荒木村重の解説【有岡城の戦い】~黒田官兵衛の投獄詳細など理解しやすく

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有岡城

荒木村重とは からの続きです

1578年1月、織田信長は、織田信忠・武井爾伝・林秀貞・滝川一益細川藤孝明智光秀・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁と言った主だった武将12名を安土に招いて茶会を催したが、その時、荒木村重(44歳)も出席する名誉を得ている。
1578年2月、荒木村重は、織田信長の命令で、矢部前七郎と共に石山本願寺本願寺顕如と和睦交渉を行うが失敗。しかも、配下の中川清秀の家中の者が、本願寺顕如から切望されて、100石の兵糧を渡してしまう事態となった。

この頃、羽柴秀吉が攻め取った上月城を守る、尼子勝久、山中鹿之介、尼子氏久・尼子通久・神西元通ら3000が、毛利の吉川元春小早川隆景、宇喜多忠家ら30000の大軍に包囲され、荒木村重に救援命令が出たが戦意喪失と言える行動を取った為、尼子勝久は重臣の神西元通らと共に自害して上月城は降伏。
尼子勝久、享年26。(尼子氏滅亡)。山中鹿之介(山中幸盛)は捕虜となり移送される途中に斬首された。

次に、荒木村重は滝川一益・丹羽長秀と共に6月26日から神吉城攻めに参加。滝川一益・丹羽長秀は降伏して来た城主・神吉頼定の首を跳ねたが、荒木村重は捕獲した敵将を逃がしている。

1578年7月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱して居城である有岡城(伊丹城)に帰城した。
すなわち、羽柴秀吉の副将格であった荒木村重が、織田信長の命令に背いたのである。(下記写真は有岡城跡)

有岡城

謀反の原因は様々な説があるが、小生は、残虐な織田信長に仕えるのが嫌になった?ものと推測するが、複数の要因が重なっての事だろう。

最初信じなかった織田信長は驚いて、明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣し説明を求めた。特に、明智光秀の養女(娘とも)の倫子(革手)が、荒木村重の嫡男・荒木村次の妻となっていた縁もあり、使者に抜擢されたようだ。
荒木村重の家臣となっていた、高槻城主・高山右近も有岡城へ説得に向かい説得に当たった。高山右近は、荒木村重に妹と子の2名人質を出していたが、織田勢の疑念を払う為、大切な嫡男を人質として織田家に出している。

荒木村重は、これらの説得を受けて、織田家に母親を人質として出して釈明すべく、子の荒木村次と共に安土城へと向かった。
しかし、茨木城に立ち寄った際、中川清秀より家臣から、逆に織田信長と戦うべしとの説得を受け、織田信長と戦わないのであれば、安土城に行っている間に、他の者を領主として徹底抗戦するとまで、言われたとあり、荒木村重は不本意ながらも有岡城へ戻り、織田信長への反逆を明確にした。


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荒木村次の妻を離縁し、明智光秀の元に帰らせた他、荒木村重は足利義昭毛利輝元、本願寺顕如へと人質を送って同盟を誓い、援助を求めた。

この報に接した織田信長は福富直勝、佐久間信盛を派遣し、更に1578年11月3日には二条城に移って、明智光秀、松井友閑、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)、万見仙千代(万見重元)を有岡城へ向かわせた。
荒木村重はこれに対して「野心は無い」と答えたが、母親を人質として出す事には従わなかった。
前野長康蜂須賀小六も説得に出向いている。
このあと、黒田官兵衛(33歳)が単身で有岡城に来城したて説得したが、荒木村重は黒田官兵衛を有岡城内の土牢に幽閉してしまった。同盟関係にあった小寺政職の手前、小寺政職を裏切った形になっていた黒田官兵衛を捕えて、牢獄に閉じ込めたと考えられている。

本拠である有岡城には荒木村重、尼崎城には荒木村次、大和田城には安倍仁右衛門、吹田城には吹田村氏、高槻城には高山右近、茨木城は中川清秀、多田城は塩川国満、能勢城は能勢頼道、三田城は荒木重堅、花隅城は荒木元清と言う、合計10000の防衛体制を敷き、御着城主・小寺政職も立て籠もった。

有岡城

荒木勢と戦うにあたり、織田信長は本願寺の攻勢を気にしたのか、まずは村井貞勝を石山本願寺に使者として送り、織田信長は和議を申し入れた。しかし、石山本願寺は毛利氏の承諾が必要として、すぐには返事していない。

そんな折り、157811月6日の第二次木津川口の戦いで、600隻の毛利水軍を、織田水軍の九鬼義隆らの鉄甲船が撃破。
海上補給が途絶えた石山本願寺は動けないと踏んだ織田信長は、11月19日、50000の兵を山崎まで進めて、翌日11月10日には滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就らが茨木城を攻囲した。
その一方で、織田信長は平行して、荒木村重の家臣の切り崩しを開始していた。
キリシタンになっていた高山右近には、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫して、宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノを派遣。宣教師は日本で「キリシタンたる者は、何ぴともその主君に背くべからず」と教えていたからだ。
高山友照は徹底抗戦を訴えたが、オルガンティノは、高山右近を必死に説得し、最終的に高山右近は人質になっている妹と子と、キリシタンの両方を救うため、剃髪して領地・俸禄・家臣全てを返上することを決断。城主を辞して武器を捨て、紙衣一枚で城を出て、オルガンティノと共に織田信長の元へ向かった。
寝ていた高山友照は、高山右近が残した書状を見せられると激怒。しかし、城内の要所は既に織田信長に降った高山右近の家臣により、制圧されていた為、高山友照はひとしきり暴れた後、有岡城の荒木村重の元に赴き、人質の身代わりになる事を申し出て許された。しかし、荒木村重は高山友照と人質を処刑することは無かった。
高山右近は、11月16日になって織田信長に詫びると、織田信長は喜び、着ていた小袖と馬を高山右近に与えて、摂津・芥川郡を所領として認め、高槻城主としての地位を安堵した上に、20000石から40000石に加増させた。


