・小山田信茂(小山田弥三郎)、そして武田氏滅亡を取り上げました。

郡内小山田氏・小山田信有

 甲斐の郡内を治めた小山田氏は有力国人で、武田氏に属さなければ大名クラスで称されておかしくない氏族である。
 独立性が強い証拠に、武田晴信(のちの武田信玄)の代であっても甲州法度(1546年)が甲斐領内で施行されたときは、郡内地方では適応させていない。
 小山田氏は諸流ある為、現在の都留市・大月市で活躍した小山田氏は郡内小山田氏と称される。
 小山田氏は良くわかっていない部分も多く諸説あるが、郡内の小山田氏は、小山田有重の6男・小山田行幸が、都留郡の田原荘を知行して1192年から定住したのが始まりとされる。

 最初は都留郡波加利荘(現在の初狩)に住んだようで、1213年、和田義盛の乱で敗走した上野原の古郷経忠・古郷保忠の兄弟が波加利荘の競石で自刃した記録がある。
 その後、鎌倉幕府は波加利荘を武田信光(甲斐・武田家2代)に与え、福地荘(鳥沢)は鎌田正清、古郡荘(上野原)は加藤氏が領する事になった。

 1393年、小山田氏は拠点の中津森館付近に鎌倉建長寺から格智禅師を招いて、富春山桂林寺を建立。
 1532年頃まで、郡内は中津森付近が中心として栄えた。

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 なお、小山田氏15代の小山田信有(1488年~1541年)と、その子・信有(1519年~1552年、16代目)と、小山田氏は3代続けて「信有」と称されている。
 その後、小山田信茂が家督を継ぐ前の兄も信有と称しており、小山田信茂自身も一時期信有と名乗った可能性があるので、考えようによっては4代続けて信有を名乗ったことになる。
 恐らくは小山田氏の権威を維持する為に当主が亡くなっても同じ名前を名乗ったり、間者や敵を混乱させる為のものだと推測するが、歴史を認識する上で、我々は混乱しないよう注意が必要だ。

 15代の小山田信有(小山田越中守)の父(又は兄)、小山田信隆の時代には、武田信虎と油川信恵との武田家・家督争いがあった。小山田信隆の叔母が油川信恵の母であったことから、小山田氏は武田と油川の抗争では油川家に協力している。
 1508年10月、僅か15歳の武田信直(のちの武田信虎)が油川信恵・岩手縄美兄弟を奇襲・襲撃し討ち取ったあと、小山田信隆は郡内から甲府へ侵攻し武田信直(のちの武田信虎)と対峙した。そして同年1508年12月、「油川信恵の戦死で慌てた出陣」と言われる棒ヶ峰合戦(笛吹市境川町)となる。小山田信隆は当初、武田信直軍相手に有利に戦いを進めたが、深夜に急襲されて小山田信隆が討死して大敗。以後、小山田信有(15代・越中守)が家督をついだとされている。
 この時、小山田氏は壊滅的な打撃を受けており、郡内は家臣に預けて伊豆・韮山の北条早雲の元に国外逃亡した。
 1509年秋、武田信直16歳は御坂口から河口湖へ侵入し郡内へ侵攻。伊豆の小山田有信は北条の援軍を得ることもできず、郡内勢は当主不在のまま抵抗するが、小山田氏の郡内支配要所である検断所を12月武田信直(武田信虎)に奪われている。
 郡内勢は次第に戦意を喪失し、翌1510年4月に武田信直の勝利という形で小山田氏は和睦。和睦条件は、小山田氏にとっては大変寛大で、小山田信有(15代)を郡内の新領主とし旧領復活させ、さらに武田信直の妹(姉?)を小山田信有(15代)の正室に出す形で、武田と小山田は親戚関係となった。
 これにより、助けてくれない北条早雲を見限り、小山田氏は武田氏に忠節を誓う。以後、武田氏の信頼厚く、河内領の武田一門衆・穴山氏と同様、領域支配権を認められた独立性の強い有力一門衆となっていった。
 なお、武田信直は岩殿城麓・駒橋(大月)に屋敷を構えて、弟の勝沼信友を「目付」として派遣している。
 1520年、小山田信有は武田信直の弟・勝沼信友と協力し岩殿城の円通寺を再興し、相模川となる桂川の渓谷を甲州街道が通過する地に「猿橋」をかけるなど領内の整備を行う。猿橋は日本三奇橋とされ、中央本線の駅名にもなっており、現在ではちょっとした観光地となっている。
 1524年頃から1530年頃には、相模・北条氏や関東管領・上杉氏と武田は国境付近で戦が絶えず、1524年には武田信虎が関東管領・上杉憲房と猿橋で合戦した他、現在の相模原市にある津久井城攻めなども武田勢として小山田氏も出陣していたようだ。甲斐東部の防御の要となる、岩殿山城(大月)も1527年頃に完成している。
 1529年、武田信虎は甲斐統一の為、小山田氏を完全な支配下に置こうと考え、小山田信有に対して郡内領への棟別銭賦課(臨時税)を申し渡し、甲府から郡内へと通じる道を閉鎖し経済封鎖した。この圧力によって小山田氏は棟別銭賦課を受け入れたが、武田家の財政立て直しだけでなく、武田信虎の権力が郡内にも及ぶことを誇示し、武田信虎は小山田氏を事実上制圧し家臣化させたのである。
 1530年1月7日、相模の北条氏綱の侵攻があり、猿橋付近で小山田有信は対陣。4月23日、小山田氏は単独で相模・北条氏綱と矢坪坂(談合坂付近)で戦った。
 なお、北条勢は小山田氏の留守を突いて、3月に中津森館を焼いていたようで、また、武田から来ていた妻が死去したこともあり、1532年には新しく完成した谷村城へ本拠地を移す。
 そして、詰城として勝山城を築き防御力を強化し、都留の城下町を整備した。

