落馬事故死した3武将 名だたる名将・猛将や征夷大将軍

落馬事故死した3武将

 今まで戦国武将や合戦と経済関係についての記事を中心に記述させて頂きましたが、白状致しますと、どうやら自分のHNに違わぬように、鶏肋太郎、即ち「鶏の肋肉付きの薄さ」=「知識層の薄さ」が此処に至って顕れてしまいまして、現在は記事のネタ元を探している情けない現状におる次第でございます。
 名探偵「浅見光彦シリーズ」でお馴染みの偉大なミステリー作家であられた内田康夫先生が生前言っておられたと思うのですが、『続けて作品を2,3回執筆すると、今まで長年貯めていた知識全部を使い果たしてしまう』という意味合いのことを確か仰っていたのですが、現在の不祥な筆者からすれば、正に至言であるとつくづく実感するのでございます。
 上記のような現状であるから、今回はこれまでと趣向を変えさせて頂きまして、「与太話、閑話的」に文を綴ってゆきたいと思います。
 そこで今回は~与太話には物騒な話題ですが~『落馬事故死した武士たち』と銘打ち、その中でも特に3名を今回採り上げさせて頂きたいと思っています。2人は戦国期の名将、もう1人は日本史教科書ではお馴染みの人物でございます。


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 現在でも自転車や電動自転車(バイク)、そして乗用車など、所謂「鉄の馬」の交通事故などが頻繁に発生しており、これらは規模の大小を問わず発生すると、大事/災難であることには変わりなく、それらの禍が我が身や身近の人々に遭ってしまうと、肉体的および精神的(最悪の場合は生命的)に大きなダメージであります。
 自転車や乗用車が誕生する前の乗り物の一種として活躍した『馬(乗用馬)での様々な事故』も古今問わず一大事であり、その馬事故関係でも「落馬は最大最悪の事故」であり、気性が激しい牡馬の後肢で蹴られることも大事ですが、落馬はそれ以上に恐ろしいものであります。
乗用車のように上下左右を車体で人身を護られていることがない乗馬(疾駆している駆歩、或いはその上の襲歩)状態から落馬すると、生身を高い馬の背から落下し地面などに叩き付けられるのですから、その危険な状況を思うだけで、小心者の筆者如きは恐怖で身震いしてしまいます。生身の人間がスピードを出している乗り物から落ちるという意味では、現在のバイク事故に似ている点がございますが、バイク以上の背丈(体高)がある馬から落ちるということは、(勿論バイク事故も怖いですが)、やはり怖いものであります。
 現代でも有名外国人による落馬事故による報道があったことを筆者はよく覚えており、中でもアメリカンコミックのヒーローとしてお馴染みのスーパーマン(クラーク・ケント)役を演じた米国俳優のクリストファー・リーヴ氏が1995年に落馬事故により、脊椎損傷の大怪我を負い、首から下の全身麻痺に陥り(リーヴ氏は2005年に死去)、またアジア大会での入賞、ソウル五輪やアテネ五輪などで活躍した韓国出身の総合馬術名選手であったキム・ヒョンチル(金亨七)氏は、2006年にカタールの首都・ドーハで開催されたアジア競技大会の総合馬術の競技中に落馬、キム氏は横転した馬の下敷きとなって事故死するという悲惨な事になっております。
 上記のように、以前より馬術や馬の調教方法、そして医療が大きく発展している現代でおいても人間の生命に関る落馬事故は一大事であり、今日より遥か時間を遡る中世においても、不運ながら落馬事故で命を落とした人物はおり、おまけに乗馬(騎馬)状態で槍刀・弓矢で勇猛果敢に戦うという、現在風言えば究極の乗馬プロフェッショナル的存在である武士・大名、それらの長たる征夷大将軍にもいるのであります。
 その不幸な武将たちとは、畿内の戦国大名三好長慶の実弟にして三好家中随一の猛将と謳われた十河一存、通称:鬼十河』(1532~1561)、北関東に君臨し、当時の関東地方最大勢力・小田原北条氏と関東の覇権を争った源氏の流れを汲む名門戦国大名・佐竹氏18代目当主佐竹義重、通称:鬼佐竹・坂東太郎)』(1547~1612)。一存と義重、共に戦国史にその名を刻んだ智勇兼備の名将であることは皆様よくご存知だと思います。数多の大小の戦場で、甲冑姿で、疾駆する馬上で刀剣や采配を手に取って戦ってきた歴戦の名将たちでさえ、最期は落馬事故で絶命しているのであります。
 そして残りのもう1人は、歴史通の人達だけでなく、日本人なら誰でも知っている日本史上の重要人物の1人である源頼朝(1147~1199)であります。即ち武士団の棟梁・征夷大将軍、鎌倉幕府/武家政権の創始者であります。


