脇屋義助の解説 新田義貞の実弟であり最後まで足利尊氏に抵抗した南朝の武将

脇屋義助

脇屋義助とは

脇屋義助(わきや よしすけ)は、鎌倉を攻め落とした新田義貞の実弟で鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将です。
通称は、脇屋次郎。父は新田朝氏で上野国新田郡に生まれます。
生年は、正安3年(1301年)説、嘉元元年(1303年)説、嘉元3年(1305年)説、徳治元年(1306年)説と諸説あります。
新田義貞の菩提を弔う安養寺・明王院にある板碑には「源義助」と書かれたものがあり、ここに正安3年(1301年)の生まれであると記録されています。
そうすると、新田義貞とは1歳違いの兄弟ということになり、これは足利尊氏足利直義のコンビと同じような関係性になります。
新田ではなく脇屋を名字としているのは、成長した後、脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠点を移したからだと言われています。

新田義貞の鎌倉攻略に従軍

元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵。
北条氏の率いる幕府軍と戦うため鎌倉を目指し進軍を開始します。
古典『太平記』の中で、脇屋義助はこの挙兵のタイミングで初登場します。


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西国の反乱鎮圧の軍資金調達を目的として、新田荘に幕府の徴税使がやって来ました。
徴税使は多額な臨時税を強要したためこれに反抗した新田義貞に斬られます。
幕府との戦が避けられない状況となり、新田義貞は一門衆を集め会議を行いました。
・越後からの一族の到来を待つ
・利根川を要害にして立てこもる
など善後策が議論されましたが、ここで脇屋義助は
護良親王から令旨をもらっている
・鎌倉を落とすため進軍すれば味方が集まるはずだ
と積極論を述べ、方針は脇屋義助の意見の通りになります。

新田軍は鎌倉に向け進軍を開始。
挙兵したその日のうちに、越後勢や甲斐源氏・信濃源氏と合流し新田義貞の軍は7,000にまで膨れ上がります。
その後も、進軍の中で雪だるま式に味方が増え、各地で幕府軍を撃破。
足利尊氏の息子である千寿王(足利義詮)とも合流し、5月18日には鎌倉攻略にかかります。
脇屋義助も新田義貞に近侍しながら鎌倉攻略に参加していました。
5月20日には、鎌倉七口のひとつ化粧坂攻略を新田義貞から任されます。
一両日の間に、新田義貞は鎌倉へ乱入し、5月22日に北条高時は自害しています。
同日、脇屋義助は北条一門であり元弘の変に大将の一人として参加した大仏貞直と戦闘になりこれを討ち取る戦功をあげています。

北条氏の滅亡後、後醍醐天皇京都へ帰還。
倒幕に参加した諸将へ論功行賞が行われます。
脇屋義助も対象となり、正五位下・左衛門佐に任官しました。
これ以降、駿河守、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任しました。

一方、後醍醐天皇は建武政権下で武者所を復活させます。
内裏の警備や京都の治安維持、後醍醐天皇の親衛隊のような役割も果たし、頭人は新田義貞でした。
そのためか、新田氏に連なる家柄の者が多かったようです。
6番(6組)、総員60余名で組織され、脇屋義助は第5番‎に息子の脇屋義治と共に名を連ねています。

足利尊氏との戦い

建武2年(1335年)、足利尊氏は中先代の乱を鎮圧後、関東で建武政権へ反旗を翻します。
建武政権は新田義貞を足利尊氏追討の総司令官とし、脇屋義介もこれに従軍します。
ここから、脇屋義助の足利勢との戦いは死ぬまで続いていきます。

箱根竹ノ下の戦い

新田義貞は尊良親王を奉じ、東海道を進軍します。
序盤は優勢であり伊豆国府を占領し鎌倉に迫る勢いをみせます。
伊豆国府を出発した軍は二隊に分かれ新田義貞率いる主力は箱根へ、尊良親王を総大将にして脇屋義助を副将とする別動隊は竹之下方面へと進軍しました。
この別動隊に足利尊氏があたってきます。
政府軍は功を焦る公家、朝廷に仕える武士も含まれていました。
ここに土岐頼遠や佐々木道誉という権威をおそれない武士たちが襲いかかります。


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政府軍が崩れる中、脇屋義助は奮戦しますが、戦はそのまま足利尊氏の勝利となります。
13歳だった息子の脇屋義治が一時行方不明になるほどの混戦だったと伝えられています。
この敗北により新田義貞の軍は京都まで撤退することになります。

