八王子城落城の悲劇 (八王子城の戦い)と横地監物館跡


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 → 小田原の役と八王子城 の続きです

 前田利家勢・上杉景勝勢は西から南浅川を渡って横川を経て、元八王子へ到着したようで、上杉勢は案下にて火を放って攻め、前田勢の大軍は横川村に旗を立て陣取った。また、滝村の宝蔵院が横山口(元八王子1丁目の石上坂上)で討ち取られている。

 八王子城を包囲した時点で、前田利家は八王子城に使者を出し「関白様の出向であり、周囲の城も明け渡れている。八王子城も早々に御渡し願いたい。さもなくば即、攻め落とす」と伝えたようだ。
 しかし、八王子城側はこの使者を斬り捨てたと言われる。

 豊臣秀吉は城攻めの際、敵が降伏するのを待つ作戦を得意としていたが、時には皆殺しも必要と言ったのを受けて、豊臣に降伏していた元北条家臣の大道寺政繁らを先頭に1590年6月23日深夜又は早朝より、豊臣勢は八王子城を攻撃開始。攻撃開始の時間は、午前2時~3時とするものや、午前1時~3時とするものがある。
 夜霧が立ち込めていて、豊臣勢が城に侵入する動きが見えなかったとも言われており、闇夜+霧と言う事で、鉄砲の狙撃を受けにくく、攻め手には有利な状況であった。

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 豊臣勢は、すぐに根小屋(元八王子の集落)の守りを突破したが、八王子城では霧によりこの様子がわからない所に、攻め手が押し寄せた為、石弓(高所から石を落とす)の戦法で、豊臣勢先陣の大道寺政繁隊・数百人を撃退したとされる。
 しかし大道寺政繁は「近藤曲輪」と「山下曲輪」を猛攻し、近藤綱秀、金子家重ら多くの城兵が討たれ、首級は250を数えたと言う。(山下曲輪は松山衆が夜討ちにて350の首を捕ったとの説も有)
 このように豊臣勢が先に降伏させた城の北条家武将(大道寺政繁など)が、八王子城に攻撃の先陣を務めていたが、これは戦国の習いであり、珍しい事では無い。
 山下曲輪まで攻め込まれたころ、夜が明けて来たとさせる。

 次に「御主殿」の曲輪が攻め込まれたようで、御主殿に待機していた北条氏照の妻や侍女などが、御主殿の滝に身を投げたと言い伝えられており、三日三晩、川は血で赤く染まったという伝説が残る。
 ※ただし、御主殿の滝は、高さ数メートルと低い滝である為、滝の上、もしくは川の横で自害し、川に落下したものと解釈するのが適切か・・。

 前田利家隊は中腹で金子家重が守備する「金子曲輪」を激しい銃撃戦のすえ攻略すると、残された山頂へ進撃した。
 山頂付近の「小宮曲輪」には狩野一庵、「中の曲輪」には中山家範、「山頂曲輪」には横地監物と大石照基が守っていたが、これらは連携が取れた為、前田利家の家臣・青木信照ら30余名が討死したとされ攻め手の前田勢は苦戦を強いられた。
 しかし、八王子城で最も強固な山頂部分は、北側の恩方より水の手(棚沢)を経て侵攻した上杉勢によって「小宮曲輪」は奇襲を受け危機に陥った。

 八王子城付近に調井という地名が残る。上杉景勝の武将・藤田信吉平井城の平井無辺を調略した場所とされている。平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知していた。
 これにより藤田信吉は八王子城の最強部分を最短距離で攻めるべく、間道沿いに搦め手を攻めて、八王子城の山頂部分に一番乗りを果たしたとされる。
 八王子城の北条家臣で唯一裏切った平井無辺の情報が無ければ、関東で最も強固だった山城である八王子城は陥落しなかっただろうと言われている。

 
 (上記写真は、高尾山から望む八王子城 手前には圏央道のトンネルが見える。)

 小宮曲輪の狩野一庵は必死に防戦したとされるが、多勢に無勢。
 攻め寄せた豊臣勢を一度は撃退できても、新たにどんどん攻められる状態であり、やがて八王子城側には内応者が出て櫓に火を懸けるなど、ことごとく敗北。
 中山家範と狩野一庵は曲輪の中で自害し、大石照基は討って出て討死したとされる。
 上杉家の猛将・甘糟清長が、陣所を焼いたとされ、そのような乱戦の中、中山家範は奮闘の後に自刃したと言う。

