村上武吉~瀬戸内海の村上水軍を率いた日本最大の海賊

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村上武吉とは

村上武吉(むらかみ-たけよし)は、1533年頃に能島村上水軍の頭領・村上義忠の子として生まれた。
母は平岡左近将監の娘と言う事しかわからない。
村上武吉の別名は、能島武吉、村上武慶、村上掃部頭武吉とも言う。
瀬戸内海には島々が多数あり、古くから海上交通が盛んであったことからも、村上水軍の歴史は古く、海賊行為を行った他、独自の海上交易も行っていた。
やがて、戦国時代となり近海で海上戦ともなれば、要請に応じて機動艦隊としても出撃し武勇を馳せた。
しかし、村上家も家督争いの結果、能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)の3家に分かれていた。
因島村上水軍は安芸の児玉家や小早川家に協力し、来島村上水軍は伊予の河野家に味方したが、村上武吉の野島村上水軍は中立の立場を取っている。


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父・村上義忠の後継を争った能島騒動では、村上義益(父の兄・村上義雅の子)と争い、緒戦で敗れた村上武吉は肥後まで落ち延びていた。
しかし、伯父にあたる笠岡城主・村上隆重が村上義益を破って、能島城に戻った村上武吉が能島村上家を継承。
敗北した村上義益は 来島へ落ちのびたあと病死している。

その後、来島・村上通康(来島通康)の娘を娶って和睦すると、能島・村上武吉が村上水軍全体の宗家となり、叔父・村上隆重と共に能島村上家の勢力拡大を行った。
なお、村上武吉は側室を置かず、妻は村上通康の長女だけであり、1553年に嫡男・村上元吉、1558年には次男・村上景親が誕生している。
ただし、継室は同・村上通康の次女とある。

能島城

村上武吉が当主となると、村上水軍(村上海賊)は航行する船を襲って抵抗すれば殺害してでも積荷をすべて奪うと言う野蛮な海賊行為を辞める代わりに、航行する商船などを他の海賊から守ると言う名目にて「帆別銭」(通行料)を徴収するようになる。
この帆別銭(たべつせん)は、航行している船の積み荷10%をもらう形であったようで、能島村上家の最盛期を築いた。
石高は約15万石と推定され、最大動員兵数は10000人である。

能島村上一族では、備中笠岡城主に村上隆重、備前児島本太城には嶋吉利、村上武満は周防上関に置き、瀬戸内の要衝を抑えた。

1551年、実質的な同盟関係にあった周防・大内義隆が、重臣である陶晴賢の謀反によって殺害され、大内家の当主が陶晴賢となる。
1554年には、陶晴賢の船が豊後・大友水軍を使用して、足利将軍家への献上品を積み瀬戸内海を東へと航行した際、能島村上家へ帆別銭を払わないと言う事件が起こる。
これに対して村上武吉は自ら出陣し、蒲刈沖にて蒲刈島と海上から陶晴賢の船舶を攻撃し、積み荷のすべてを没収するなどし、陶晴賢と完全に敵対することになった。

1555年、毛利元就が陶晴賢との決戦を挑んだ厳島の戦いでは「1日だけの味方して欲しい」との協力要請を受けたとされている。

村上水軍の軍議

しかし、これは江戸時代の講談での話であり、また、来島の村上通康(来島通康)へ毛利家が要請したものとなっている。
この厳島の戦いでの、村上武吉率いる能島水軍の動向は不明であり、確実に参加したとの確証があるのは因島村上水軍の村上吉充だけで、毛利家の水軍が主力であったとされている。

言える事は、以後は勝利した毛利家の周防・長門への侵攻や、関門海峡を海上封鎖などに協力し、塩飽諸島など他の水軍とも親しくなり、村上水軍は瀬戸内海で最大の水軍勢力となった。

村上水軍

1568年、大友宗麟より博多での南蛮貿易の利権と言う誘いを受けるも、因島村上家、来島村上家が小早川隆景に睨まれて同調しない中、1571年に毛利元就が死去すると村上武吉は大友宗麟に寝返った。
これに対して、小早川隆景が能島城攻めを行うと、来島水軍・因島水軍も小早川家に従ったため、孤立した能島・村上武吉は海流が激しく上陸が困難な本拠地・能島城にて籠城。
そして、三好家・安宅水軍や塩飽水軍に補給を要請した。
しかし、小早川隆景によって塩飽諸島を占領されて補給が受けられない中、1572年まで能島城を包囲・海上封鎖され孤立した。
こうして、小早川隆景の使者・乃美宗勝の降伏勧告を受け入れた村上武吉は、毛利家の家臣団に組み込まれ、毛利水軍として活躍して行く。