・京都での戦い

新田義貞の京都への撤退を追って、足利尊氏は東海道を西に進みます。
そして京都を巡り、目まぐるしい両軍の攻防が展開されます。
一時は足利尊氏に敗れ京都から退いた新田義貞でしたが、奥州より足利尊氏を追ってきた北畠顕家の軍と合流、反撃を開始します。
しかし、その後再び京都を足利勢に奪還されてしまい、なかなか勝ちきれません。
ここで、先の足利尊氏討伐からやっと引き返してきた尊良親王の軍勢2万と楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛けます。
これにより、足利尊氏は九州へと駆逐。
脇屋義助は、新田義貞を助けて各地で奮戦した功により右衛門佐に任じらました。

・湊川の戦い

九州から陸、海に分かれて軍を進めてくる足利尊氏を湊川で迎え撃つ作戦が立てられました。
足利軍の上陸地点を予測し、新田義貞の主力が和田岬、脇屋義助は湊川河口付近の経が島付近に布陣しています。
予測通り足利軍は経が島に上陸してきたので、脇屋義助の軍は足利軍200を討ち取ったと言われています。
しかし、その後は足利水軍が東へ進む陽動作戦に引っ掛かってしまい、足利尊氏の主力が上陸。
湊川合戦は足利軍の勝利となります。
京都を足利尊氏に奪われた後醍醐天皇は、新田義貞とともに比叡山に逃れました。

北陸へ転戦~新田義貞の死

延元元年(1336年)、敗戦続きの新田義貞を見限り、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦を秘密裏に進めたと言われています。
後醍醐天皇は、新田義貞に恒良親王と北陸に向かうよう命令します。
新田義貞、それに従う脇屋義助は越前国敦賀・金ヶ崎城に入城します。
これを足利方の高師泰らの攻略が始まります。
この少し前、脇屋義助は越前の瓜生義鑑房に、息子の脇屋義治を預けていました。
瓜生氏は城中と連携して、高師泰へ攻撃を仕掛けています。
しかし、越前・金ヶ崎城は兵糧攻めを受けて落城。
新田義貞、脇屋義助は直前に杣山城に移動していたため生き延びています。
しかし、恒良親王は捕虜となり新田義顕(新田義貞の息子)をはじめとする多くの武将が自害しました。
延元3年(1338年)、越後・越前で着実に勢力を回復しつつある中、新田義貞が戦死します。黒丸城を攻めていた最中の不慮の戦死と言われています。


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・脇屋義助、新田義貞の跡を引き継ぐ
北陸の新田軍は、崩壊の危機に見舞われましたが、脇屋義助がその軍を引継ぎ体制の立て直しを図ります。
しかし、延元4年(1339年)に後醍醐天皇が死去。
北陸での戦いも次第に勢いをなくしていきます。
そして興国2年(1341年)、脇屋義助は越前を離れ、美濃・根尾城へと移ります。
しかしここでも美濃守護・土岐頼遠の攻勢を受け惨敗。
失意の中、尾張から伊勢・伊賀を経由して吉野に入り後村上天皇に拝謁しました。
後村上天皇は北陸での労を労い、脇屋義助の位階を上げ、家臣らにも恩賞を与えたと言われています。

四国で最後を迎える

興国3年(1342年)、備前の飽間信胤が南朝方に寝返り小豆島で挙兵しました。
そして「四国~瀬戸内方面の南朝の大将」の要請がありました。
この要請に対し、南朝は脇屋義助を伊予に派遣することにしました。

脇屋義助は、吉野から高野山を経て紀州田辺へ。
そこから熊野水軍の協力を得て淡路島~備前児島に立ち寄りつつ伊予・今治に到着しました。
伊予では新田一族の大館氏明や四条有資が先に活動を行っていました。
また、九州平定のため派遣された懐良親王や忽那水軍もここにいました。
脇屋義助はこれらの勢力と合流。
鎌倉倒幕から戦場に身を置いてきた経験や、新田義貞の弟であるという箔もあり四国から南朝反撃ののろしが挙げられるはずでした。
しかし、脇屋義助は伊予到着から日が経たないうちに死亡してしまいます。原因ははっきりしていません。


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脇屋義助の死後、伊予南朝軍は細川頼春の攻撃を受けて壊滅。
息子の脇屋義治は、新田義貞の次男・新田義興、三男・新田義宗と合流して東国で南朝方として戦うことになります。

(寄稿)渡辺綱

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