 八王子城代として「山頂曲輪」を守っていた横地監物は山伝いに逃亡して檜原城を目指した。

 榊原康政の記録によると、八王子城の戦いは、早朝に終わったとされる。
 前田利家は「名城ゆえに犠牲が多く出た」と、八王子城で討ち死にした家臣の親に宛てた書状に見られ、榊原康政が加藤清正に宛てた書状では「鳥や獣が飛び回り(急峻な為)立つのも困難な城」と述べている。

 徳川家康の関東入りまでは、上杉景勝の家臣・須田満統が八王子城代となった。

 ちなみに、北国軍に降伏していた大道寺政繁は、このように八王子城にて最も辛い戦いをしたが、結果的に小田原城開城後、北条氏政北条氏照・松田憲秀らと同じく豊臣秀吉には許されず、切腹を命じられ川越城にて果てている。

八王子城攻城戦で戦った北条氏照家臣
横地監物
(横地吉信)
遠江・横地城主。伊豆20家に数えられ、老臣であったが北条氏照の信頼厚く
留守中の八王子城代として本丸を守った。
本丸から辛くも逃亡し檜原城(城主・平山氏重)にて豊臣勢に抵抗した。
別名:横山監物、横田長次、横地吉信、横井景信、横地監物吉信、横地将監景信
狩野一庵
狩野飛騨守一庵、狩野帯刀
元・武田家臣の小幡信貞の3男。
北条家宿老で評定衆筆頭であり北条氏照付家老のいわば官僚であった。
中山氏と共に中丸(3の丸とも)を守るが討死。
中山家範 (43歳)
(加治家範)
中山勘解由家範
高麗流馬術(八条流馬術)の達人で、槍の名手。
滝山城代だったが、八王子城中丸(2の丸)を守備。
前田利家の開城説得があったが北条氏に忠節を誓い拒んで妻とともに自刃。享年43。
近藤綱秀
近藤助実
近藤出羽助実
北条氏照・家老で下野・榎本城主。北条氏と伊達氏との交渉役だった。
居城・榎本城を嫡男と家臣に任せ八王子城に参じ山中郭を守備したが討死。
小田原征伐で北条方の始めての城主クラスの戦死とされている。
金子家重
(金子三郎右衛門)
八王子城で守ったは曲輪は「金子曲輪」と呼ばれたが討死。
既に上杉勢に降伏していた武蔵・松山城の同族・金子家基(金子紀伊守家基)が
上杉の先鋒として八王子城攻めに参加している。
平山綱景
平山左衛門尉綱景
太鼓郭を守備したが戦死。檜原城主・平山氏重の弟。
土屋五郎左衛門、坂本四郎左衛門らも守った。
大石照基
大石信濃守照基
小山・祇園城代だったが八王子城本丸を守備。
いよいよ最後の時に北条氏照の命と称して城代・横地監物を逃がす。
そして僅かに残った兵を集め「我が大石一族は主人氏照の格別の引き立てにより
家名を成す事ができた。今こそそのご恩に報いる時ぞ」と飛翔の陣形を組み寄手に
突撃し、横地監物が逃げる時間を作ったとされている。
島崎二郎 唐木田城主、棚原城主。
詳細は不明だが八王子城で討死。
前田利家家臣が下記3名を討ち取る。
伊藤内膳討ち取り。稲毛弾正は堀内帯刀に討ち取られた。三木作蔵は横田久右衛門に討ち取られた。

 なお、八王子城には数々の悲話・伝説が残っている。
 豊臣勢の八王子城攻めでは、城兵だけでなく、女子供も含めて1000人以上(1200人以上とも)を虐殺し、前述の通り御主殿の滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている。八王子城が総攻撃を受けて陥落したと言う報を受けて、小田原城で篭城していた北条氏照は、床を叩いて号泣したと言う。

 北条氏照の正室・比左(比佐、阿豊、豊とも?)(大石定久の娘)を前田利家は助けようと城に使いを出したが、比左は断り、横地景信の介錯で自害したと言われている。別の説では、迫りくる敵兵の前にもはや絶望的となり、比左はしっかりと若君を抱いて、主殿の滝に身を投げたと言われている。

 八王子城内には、宝生寺の頼昭僧正と、西蓮寺の祐覚上人が「軍祈」のため籠城に加わっており殉死したと伝わる。

 小田原城の記録では、若武者一騎、八王子城よりの使者。落城のさまを報告せり。その名を常磐小太郎とある。常磐小太郎は馬術に優れた武士であった常磐対馬と共に八王子城へ詰めていたとされ、最初は常磐対馬が伝令として八王子城から単騎小田原を目指したが討たれ、その子の常磐小太郎が役目を中山家範に申し出たようだ。

