石川数正~徳川家康の家老職を捨て、豊臣秀吉に寝返った智将


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石川数正は、1533年、石川康正(石川康政)の嫡男として三河で生まれた。母は松平重吉(能見松平家当主)の娘。幼名は助四郎(与七郎)。初名は石川康正(父と同じ名)。

1549年、松平元康(徳川家康)の父・松平広忠の死去で、松平元康が一時、岡崎城に帰還したのち、再び今川義元の人質として駿府の今川館に赴く際、歳が近かった事から石川数正は供奉の1人として同行し「竹馬の友」として仕えた。

石川数正の正室は内藤義清の娘で、1554年には嫡男・石川康長が誕生している。

1560年、桶狭間の戦いにも松平元康に従い出陣。織田信長により今川義元が討たれて松平元康(徳川家康)が独立すると酒井忠次らと共に先駆衆として従った。

1561年、松平家康と織田信長が石ヶ瀬川の戦いで衝突した際に、石川数正(石川伯耆守)は先鋒で活躍するも、1562年、織田信長との「清洲同盟」では何度もの折衝を繰り返し大きく貢献した。
しかし、この同盟に怒った今川氏真は人質として預かっていた松平元康の正室と嫡男の命を狙う可能性も出た為、石川数正(28歳)は今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児(鵜殿氏長鵜殿氏次)との交換条件で今川氏真を説得し、桶狭間の前から今川家の人質で駿府に置き去りとなっていた松平家康の嫡男・松平信康(竹千代)と、松平家康の正室・築山殿を取り戻すことに成功。

1563年、三河一向一揆が起こると、本多正信本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長、加藤教明らと共に、父・石川康正も徳川家康を裏切って反旗を翻し、三河家臣団の半数が門徒方に与したが、石川数正(37歳)は一向宗から浄土宗に改宗してそのまま徳川家康に従った為、家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになった。

徳川家の跡取り、松平信康が元服すると、石川数正は平岩親吉と共に後見人になっている。

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1569年、今川氏真が没落し、遠州・掛川城主になっていた叔父・石川家成に代わって、徳川家康の命で、西三河の旗頭(旗本先手役)となった。

織田信長の援軍として、朝倉義景浅井長政との1570年の姉川の戦い、1572年には武田信玄との三方ヶ原の戦い、1575年には武田勝頼との長篠の戦いなど合戦では数々の武功を挙げた。
1579年、織田信長の命により徳川家康の嫡男・松平信康が切腹する事態となった。
この時の石川数正の行動は記録が残っていなく不明だが、後見人として助命活動に動いていたのは間違いないだろう。
その後、徳川家康は石川数正を岡崎城主に任じて、譜代の最上席として、徳川一門に準ずる地位を与えていることからも、石川数正がかなり反発していたものと推測できる。
同じ後見人だった平岩親吉は、自分の首を織田信長に差し出すことで、松平信康を助命しようとしたが失敗し、責任を感じて蟄居謹慎。後に許されて復帰している。
いずれにせよ、徳川家の中心は完全に遠江となり、三河勢には後方支援の役割しか与えられなくなったようだ。

1582年、明智光秀の謀反により本能寺の変で織田信長が横死。この時、徳川家康らは和泉の堺を遊覧していたが、石川数正ら酒井忠次、本多忠勝井伊直政榊原康政、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎の一行は伊賀越えでの三河帰国に随行。

1583年、前年に武田家が滅亡した為、松本城小笠原貞慶は徳川家康に臣従し、長男・小笠原秀政を徳川家康のもとへ人質として差し出した際、石川数正が預かっている。
1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破った羽柴秀吉への勝利を賀する使者を務め大阪城を訪問し、羽柴秀吉に謁見。「そなたは能力の割りに正しく天下に認められておらん。実に残念なことだ。わしなら、それなりの役職は与えるものを・・・」と、称され、以後、石川数正は徳川家康の命で徳川家の外交官として、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との交渉役を担った。

1584年、小牧・長久手の戦いに参加し小牧山の本陣を守る。
しかし、この戦いの際に、石川数正は、羽柴秀吉との和睦を徳川家康に提言したとされ、羽柴秀吉と接する機会が多くなるほど距離が近くなっていったようだ。

小牧・長久手の戦いのあと、羽柴秀吉と織田信雄が和睦すると、講和成立の祝賀の使者として1584年11月に羽柴秀吉を訪ね、12月、羽柴秀吉のもとへ徳川の人質として徳川家康の次男・於義丸を届けたが、この際に石川数正の嫡男・石川康長、次男・石川康勝も同様に人質となった。

1585年11月13日(11月12日とも)、石川数正(53歳)は突如として一族郎党約100人を引き連れて岡崎城を出て、徳川家康のもとから出奔し、羽柴秀吉を頼った。
石川数正が預かっていた人質・小笠原秀政も同行を余儀なくされている。 
この時、徳川家康は真田昌幸上田城攻めの最中だったが、石川数正出奔の報を受けて陣を引いており、以後、真田攻略を諦めている。

羽柴秀吉の魅力に共鳴したものなのか、はたまた得意の恩賞による篭絡に乗せられたのか? 徳川家康からの内命(密命)により徳川家の外交を内から手助けするものなのか? 羽柴家に臣従する立場を訴えた為、内通を疑われたりと徳川家中における立場が著しく悪化したのか? その真実は不明で未だに定説はないが、石川数正は徳川軍の軍事的機密(軍制・戦術だけでなく暗号や手筈など)を知り尽くしており、この出奔を受けて徳川家康は軍制改革を行っている。

最も、豊臣秀吉も「徳川譜代の石川が家康を裏切るはずが無い、何らかの策だろう」と厚遇しなかったとされ、石川数正は恥じて、しばらくは出仕しなかったともされる。

1586年、石川数正は和泉に80000石を羽柴秀吉(豊臣秀吉)より与えられ家臣に列した。この時、石川出雲守吉輝と改名したとも伝わるが、豊臣家の家臣として1587年の九州征伐にも従軍している。(所領が和泉のどこかは不詳)

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにも参陣するも同じく出陣していた徳川家康との関係に苦慮したのか、目立った行動は見られない。
論功行賞で、関東に入った徳川家康を監視する役割として、石川数正は松本城80000石(10万石とも)となり、1590年8月末には寺社に制札を出しているのが確認できる。
そして、現在も国宝として現存する「松本城」の築城を開始した。

松本城の改修や城下町の整備は嫡男・石川康長の代まで続けられ、現在のような城下町の基礎が出来上がった。
また、浅間温泉に湯御殿の造営も行っている。

1592年、文禄の役(朝鮮出兵)では肥前国へ500騎を率いて肥前名護屋に出陣したが、その陣中で死没。享年61。
詳しい没地や命日は不明だが、1592年12月14日に京都七条河原で葬儀が行われている。

家督は長男・石川康長が継いだが、遺領10万石のうち、石川康長は8万石、次男・石川康勝が安曇郡15000石、3男・石川康次が5000石をそれぞれ分割相続している。

松本城の壮大さと訪問記に関してはこちら
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  1. 2015年 11月 25日

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