村上水軍

毛利輝元織田信長と衝突するようになると、村上水軍は小早川水軍・児島水軍・乃美水軍などと、織田勢の攻撃を受けている石山本願寺への兵糧運搬を行う。
1576年7月13日には、大阪湾の木津川河口にて第1次木津川口の戦いとなり、焙烙玉や雑賀衆の使用する焙烙火矢を駆使した毛利水軍が大勝利を挙げた。

この時、村上家から参戦している武将は、村上吉充(因島村上家当主)、村上元吉(能島村上家・村上武吉の嫡男)、村上景広(能島村上家、村上武吉の従兄弟)、村上武満(能島村上家)、村上吉継(来島村上家、来島村上家の家老であり河野家の奉行)と、嫡男・村上元吉が出陣したもの、村上武吉は参加していない。
九鬼嘉隆らの織田水軍は、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎の小畑氏、花隈の野口氏らが討死した。

しかし、織田信長が九鬼嘉隆・滝川一益に命じて「鉄船」6隻を建造すると、1578年11月の第2次木津川口の戦いでは、大筒・大鉄砲の前に、村上武吉が指揮した毛利水軍が惨敗を喫している。

やがて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中国攻めを開始すると、調略を受けた来島村上家・来島通総、村上通昌、得居通幸が織田家に寝返った。
村上武吉は来島村上家の来島砦を攻略したため、村上通総(来島通総)は、豊臣秀吉の元に逃げている。
その1582年頃、村上武吉は家督を子の村上元吉に譲ったようだ。

それも束の間、1582年、明智光秀による本能寺の変にて織田信長が横死し、豊臣秀吉と毛利輝元が和睦すると、村上水軍で早くから臣従した来島通総を重用し、豊臣秀吉は来島の返還を要求。
また、村上武吉は四国攻めにも参加しなかったことから、今度は豊臣家にすでに臣従していた毛利家の小早川隆景から攻撃を受ける。
こうして、村上武吉は本拠地・能島城を追われ、小早川家の所領である竹原(広島県竹原市)に強制移住させられ、鎮海山城を築いた。

鎮海山城

九州攻めのあと、1586年に小早川隆景が筑前(福岡)37万石となり、村上武吉も従った。

1588年、豊臣秀吉の海賊停止令に背いたと言う疑いを掛けられると、弁明の為に嫡男・村上元吉が上洛している。
豊臣秀吉が考える海賊行為と言うものは、航行する船から警護と言う名目で通行料を徴収するのも、海賊行為にあたると言う事であったのだ。

豊臣秀吉の朝鮮攻めでは、村上武吉は周防(山口)の日本海側の島へ移され、嫡男・村上元吉が毛利水軍の一員として参戦するも、朝鮮水軍に大敗を喫している。

小早川隆景が隠居すると、あとを継いだ小早川秀秋のもと、毛利家の家臣となり村上武吉は長門に移った。

1598年、豊臣秀吉の死の直前に豊臣姓を与えられた村上武吉は、毛利輝元の命により再び竹原・鎮海山城へと戻り4700石となった。

1600年、関ヶ原の戦いでは毛利家は西軍・石田三成に加担したため、村上元吉と弟・村上景親らは毛利勢に従い、伊勢湾沿岸、紀伊沿岸、阿波・徳島城を攻めた。
そして、加藤嘉明伊予・松前城を攻撃するも謀略にあい、佃十成の三津浜夜襲によって、1600年9月18日、村上元吉が討死してしまった。
家督は村上武吉の後見を受けた、村上元吉の嫡男・村上元武が継いでいる。

ただし、毛利家は防長2カ国へと減封されたため、能島村上家は再度竹原を離れ、村上水軍は壊滅。
村上武吉は周防大島に渡り、1601年、和田に住みついたと言う。


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ルイス・フロイスから「日本最大の海賊」と言われた村上武吉も1604年8月22日に死去。享年72歳。
現在の山口県大島郡周防大島町に館跡と共に墓所(村上武吉の墓)がある。
下記は、愛媛県の大島「村上水軍博物館」にある村上武吉の銅像。

村上武吉の銅像

以後、能島村上家は、毛利家の家臣として村上元吉、村上景親の2系統が三田尻で毛利の船手衆(船手方)を務め、村上水軍の伝統を残し、朝鮮通信使の警護などを担当した。

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