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 今回は『十河一存』『佐竹義重』『源頼朝』という不幸にも落馬事故死してしまった人物の軽い紹介などを踏まえて記述してゆきたいと思います。余談でございますが、この記事を執筆させて頂くに当たって、例によってネットサーチ(所謂ググって)みたのですが、筆者が日頃から大変お世話になっていますネット百科事典・ウキペディアに、ご丁寧にも『落馬事故死した人物』という凄い名前のカテゴリがあり、そこには古今東西問わず落馬事故死してしまいました人物の一覧を閲覧することができ、一存・義重・頼朝の3名も勿論そこに含まれており、先述の韓国馬術選手のキム氏の項目もあります。このカテゴリの存在をご存知ない方で、ご興味のある方は閲覧して下さいませ。
 
『十河一存(1532~1561)』は、阿波国(徳島県)・讃岐国(香川県)を本拠し、一時期、京都を制した実力者・三好長慶(1522~1564、即ち「日本の副王」)の実弟にして、三好軍の中心を成した猛将であったことは前述の通りです。
 一存は兄・長慶に従い各地を転戦し、江口合戦(1549年)・中尾城の戦い(1550年)など三好氏が畿内進出するための重要合戦で大活躍。合戦中に左腕に戦傷を負ったにも拘らず、傷口に塩を塗って~想像するだけで激痛モノですが~勇猛果敢に戦い続けた一存を見て、人々は彼を「鬼十河/鬼十川」と畏敬の念を込めて称賛しました。
 一存の髷型、髪の生際を剃り上げ、額(月代)を広くするという形であったと言われ、その髷型は「十河額」と呼ばれ三好家中の武将たちは一存の武勇にあやかりたいという気持ちで十河額を真似る者が多く、また一存の武勇伝の凄さは、時代が下って徳川幕府が天下を掌中した江戸前期に、幕府直参旗本の次男三男(部屋住み)や、低禄の旗本御家人といった小普請役(無役)の武士たたちにも一存の武勇に憧れて「十河額」にする者たちが多くいたということであります。即ち現代風に言えば、江戸前期のメンズファッションの一部として持て囃された感じであります。
 十河額の本来の目的は、髪を剃り額を広くするということで一存は、兜を長い時間被っていても頭が蒸れるのを防いだと言われております。これが本当だとすると、一存は猪突猛進のみの乱暴者ではなく、リアリズム(合理的思考力)に富んだ名将だということが十河額を見てわかるのであります。
 幾多の激戦を制した名将・十河一存の死因は、(病死など諸説ありますが)、有力とされているのは落馬事故でした。1561年、軽い病を患った一存はその当時からも有名であった摂津・有馬温泉に湯治に出掛け、その折に有馬権現(湯泉神社)に葦毛の馬(白馬)に騎乗して詣でました。 
 その途中で、一存と同じく三好家中の有力者となっていた松永久秀と出くわし、一存が騎乗している葦毛馬を見た久秀が、「有馬権現様は葦毛の馬を嫌うので、お気を付けられよ」と一存に忠告した所、大の久秀嫌いの一存はそれを無視。それが祟ったのか、一存は落馬事故死してしまったと伝えられています。享年30歳。
 一存と久秀の遣り取りなどを含め上記の逸話を全て信じてしまうのは眉唾物ではありますが、歴戦の名将であるはずの一存が落馬事故死してしまったというのは如何にも体裁が悪いので、病気による急逝ということに死因がすり替えられた可能性も筆者は思えてならないのです。
 一存の急死は、総帥である長慶を含め三好氏に大きな動揺をもたらし、一存が死んだ翌年1562年には、長慶の弟(一存の次兄)にして三好氏の屋台骨であった三好義賢(実休の号で有名)が河内畠山氏との合戦・久米田の戦いで戦死。次いで1563年には長慶の唯一の嫡男であった義興が22歳で病死。
 一存を皮切りに三好氏の一門かつ重鎮を失った長慶は精神的に病んでしまい、唯一生き残っていた彼の実弟にして三好氏の重鎮であった安宅冬康を「謀反の兆しがある」という理由で誅殺(1564年)。そして同年には、長慶も病死してしまいます、享年42歳。
 長慶死後の三好氏は、一存の遺児で、長慶の養子となっていた義継が当主となりますが、松永久秀、三好三人衆と通称される三好長逸三好政康岩成友通など三好氏の有力家臣団などの台頭や家中分裂が原因となり、一時期ながらも京都を制し、天下人まで称された三好氏は衰退の一途を辿り、その間隙を突いて尾張・美濃を制した織田信長が1568年、大軍を率いて上洛を敢行。三好勢力は畿内から駆逐され、後年、義継は織田軍との戦いで敗死し、戦国大名・三好氏は滅亡してしまいます。
 三好氏の軍事を担っていた名将・十河一存の急死によって、坂を転げ落ちるように三好氏の没落が始まっていることは明白であり、その結果が信長の畿内進出、そして三好氏の滅亡となっています。一存の急死、即ち落馬事故死が三好氏の家運、そして日本史を変えた大きな事故であったのです。