 また、1533年には甲府の小山田氏館が焼失した為、70坪の新しい館を造った(武田氏から与えられたとも)。
 1535年、駿河・今川の大規模な武田攻めの際、北条勢が今川に加担し、8月22日、山中(山中湖)にて衝突。小山田氏一族と考えられる小山田弾正が討死し、吉田(富士吉田)も焼かれたとある。
 15代の小山田信有(越中守)は1541年3月9日、54歳で死去したと言う説が有力だ。
 1541年6月14日、武田信虎を武田晴信(のちの武田信玄)が追放する。小山田氏もその際、武田晴信に協力したと考えられている。

 小山田信有(越中守)には長男・小山田虎親(小山田弥七郎虎親)がいたが、1541年に33歳という若さで亡くしていた。小山田虎親には小山田修理亮がいたとされるが、1542年に24歳で家督を継いだのは小山田信有(越中守)の2男とされる小山田信有(小山田出羽守)。(家督を継いだのは1541年とする説もある。)
 16代となった小山田信有(小山田出羽守)は智勇に優れ、武田晴信(武田信玄)の良き同盟者・一門衆として活躍することになるが、まず郡内領の整備をした。
 1542年、秩父より機織や養蚕の技術を導入し産業を開発。郡内領民の保護・育成に尽力し減税するなど、独自の郡内升を導入し、替米制度や大小切法を進め領民の生活を保護した。また、農兵出陣時に、残された家族に不安を与えないよう平時から配慮もされていたとも言う。小山田隊が強いと言われる礎か?
 1547年の武田晴信による志賀城攻め。 武田晴信は志賀城の捕虜約3000名を親類縁者がある者には二貫文から十貫文で身請けさせたが、その多くは黒川金山などの坑夫や娼婦、奴婢として人身売買した。
 小山田信有は志賀城攻めの際、敵将・笠原清繁の未亡人を助ける為か?買取して、郡内の駒橋(大月)に連れて行き、そこで生涯暮らさせたと言う。
 笠原清繁の未亡人は、笠原清繁の正室だったとされるが、出身や名前は不明。2児の母であったとも伝わるが確認できていない。笠原清繁は諏訪氏の一族とする説もあるが、裏付けるものはなく、なにぶん、笠原清繁じたいの出身も良くわかっていない状態である。
 1548年、村上義清と戦った上田原の戦いでは武田先鋒左翼隊長として小山田家が得意とする投石部隊を指揮。その他、塩田原の戦い、田口城攻略などで多大な軍功をあげた。
 当時は、石を投げつけられると災いが起こるという迷信もあった為、小山田氏の投石部隊の効果は絶大。小山田氏の投石の前に崩れない敵はないとまで言われ、唯一、越後の長尾勢(上杉勢)だけが、その攻撃に耐えたと伝えられる。
 1550年、勝沼大善寺の大修復の際には、資金難の武田家の為に一考し、小山田信有は京から有名芸能人を呼び寄せて甲府で記念興業を行い、興行収入により資金を調達した。現在の大善寺はこのときの修復のもので、山梨県初の国宝に指定されたほどの建築物である。
 武田晴信(武田信玄)の戦績49勝2敗20分の最大の負け戦と言われる村上義清攻め(1550年10月の砥石城攻め)の際、小山田信有は、武田軍が初めて購入した鉄砲隊を指揮したとされる。しかし、撤退の際、小山田有信は重傷を負ったと言うのが有力な説だ。
 1551年9月20日、武田晴信の命により、大井貞清に代わって佐久・内山城の守備についた。
 しかし、16代・小山田有信(出羽守)は1552年、僅か34歳で死去。亡くなった理由は良くわかっておらず下記の諸説がある。

 (1) 1550年の大ケガが元で、1552年1月23日に死去した
 (2) 1552年3月8日の常田の戦いで討死した
 (3) 常田の戦いで負傷しその後、死亡した
 (4) 円通寺や桂林寺住職らの祈祷にも関わらず、正月23日に病気で亡くなり、25日に葬式をした
 (5) ひょっとしたら家臣の裏切りや毒殺、笠原清繁の未亡人の手に掛かったとも考えられ、他国に聞こえが悪い為、病死や討死と言う事にしたとも考えられる。

