織田有楽斎 (織田長益)の解説 野望を持たず戦国の世を生き抜いた織田信長の末弟

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織田長益(おだながます)は、1547年に織田信秀の11男として産まれた。母は不詳。
13歳年上の兄に織田信長がいる。
1551年、父・織田信秀が死去すると、家督を兄・織田信長が継いだ。

1557年、兄・織田信長の跡継ぎとなる織田信忠が誕生したこの年、織田信長に対抗した織田信行が暗殺されている。
織田長益の前半生は、11男と言う事もあり、記録がなく不明。若い頃から病弱を理由に戦にはあまり参陣していなかったととも。


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1572年、織田信長の嫡男・織田信忠が元服すると、織田長益 (26歳)は、織田信忠の軍団に加わった。
1574年、織田信長が朝倉家を攻め滅ぼした年になるが、尾張国知多郡に所領を得て尾張・大草城(知多)を改修している。

1581年の京都御馬揃えでは織田信忠・織田信雄織田信包織田信孝津田信澄の後に織田長益の名が見られる。
また、1582年、左義長での順は織田信忠・織田信雄・織田長益・織田信包となっている。

この1582年には、正室・雲仙院殿(平手政秀の娘・清)との間に、のち家督を継ぐ織田頼長が誕生している。

1582年、甲斐の武田勝頼攻めでは、織田信忠軍として参戦。木曽口から鳥居峠へ進軍し、木曽勢に助力して鳥居峠の戦いを制した。
降伏した深志城(松本城)の受け取り役も務めている。
また森長可・団忠正と共に上野にも出兵し、国峯城主・小幡信貞を降伏させている。

明智光秀による本能寺の変の際は、織田信忠と共に二条御所に一時籠城した。
織田信忠が自害を決意すると、織田長益も「自分も自害する」と、家臣に自害の準備をさせている間に脱出し、近江安土を経て岐阜へ逃れたとされている。
ちなみに織田長益の他にも前田玄以水野忠重、山内康豊、鎌田新介(織田信忠の介錯役)が二条御所から脱出に成功している。

その後は、織田信雄に仕えて検地奉行などの実績がある。

小牧・長久手の戦いでは織田信雄勢として参戦し、徳川家康に助力した。
蟹江城の戦いでは大野城の山口重政を救援し、下市場城攻めにも参陣しており、蟹江城の滝川一益の降伏を仲介している。

蟹江城

戦後は、徳川家康と羽柴秀吉の講和の折衝役を務めた。
また、降伏した佐々成政と羽柴秀吉の間を斡旋したとも伝わる。

1588年、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。

1590年、織田信雄が改易された後は、豊臣秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌(現在の大阪府摂津市)に2000石を領した。
この頃、織田長益(44歳)は剃髪して有楽斎(うらくさい)と称した。
姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。

豊臣秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立した際、織田有楽斎(おだ-うらくさい)は徳川屋敷に駆けつけ警護している。

1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に味方して、長男・織田長孝とともに総勢450を率いて参戦。
寡兵ながら小西行長大谷吉継石田三成宇喜多秀家と交戦し、一時は本多忠勝の指揮下に入って、大山伯耆などの石田三成勢からの横槍を撃退している。
また、嫡男・織田長孝が戸田重政、内記親子の首を討ち取り、織田有楽斎も石田家臣・蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げた。
その為、戦後、織田有楽斎は大和国内に32000石、長孝は美濃野村藩10000石を与えられ、大名に列した。

織田有楽斎

関ヶ原の戦いのあとも、大阪城にて豊臣家に出仕を続け、豊臣秀頼の母・淀君の叔父として豊臣家を補佐した。
この頃、京都・建仁寺の子院・正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。
現在、正伝永源院(明治期に名称を変更)には、織田長益夫妻と孫・織田長好らの墓がある他、織田長益夫妻、孫娘(次男・織田頼長の娘)、兄・織田信包らの肖像画も伝わっている。

大坂冬の陣では大坂城にて、子の織田頼長と共に、二の丸玉造口などを守備。
大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。
しかし、嫡男・織田頼長は強硬派であり、しばしば対立している。
なお、織田有楽斎は徳川勢の間諜を務めていたとも考えられている。


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大阪冬の陣の後、大野治長と共に徳川家との和睦を成立させ、徳川家康に人質を出した。
しかし、大阪城では真田丸も取り壊しとなり、外堀も埋められるなどする。
大坂夏の陣を前にして、豊臣勢の再戦の機運が高まると、織田有楽斎は徳川家康・徳川秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや大阪城内にいても無意味」と言い、徳川家の許可を得て大阪城から離れた。

大坂退去後は京都にて隠棲し茶道に専念し余生を過ごし、自ら茶道有楽流を創始した。
京都建仁寺の正伝院に建てて茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
茶室で国宝に指定されているのは、ほかに千利休の「待庵(たいあん)」と小堀遠州の「密庵(みったん)」のみである。
 
1615年8月、四男・織田長政、五男・織田尚長にそれぞれ10000石を分け与え、織田有楽斎は隠居料として手元に10000石を残している。

1621年12月13日、京都にて死去。享年76。


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東京の繁華街で、山手線の駅もある「有楽町」(ゆうらくちょう)は、織田有楽斎の江戸屋敷があった場所となり、現在も地名を残している。

ちなみに、2016年のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、ベテラン俳優の井上順さんが織田有楽斎を演じています。
真田幸村が、その織田有楽斎の内通を疑いますが、最後まで情報を漏らしていた人物は、他にもいたと言う設定になっております。
その人物こそは・・。
ご興味がある方は、下記のリンク先から探してみて頂けますと幸いです。

関ヶ原の笹尾山「石田三成陣跡」(島左近陣跡、蒲生郷舎陣跡)~石田三成の夢
大阪城の史跡巡り観光堪能2時間コースのご紹介
蟹江城 豊臣勢と徳川勢の蟹江城の戦い
真田幸村【真田信繁】の妻と子供たち一覧表
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