 小田原城に籠城している北条家の関係者以外の妻子は解放されたが、翌日には北条方武将の妻子と思われる、ボロボロになった着物を着た女・子供など約60名が、小田原城からすぐ見える城下町に連行されたり、八王子で討死した首(中山勘解由、狩野一庵)も相模湾から船で小田原城内へ僧侶により届けられたと言われ、その激戦となった八王子城落城のあり様を実際見ることになった小田原北条勢の士気は大きく低下したと言う。
 恐らくは高尾から相模原に出て、田名や当麻辺りから相模川を渡たり、捕虜として連れて行かれたのではと想像できる。
 ちなみに、徳川家康が江戸に入ってから、大量虐殺のたたりを恐れ、八王子城一帯は幕領として立入禁止の禁制地として幕末まで続いた。

 八王子城での北条側の戦死者数は、周辺の寺の過去帳で527名もしくは680名。榊原康政は1000人を討ち取ったしている。
 豊臣勢の報告では、前田勢が280首、上杉勢が273の首級をあげて関白・豊臣秀吉に報告。
 戦後、八王子城をまわって遺体を供養をした相即寺の牛秀讃誉は、両軍合わせて1283体を確認し、うち283体を埋葬したと言う記録がある。

 豊臣勢は更に、下記の八王子城の支城も攻略したとされる。
 浄福寺城(新城、案下城、松竹城、千手城、ニ城) - 大石四郎右衛門、大石平太経正、乙幡勘解由態忠、風間衆(忍者衆)
 川原宿の心源院 (北条氏照の祈願寺で、武田信玄の娘・松姫が甲斐から逃げ出家した寺) - 大石定久の弟(僧侶)と寺の僧侶
 小田野城 - 小田野源太左衛門
 慈眼寺 - 高尾一族が守備。高尾備前守・高尾助六の親子。高尾の平山弥八郎、弥九郎、高尾近江守。

 また、八王子城落城から2日後には、徳川勢15000が津久井城を落城させている。片倉城は八王子城落城後の一掃戦で、ほとんど抵抗せずに落城。
 滝山城に関しては記録はないが、八王子城に防衛拠点を移したあとであったとしても、簡単に奪わられもやっかいである為。恐らくは極少数で守備はしていたはずであり、早々に降伏したものと考えられる。

 八王子城攻めの際の戦死者名などの詳細文献記録

 「…扨 此度之戦に加賀勢の討死 名有者四十八人 雑兵共五百二拾人 上杦(うえすぎ)家にて者 名高キ勇士三十六人 雑兵共四百十人(四百五十人・山本家本) 其外真田 毛利 并ニ諸方之降人共 寄手乃討死 都合千弐百七拾四人也 
 城方にて討死の面々は 近藤出羽之介 津戸半右衛門 上久保助兵衛 同兵衛 中山勘ヶ由 松本豊後 狩野一庵 馬場対馬守 同与八郎 高橋雅楽之助 同宇三良 中嶌豊前守 同主計 同五良 安田善左(右)衛門 高幡十右衛門 濱中新吾 綾野木工頭 長野伊豫守 鈴木彦八郎 おなじく庄右衛門 水野藤左衛門 同源七 渡邊伊賀守 同十左衛門 同又兵衛 小林土佐守 志野帯刀 志村将監 星野九八郎 枩田(まつだ)主水 細野彦次右衛門 斎藤三右衛門 同与三郎(高橋与三郎ヵ) 佐藤織部 島崎次良 小野入道 十日市次郎右衛門 嶋崎兵庫之介 同喜内 吉村三左衛門 内田河内守 銀八郎右衛門 目黒与十良 谷部玄蕃 目黒惣九郎 白井喜三郎 ?和泉守 河井二良 山田文右衛門 金子三郎左衛門 持丸彦五良 青木但馬守 鈴木出雲守 大竹隼人 桜井式部 同彦七郎 山田数馬 新野五郎 黒谷小左衛門 青木与兵衛(与三郎) 大彦次郎 大河三右衛門 安石源六 同市右衛門 駿河織之助 平尾藤右衛門 比留間大膳 同じく帯刀 石上新左(右)衛門 熊澤戸三郎 井上冶兵衛 長野讃岐守 内山弥左衛門 酒井次郎右衛門 吉川善左衛門 同与兵衛 笛彦兵衛 浅尾霽五郎 中島源右衛門 尾谷兵部 梶田十良右衛門 望月三蔵 其外平沢 冨沢 窪 長井 増島 中村 朝倉 岡崎 安都城(アトキ) 岩井 大澤ヲはじメとして 忠義鉄石の勇士 おもいおもいに討死しける 中二も 加州之手へ打取首 能武者之首弐十壱 其余三百三十五級 其外毛利 真田 大道寺ヲはじメ 降人江打取首数七十八 ことごとく桶ニ入 首帳に 印済(しるしすませ) て小田原表 秀吉公之本陣へ献ぜらる 殿下秀吉公 御感斜ならズとぞきこへしとなり…」