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この高山右近の降伏は、荒木家に大きな打撃となり「一戦に及ぶべし」としていた茨木城・中川清秀も降伏して、逆に荒木村重を攻撃する織田勢に加わった。
大和田城・安倍仁右衛門、能勢頼道、三田城は荒木重堅も、織田信長に屈服し、ついに荒木村重は孤立。

戦局有利となった織田信長は、石山本願寺との和平交渉を中止して、11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝の軍勢が、荒木村重軍の先鋒隊と戦闘となった。

織田信長自身も、摂津・池田城に入って本陣とし、有岡城を包囲。別動隊として動いていた滝川一益、丹羽長秀隊が兵庫の一ノ谷を焼き払い、1578年12月4日、塚口付近に布陣した。

1578年12月8日からは、本格的な戦闘となったが、有岡城は東西に400m、南北に600mからなる総構えの城で、有岡城内には北ノ砦、上﨟塚砦、鵯塚砦、岸ノ砦、昆陽口砦などが築かれている堅城で、織田勢は万見重元ら2000を失っている。
その為、織田信長は兵糧攻めに切り替え、12月15日には安土城に帰還してしまっている。

荒木村重は、毛利勢と石山本願寺の援軍を期待したが、籠城で食糧も乏しくなり、1579年正月明けに、織田信忠勢3000に対して、500を指揮して夜襲を掛け、兵糧や馬を奪った。
また、4月18日には、3000の兵が有岡城より討って出たとの記録もあるが、それ以外の戦闘は不明である。

やがて兵糧も尽き始め、期待の毛利の援軍も現れず窮地に陥った荒木村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、籠城も1年近くなった1579年9月2日の夜、荒木村重は妻や家族を有岡城に残したまま、5~6名の側近と共に、有岡城を脱して猪名川を下り、嫡男・荒木村次がいる尼崎城(大物城)へ移った。
援軍を送ってこない毛利家と直接交渉する為の脱出だったとも言われているが、戦国でも現代でも最高司令官が戦場に兵を残したまま、他所に行くのはあるまじき行為だ。
荒木村重の逃亡は、すぐさま織田勢の忍者が知る事となり、9月12日には、織田信忠を総大将として尼崎城に向かわせ、滝川一益が上﨟塚砦にいた砦の守将・中西新八郎と副将・宮脇平四郎を調略。
1579年10月15日の夜22時頃から、織田勢は有岡城に総攻撃を開始したが、引き続き有岡城で守る諸将の調略が行われ、滝川一益隊は抵抗も受けず有岡城内に入り、城内から各防衛箇所を攻撃した。北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後は降伏を申し出たが、既に許され事もなく切腹。鉄砲名手の雑貨衆200も、鉄砲も撃ってしまったあとの白兵戦には弱く全滅。


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総構えの街並みを焼き討ちして、織田勢は本丸に迫ったが、さすがに本丸へは簡単に進入できなかった。
しかし、10月19日になって「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」と言う和平案を、城守・荒木久左衛門(池田知正)が受け入れて開城。
津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城し、有岡城の戦いは終結した。
牢獄にいた黒田官兵衛も、この時救出されている。

さっそく、荒木久左衛門は手勢300兵を率いて尼崎城に向かい、荒木村重を説得したが、荒木村重は降伏に応じなかった為、どうしようもなくなった荒木久左衛門は妻子を見捨てて300兵と共に淡路島方面に行方をくらました。
それら、荒木村重の態度や、その家臣団の所業に織田信長は激しく怒り「荒木一族は武道人にあらず」と、荒木家の家臣らを含む人質全員を処刑するように命じた。

荒木一族と重臣の合計36名は妙顕寺に移送されて、京市中引き回しの上、六条河原で首を討たれた。
荒木久左衛門の子・荒木自念(14歳)、懐妊中であった荒木隼人介の妻(20歳)や、荒木だし(21歳)も含まれている。

高山右近の妻子などは許されたが、荒木家の家臣の妻子122名は、97本の磔柱を建て、死の晴着をつけると、鉄砲で銃殺されたようである。
その後、男性124名と女性388名の人質は、四軒の農家に閉じ込められ、生きたまま農家ごと火をつけられたようだ。

荒木村重は12月中に尼崎城を抜け出して花隈城に移動して、しばらく籠城。
しかし、1580年3月2日と、7月2日の花隈城の戦いで、荒木村重は大河原具雅、荒木元清、瓦林越後守らと共に奮戦するが、池田恒興池田元助池田輝政に敗れると、毛利氏のもとに亡命した。


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荒木村重は、1582年6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、堺に居住し、豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰して今井宗久千利休らとも親交をもった。
はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗ったとされるが、豊臣秀吉が荒木村重の過去の過ちを許し「道薫」に改めさせたとも言われている。
 
1586年5月4日、堺で死去。享年52。

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