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 戦国期の北関東、常陸国(茨城県)で活躍したのが「坂東太郎」「鬼佐竹」と称せられる『佐竹義重(1547~1612)』であります。義重は、常陸源氏の嫡流である名門戦国大名・佐竹氏の18代目当主であり、常陸国内の小田氏や常陸江戸氏などの勢力を降し、北関東での勢力基盤を着実に固め、外征面では、当時関東最大の勢力であった相模国(神奈川県)の小田原北条氏(北条氏康・氏政父子)の不俱戴天の仇として君臨し、関東地方の覇権を争いつつも、東北南部にも進出。同地の有力勢力である岩城氏や白河結城氏などを傘下に治めており、また黒川城(後の会津若松城)を本拠とした南奥州の有力戦国大名・蘆名氏に、義重の次男・義広を養子として送り込むことによって蘆名氏の実権を把握することにも成功。奥州制覇の野望に燃える奥州の名将・伊達政宗とも干戈を交えるなど、正しく縦横無尽の「鬼佐竹」こと佐竹義重の活躍によって北関東・東北南部に及ぶ広大な勢力を持った佐竹氏は最盛期を迎えることになります。
 因みに、小田原北条氏と並んで、義重の宿敵となる伊達政宗も1589年に落馬事故で左足を骨折するという大怪我し、米沢の小野川温泉で養生を余儀なくされています。
 古来より名馬の産地として畿内でも有名な奥州で生まれ育ち、騎馬鉄砲(竜騎兵)の導入、「馬上少年過ぐ」の詩歌、有名な青葉城の馬上像など、馬とは所縁が深かったであろう政宗でさえも、落馬事故で大怪我しているのですから、落馬はやはり大ごとであります。
 義重が、強力な小田原北条氏や奥州の伊達氏を相手にしつつも、北関東を中心に大勢力を築き上げることが可能であったのは、義重の実父である佐竹義昭(17代目当主)が、既に勢力伸長基盤を築いていたのを義重が引き継ぐことが出来た事や、義重の抜群の外交・軍事能力など様々な理由があるのですが、特にその中でも義重が優れていたのは、内政能力・経済政策であり、常陸領内の鉱山を開発に力を注ぎ、潤沢な軍資金を把握することに成功。この財源を元手として、大量の鉄砲を導入。一説には佐竹軍は関東最大の鉄砲隊を備えていたと言われ、この戦力が「鬼佐竹」の力の源泉となったのです。
 