 高尾備前、由木豊前守、由木主水祐、高橋孫三郎、三内中務、飯田新右衛門、高尾弥八郎、高尾弥九郎

 鈴木佐渡守、鈴木彦八、鈴木庄三、新野五郎、桜井式部、石川土佐守、駿河又左衛門道順、一庵主月山宗円法眼 同 内 妙性大姉、三窪助兵衛秀悦淨安 同 子息秋感
 松本豊後 
 窪 淨真 同 内 妙慶 同 妙安 
 近藤出羽守
 馬場対馬守淨感 同 内 妙讃 同 娘 某 同 与八永信
 横地与三郎
 増島淨専 同 内
 高橋雅樂道栄 同 次郎三郎道善
 中島豊前良岑 同 娘 某
 安田善右衛門淨光
 高幡十右衛門道泉
 長野伊予守 同 内 某
 薄打道正
 浜中十郎道讃 同 新五郎淨善
 綾野木工頭淨香 同 孫 正運
 鈴木庄佐道香 同 庄左衛門道善
 水野藤左衛門淨品 同 源七郎淨讃 
 渡辺伊賀淨珍 同 十佐淨源 同 又兵衛道西
 小林土佐守西誉淨運
 志野帯刀淨信
 斎藤三右衛門淨信
 高橋与三母妙玄
 佐藤対馬守淨玄
 小野入道淨光
 島崎次郎道香 同 兵庵道円
 内田河内守月山淨雲
 十日市二郎左衛門淨西
 吉村三右衛門道円 同 順智 同 銀八郎右衛門淨林
 目黒与十郎宗念 同 惣九郎道円 同 与兵衛道善
 各辺玄蕃 同 娘 正秋
 白井喜三郎道林
 大沢母妙源
 河井次郎道本 同 聟 道西
 山田久右衛門道善
 持丸彦五淨蓮
 和泉宗泉
 青木但馬守淨雲
 山田主計淨光
 佐藤淨信
 鈴木出雲守
 大竹隼人淨心
 山郷被官助右衛門道善 同 周善
 大隅西月
 桜井彦七道心
 富沢道三
 駿河中村道円
 青木与三淨蓮 同 与衛門淨西
 黒谷小左衛門淨香 同 甚左衛門道香
 大河三右衛門道本 同 善光
 嶺巖淨永 同 安右道心 同 市左衛門道善 同 駿河織部 同 舎弟 道忠
 八幡宿助三道香
 東主座両親 道善 妙善
 平尾藤右衛門道重
 駿河二郎兵衛道西
 比留間帯刀母妙幸 同 関内妙安 同 帯刀子息両人 同 内妙祐  
 駿河被官小八道清 同 太郎父道西
 安都城軍
 馬場宗念 同 光信
 谷内妙巖
 熊沢土佐淨感 同 子息 宗信
 張田道賢
 朝倉示観英珍
 大沢蔵人母妙善
 井上冶兵衛被官孫右衛門蓮西
 御祓四郎兵衛道西
 岡崎淨円
 中島十郎家来道正
 石上新右衛門道善
 目黒下甚右衛門道秋 同 子宗忍 同 娘
 学助智円
 長野讃岐宗円 同内山弥右衛門道清 同 番匠又兵衛道香 同 内 妙貞
 弥七宗仙
 酒井二郎淨感 孫伊勢秀悦 同 聟僧 宗円
 中島下源右道心 同 新兵衛内妙慶
 吉川善右淨専 同 与兵衛道光
 犬目道因
 笛 彦兵衛清範 同 斎五郎道随 同 丹四道香 同 観新淨音 同 岩井下女妙槃
 谷被官四郎左衛門道正 同 半兵衛道順 同 新右衛門道西
 右戦死者弐百八拾人属滝山大善寺檀越者也

横地監物館

 八王子城の近くには、横地監物の屋敷跡とされる場所があります。

 それは、現在、宗閑寺がある場所で八王子城が攻められた際の最初の防衛施設でもあったような立地です。
 ちなみに、宗閑寺は、もともと北条氏照の墓がある北西にあったようですが、明治25年にこのちに移転しました。

中山家範(中山勘解由家範)の子孫の話   檜原城攻めの話もどうぞ
上田朝直と武蔵・松山城の歴史~上杉/武田/北条/豊臣と何度も攻撃された松山城
八王子城の訪問記
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