真田幸隆 【真田幸綱】~真田一徳斎の生き残り術


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真田幸隆(真田幸綱) サナダユキタカ 1513年 ~1574年5月19日

 真田幸隆の出生には諸説あるが、信濃国・小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の次男あるいは真田頼昌の次男と考えられ、真田荘(現在の長野県真田町)に在住して真田姓を名乗ったと考えられる。
 古文書などには真田幸綱と記載されている事が多く、晩年に真田幸隆と改めたものとも考えられる。この章では真田幸隆で統一してご紹介したい。弟は諏訪神氏系矢沢氏を継いだと考えられる矢沢頼綱
 真田幸隆の正室は真田家臣である河原氏の娘か、藤原隆正の妹とも言われている。正室の名前は不明。
 子に真田信綱真田昌輝真田昌幸真田信尹、金井高勝。3男だった真田昌幸の次男が真田幸村(真田信繁)と繋がる。

 1541年、甲斐を統一していた武田信虎は当時姻戚関係だった諏訪頼重村上義清らと小県郡へ侵攻。その際、真田氏は松尾城主・海野棟綱に従っていたが、望月・禰津が降服。関東管領上杉の援軍が遅れ、5月14日、真田氏は上州吾妻の羽根尾城主・羽尾幸全を頼り、真田幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住した。
 真田幸隆28歳、真田信綱は5歳の時だった。真田氏の生き残り戦略はこの時から始まったと言われる。
 この戦いのあと、甲斐・武田氏内部では、武田晴信(のちの武田信玄)が父・武田信虎を駿河に追放。
 同じ1541年7月4日には関東管領上杉憲政は小県郡を狙い碓氷峠を越えて侵入。その際、上杉氏重臣の長野業政の客将として、真田幸隆も参戦し佐久に入るが頼りの上杉勢は武田勢に敗北し、旧領回復もならず。
 1541年以降、望月氏・禰津氏などは武田に屈したようで、真田氏が武田家臣になった時期や経緯には諸説あるが、1543年~1544年頃に真田幸隆は武田晴信に臣従した模様。(諸説では1541年~1545年と幅があり、よくわかっていない。)
 数々の軍功によって武田晴信より、1545年には、旧領の松尾城(真田本城)、又は岩尾城に戻ったとされている。

 →真田の里の詳細はこちら

 また有名な「六紋銭」の旗印を武田晴信から与えられとも言われているが、旗印を家臣に与えるという風習はいつの時代でもあまり聞かない為、信憑性に欠け、旗印は真田幸隆自ら考案したものと考えられる。「六道」とは仏道でいうところの、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上であり、その「銭」とくれば、三途の川渡し銭だ。命を惜しまないと言う真田勢の旗印を見た敵兵は、さぞかし恐ろしかったことであろう。

 いずれにせよ、真田幸隆が従っていた海野氏などの諸族は、関東管領上杉氏に被官することにより周囲国から自分の領土を守ってきた訳であったが、旧領を追われ、しかも回復できないのは、関東管領上杉氏の救援が遅れたり、頼りにならないからだと、頭の良い真田幸隆は悟ったに違いない。しかし、理由はよくわかっていないが、武田により領地を追われたのに、その仇敵である武田に臣従した真田幸隆の判断には恐れ入る。

 戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル) 

 1546年頃から真田幸隆は武田軍の先鋒としても活躍するようになり、1546年5月、武田晴信が佐久内山城・大井貞清を攻めた際には、真田幸隆が大井貞清を助命したとされる。
 1545年川越城の戦いで、小田原・北条氏に大敗した関東管領上杉氏は、佐久の志賀城主・笠原清繁より救援要請があったことなどから対武田の出陣を決めるが、長野業政は笠原氏を助ける理由はないと猛反対。結局、猛将・長野業政抜きで関東管領上杉勢は出陣した。1546年10月、碓氷峠(笛吹峠)を超えつつあった上杉勢約2万を、武田勢の板垣信方らが攻撃。上杉勢の先鋒はくじ引きで決めた金井秀景だったが、混乱し敗走。2度目の攻撃では真田幸隆や武田本隊が加わって武田勢約7000になっていた為か、上杉勢は足並みが崩れて退却し、笠原氏救援どころか、以後、関東管領上杉氏は信濃での影響力を失った。この時、板垣信方の馬に矢が当たり、落馬し危うかった所を、真田幸隆が救ったと言われている。

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 このように真田幸隆は「信州先方衆」として、戦にて功績を上げるだけでなく、独自の忍者衆も使用して佐久・小県・北信濃の血縁者など在地土豪を説得し、武田晴信の信濃侵攻を大きく助けた。
 1548年の上田原の戦い(上田原合戦)にも従軍し、1550年の砥石城(戸石城)攻撃に際しては、事前に武田晴信より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(砥石崩れ)したが、上田原と砥石と2度の武田敗北でも真田幸隆は武田を見限ることなく、武田に尽くし、1551年、真田幸隆は独力だけで、しかも武田7000で攻めても落ちなかった砥石城をたった1日で確保。武田は小県周辺を得ることになり、真田幸隆は旧領を回復し、砥石城を預けられた。この時の功により、本領1600貫になる。更に、諏訪地方の一部や、砥石崩れでしんがりを勤め戦死した横田高松の遺跡・上条合など1000貫が加増された。