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 一時期、佐竹氏は北の伊達政宗と南の北条氏直によって挟撃される苦しい状況に追い込まれますが、同時期に中央では豊臣秀吉が天下の覇権を確立しつつ時期にあり、義重、その嫡男で既に佐竹氏19代目当主となっていた佐竹義宣は、秀吉と誼を通じて緊密な関係を築き、1590年、秀吉が天下の大軍(一説には20万の軍勢)を率いて小田原北条氏征伐を敢行した際には、義重・義宣父子は秀吉に加勢。小田原北条氏を降した直後の奥州仕置にも従軍し、佐竹氏は豊臣政権下の有力大名(常陸54万石、岩城氏などの奥州の佐竹与力大名を加えると約80万石)として存続してゆくことになります。
 秀吉没後に勃発した徳川家康(東軍)と毛利輝元石田三成(西軍)の天下分け目の関ヶ原合戦(1600年)では、義重、および佐竹義久など佐竹一門衆や重臣の多くは家康の東軍に加勢することを主張、対して当主である義宣は個人的に三成と親しかった理由もあり、西軍に加担すること決めたので、関ヶ原時の佐竹氏は内部分裂によって活発な身動きが採れなくなり、義宣は曖昧な中立的な態度を決め込むことになり、結局、強豪・佐竹の大軍は大した動きも見せず、関ヶ原合戦は終わってしまいました。
 天下の覇権を握った家康は、決戦で曖昧な政治的態度に終始した佐竹氏を懲罰的な転封を命令。佐竹氏は先祖代々の常陸・北関東から遠く離れた日本海側の北国である仙北・秋田(20万石、内高40万石)に国替をさせられました。家康からしてみれば、自分の本拠地である江戸(南関東)の真上に、名将・義重期以来の強力な軍勢を擁している北関東の佐竹氏の存在が、この上なく嫌だったに違いなく、佐竹氏(厳密には義宣)が敵の西軍に加担してくれたことによって、体よく佐竹氏を根こそぎ北関東から秋田へ追い込むことが出来たのであります。
 既に隠居の身となっていた義重も佐竹氏の秋田転封に従い、自身は六郷城を居城として定め、六郷の城下町の町割、領内の一揆勢力の鎮圧など内政に力を注ぎましたが、1612年、狩猟中に落馬事故死しました。享年66歳。
 若年の頃に佐竹氏の家督相続して以降、持ち前の智勇と非凡な器量によって、数多の合戦で後北条や伊達などを相手に渡り合い、北関東・東北まで及ぶ勢力を築き上げた義重は、戦国期を彩った「北関東の麒麟/騏将(名馬)」偉人であったことは明白なのですが、その様な人物でも、落馬事故死してしまったです。
 
 『麒麟も老いれば、駄馬にも劣る』

 上記の格言は、中国古典の『戦国策』が出典となっていますが、義重ほどの名将が、晩年に狩猟中に落馬事故死してまった事を鑑みると、麒麟が老いてしまった上の一失、日本の諺で言い換えれば「弘法筆の誤り」という哀愁を感じてしまうのであります。
 最後に蛇足となってしまいますが、義重には、「敷布団を敷かずに薄い布を敷いて、いつも就寝していた」、「上杉謙信から贈られた太刀を、嫡男・義宣に与えた際、義宣がその名刀を削って脇差にしてしまい、義重が悲しんだ」等々、面白い逸話がありますが、その中でも筆者が面白いと思う義重関連の逸話(俗説)が、「義重が現代の秋田美人の礎を築いた人物」とされていることであります。
 前述のように、関ヶ原合戦後に、佐竹氏は先祖代々の本拠地・常陸から北の秋田に転封を徳川家康から命じられた際、それを快しとしない義重が腹癒せに、常陸国中の美女を根こそぎ掻き集めて、秋田に連れて行ったのが起因となり、その名残として現在でも秋田県出身の女性には美人が多い。というのが秋田美人のはじまりの一説となっているのであります。対して、国内中の美女を義重によって連れ去られた常陸国、つまり現在の茨城県には、総じて醜女が多い・・・。という愚にも付かぬ心にも無い俗論があったりします。茨城県の女性の皆様、上記の事は飽くまでも「俗説」でございます。


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 『源頼朝』(1147~1199)という日本人なら誰でも名前を知っている歴史上の超有名人も落馬事故が原因で死亡したと伝えられています。
 頼朝には兎角、異母弟である有名な天才武将・源義経源範頼を迫害追放した冷血無比の人物として創作世界などでは描かれがちですが、平安~鎌倉前期にかけて当時未開の地であった関東地方の各地に割拠する「開墾地主武装集団、つまり坂東武士団」の代表者として、それまでその坂東武士たちを経済的や精神的に虐げてきた畿内の既存勢力(京都の朝廷・有力寺社、更には平氏)に対抗するべく活躍した『本格的武家政権(鎌倉幕府)の創始者』という点では、日本史上類稀な偉大な武士政治家であったことは疑う余地はありません。
 頼朝が、それまで(畿内の人々から見れば)卑民、あるいは朝廷の番犬としてしか蔑視されていなかった武士団(開墾地主)の土地所有権(経済的)を補償し、更に地位向上(精神的に)にも腐心し武家政権の礎を築いたことにより、約700年にも及ぶ長大な武士中心の時代が到来するのであります。頼朝がいなければ、後世の各時代の武家政権のリーダーである足利尊氏、織田信長、徳川家康の活躍も随分違ったものになっていたのは間違いありません。