 死因は謎が多くよくわかっていないが、葬儀には国内外から10000人も参列したと言うので、当時の小山田氏の威光がよくわかる。

小山田有信(小山田弥三郎、小山田弥三郎信有) (1538年~1565年)

 武田の高遠頼継攻めにおいては、幼少での初陣ながら戦功をあげ武田晴信(武田信玄)より感状を受けたと言われている。
 父である小山田信有(1519年~1552年)には長男であった17代・小山田信有 (弥三郎)の他、次男・小山田左兵衛尉信茂(小山田信茂)、三男・小山田修理亮昌輝(小山田五郎兵衛)、四男・小山田弥五郎義武、五男・小山田八左衛門行村(小山田彦之丞)がいる。小山田義武には長男・小山田元重、次男・小山田次重がいる。
 小山田信有(出羽守)が1552年、34歳で死に、長男であった17代・小山田信有 (弥三郎)が14歳(15歳)で家督を継ぎ、武田譜代家老衆250騎持ちとなった。
 北条氏康が僅か14歳?の小山田弥三郎信有を頼って武田氏に近づき、1554年甲斐・相模・駿河の三国同盟が成立。武田晴信(武田信玄)の長女・黄梅院が小田原の北条氏政に嫁ぐ際には行列を小山田弥三郎信有が取り仕切った。
 小山田弥三郎信有は武勇にも優れ、小山田勢は奥秋加賀守房吉小山田掃部 上原能登守 小林尾張守 小山田弾正有誠 加藤丹後守景忠 安左衛門ら騎馬200、雑兵標準900、最大で2000と言われ、武田軍では4位前後の軍事力を有した。
 小山田隊の軍装は黒で統一された。1557年8月、第3次川中島の合戦が初陣と考えら、武田親族衆として2000の兵を率いている。
 また、武田家中からは「文のいることは弥三郎に聞けばよい」と文武両道とも称されている。
 しかし、病気がちであったことからも、弟とされる小山田信茂の活躍もあったのではないかと推測される。
 小山田弥三郎信有は緒戦で活躍するも、1561年の川中島の戦いでは「立つことが出来ず」と病気で出陣を免除されるなど、この頃には弟の小山田信茂が指揮を取っていたようであり、元々体が弱かった小山田弥三郎信有は、ついに1565年8月20日に病死(28歳)。
 子供がいなかったようで、弟とされる小山田信茂(1539年~1582年)が家督を継いだ。
 ただし、小山田信茂と小山田弥三郎信有は同一人物とする説もあり、この家督相続でもかなり推測の域を脱することが出来ない。
 原因としては兄・小山田弥三郎が病弱であったために当主の職務を小山田信茂は早くから代行していた為、混乱が生じているのだが、このページでは、兄・小山田信有(弥三郎)を17代、小山田信茂を18代として扱う。

郡内小山田氏の特色
北条氏からも知行?していた小山田氏のなぞに迫る
小山田氏の中津森館と長生寺・桂林寺・用津院とは
勝山城と谷村城(谷村館)の訪問記【郡内・小山田家】
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コメント

    • magohati35
    • 2016年 5月 29日

    貴殿の小山田氏の研究を拝見して、大変詳しく驚いております。御存じでしたら御教示頂きたいのですが、小山田信有が「越中守」を名乗ったいきさつは御存じでしょうか?先日、刀商の紹介ページに「小山田信有の赤雲の太刀」が越中の名工の初代「宇多国光」の作として写真が出ていました。この刀には「武田菱」と「弓矢の七人衆」を示す「矢」が束に飾られ、ハバキには小山田信茂の家紋「抱茗荷紋」が刻まれていました。束は白の鮫皮で、鞘は赤雲塗りでした。武田24将図に記載される正に「小山田信茂の赤雲の太刀」と見られます。武田信玄は上杉謙信、織田信長と対抗して越中の一向一揆と結び、飛騨の江馬氏を越中に進攻させました。小山田信有が貴重な越中刀工初代「宇多国光」の太刀を赤雲に塗って所持していた事に驚いています。この刀工は南北朝の時に後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄三日市に住した」とされ、刀に銘が刻まれたものも非常に少ない刀工です。小山田信有が越中守になったいきさつと関係が深いとみております。富山県の郷土史を研究している者です。

    • 高田哲也
    • 2016年 5月 29日

    この度はお問い合わせを賜りまして、誠にありがとうございます。
    ご承知の通り、豊臣政権になってからは、官位は正式に朝廷から任命されおりますが、それ以前は大部分が「自称」だと存じます。
    そして、多くの武将が、なぜその自称官位を称するようになったのかは、ほとんど誰も文献などに残されておりませんので、残念ながら当方でも経緯は不明です。
    お役に立てずお詫び申しげます。

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