 「武田家の陰の軍師」「信玄の名参謀」とも呼ばれ、信濃衆(外様)でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。
 1553年には、武田氏への人質として3男・真田昌幸(7歳)を甲斐へ送ると、更に350貫加増。合計約3000貫(石高に換算すると約9000石か?)となる。人質に出されていた真田昌幸の才能は武田晴信の目にもとまり、真田昌幸は武田晴信の奥近習衆に加わり、以後武田勝頼と2代に渡り仕えることになる。
 真田一徳斎と称した晩年の真田幸隆は、真田の跡継ぎである長男・真田信綱と、次男・真田昌輝に真田勢をほぼ任せていたようで、三増峠の戦いなどでは、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸の3人の名が見られる。しかし、重要な局面では武田信玄の命で総大将として真田幸隆も出陣することもあった。

 

 1563年には武田信玄の命で、真田幸隆は3000吾妻へと派遣し、岩櫃城を攻撃。
 日向源藤斎、秋山十郎兵衛、雨宮尊転、西山十郎左衛門らに命じて斎藤憲広の家臣の調略を行い、岩櫃城を攻略すると、以後、吾妻の本拠地として岩櫃城周辺を整備している。

 1573年、武田信玄が病死すると真田幸隆は後を追うように1574年5月19日、砥石城で病死。享年62。
 智将で知られるが、真田幸隆の体には25箇所ほど傷があった話は余り知られておらず、戦場では武士として勇猛でもあった事が伺える。

真田忍者

 元は鷹匠の家だった禰津家が真田幸隆に仕えた。禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、真田家に仕えた忍者集団が情報収集、調略活動などにて大いに活躍したことが武田家における真田氏の立場を大きなものにした。禰津信政や望月六郎などがいる。
 真田忍者はのちに「真田十勇士」のモデルにもなっている。

 

真田氏の生き残り作戦

 真田幸隆の子、長男・真田信綱と、次男・真田昌輝は1575年の長篠の戦で戦死した。残った3男の真田昌幸が真田氏の家督を継いだ。
 臣従していた武田氏が滅亡した後は、滝川一益の与力となり、上田の本領は安堵された。しかし、武田を滅亡させた織田信長本能寺の変で亡くなると、その後、信濃・甲斐は周りの勢力に狙われる状態となるが、北条氏直徳川家康上杉景勝 と主君を変え、優れた智謀にて生き残った。
 しかし、徳川家康と北条氏直は、上田領を狙い1585年、鳥居元忠を総大将とした7000で真田昌幸の居城・上田城を攻め、同時に北条氏邦沼田城に侵攻した。その際、真田昌幸は2000の兵力であったが、徳川勢に3000もの死傷者を出させ、上田合戦(第1次上田城の戦い)では大勝を得た。
 名実ともに真田氏は信濃の小領主から大名化となり、真田昌幸の存在は豊臣系大名の間でも知られ、その後、豊臣秀吉に臣従する経緯となり、真田昌幸の次男・真田幸村と共に、関が原の戦いの際には豊臣側に協力した。

 一方、真田昌幸の長男で、真田幸村の兄にあたる真田信之は、真田昌幸が武田勝頼などに仕えていた際、人質として武田氏に出されていたが、真田氏が一度徳川と和睦した1589年以降は、父・真田昌幸や真田幸村とは、別の道を歩み、以後、徳川の家臣を離れることなく、父・弟と敵対関係となった。
 しかし、その結果、真田氏は滅亡することなく、関が原以降、真田信之は上田・沼田藩(約10万石)、その後1622年には松代藩に移封し13万石となり、幕末まで続くことになり、明治に入ってからは男爵家となっている。
 徳川へ一環とした忠誠と言う判断、そして父譲りの才気で混乱の戦国末期を乗り切り、家中の騒動を収め、その卓越した政治力と生命力で真田の名跡と血を残した真田信之は真田幸村同様評価できる。

 真田昌幸と真田幸村は、関が原以後、敗軍の将として死罪が下されていたが、真田信之が徳川家康に必死に嘆願し、二人は紀伊国九度山に配流を命じられるのみに留まったのも真田一族らしい卓越した交渉能力と言える。
 大坂冬の陣の後に、真田幸村が恐ろしくなった徳川家康は、真田幸村に信濃一国40万石を与え味方にしようとしたが、それがとても現実的な話でなく、何かウラがある誘い文句と見抜いたのか、最後まで豊臣に忠誠を尽くした真田幸村と言う人物は皆様ご承知のとおりである。

 →真田昌幸についてはこちら
 →真田幸村についてはこちら

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