 『われわれ日本人が、頼朝の革命政権が確立したおかげで、ちょっと人間らしい生活をもつことができた。(中略)頼朝がやったことは、日本史上最大の革命かもしれません。頼朝こそ、律令社会の矛盾から当時の日本人を救ってくれた革命の恩人なんです。』

 上記は司馬遼太郎先生が、歴史随筆集『手堀り日本史』(集英文庫や文春文庫)の「義経という人気者」の文中に記述された一文でございます。既に形骸化していた律令制度(その一例が公地公民、朝廷中心制)に固執している朝廷や公家たちが関東の坂東武士たちに、各地に国衙/郡衙を設けて都から国司/郡司を派遣して強権的に支配していた悪体制を払い除け、関東に武士団共和国を築き上げたのが、源頼朝、そして彼を旗頭として奉戴した多くの関東武士団(開墾地主層)、即ち後の鎌倉御家人たちでありました。頼朝の正室にして尼将軍として有名な北条政子の実家「北条」をはじめ、「三浦」「和田」「比企」「畠山」「千葉」「上総」「土肥」「梶原」「新田」「足利」などの鎌倉期を代表する有力御家人たちは全員、関東の各地の未開の地を独自で切り拓いた開墾者(武士団)たちであったのです。
 伊豆で流人生活を送り、独自の財力や兵力を持たない頼朝にとって、前掲の三浦や和田など気性が激しく大規模な武士団たちを、棟梁として束ねてゆく苦労は並大抵のことではなかったことは間違いありませんが、頼朝は大過(大規模な離反など)無く武士団たちを統御し、朝廷(特に「日本一大天狗」と称せられた曲者・後白河法皇)と駆け引きを行いつつ、各国や各荘園に守護・地頭の設置を容認させ、関東地方に武家政権を一から樹立していった政治的手腕と統率力は素晴らしいものであります。正しく頼朝が自分の政治構想を著した『天下の草創』であります。
 頼朝・その妻・北条政子、政子の弟・北条義時を主軸に関東武士団の旗揚げを描いたNHK大河ドラマ『草燃える』(第17作)の原作者・永井路子先生は、頼朝の器量を『関東武士団の旗頭の役目を忠実にこなし、人事のバランス感覚に富んだ、組織の使い方が上手い人物』という意味合いで絶賛しておられます。永井先生が仰るような器量を持っていたからこそ頼朝は後世まで続く武家政権を築き上げることが出来たのであります。

 組織作り、人事の才知を有していた頼朝でありますが、1199年に落馬事故が原因で死去したことが、鎌倉幕府の公式記録書と目される『吾妻鏡』に記されております。同書では、相模川に架設された橋の落成式に出席した後の帰路で落馬したことを伝えていますが、他説では落馬寸前に頼朝は脳卒中を起こし、それで意識を失い落馬したというものあります。何れしても落馬してから17日後に頼朝は波乱に満ちた生涯終えています。享年53歳。
 頼朝亡き後の鎌倉武家政権の混迷はあまりにも有名であります。頼朝嫡男・源頼家(鎌倉幕府2代将軍)、四男・源実朝(同3代将軍)は、御家人たちの紛争が原因で非業の死を遂げ、源氏将軍の血脈は3代で途絶え、その前後にも比企・和田・畠山などの頼朝に従った有力御家人たちも紛争の中で滅亡。鎌倉幕府の実権は、執権職に就いた北条氏(得宗家)によって把握されてゆくことになり、1333年に足利尊氏や新田義貞によって滅ぼされるまで、その体制は続くことになります。
 頼朝死後の幕府内における大抗争を見て思うのは、頼朝生前は大規模な分裂や離反が起こらなかったのは、やはり頼朝の器量は並大抵な物ではなかったということがわかります。先述のように、己の弟である義経などを迫害した冷血漢としてのイメージが強いですが、それ以上に歴史を動かした頼朝の優れた器量に注目したいです。


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 如何でしたか?以上のように、閑話のように落馬事故死してしまった武将として「十河一存」「佐竹義重」「源頼朝」を少しではありますが紹介させて頂きました。では、一存たちのように騎馬のプロであるはずの武将たちが、落馬事故に遭ってしまった原因の1つとは何か?原因は様々あると思うのですが、やはり「馬」にその主因があったと筆者は思うのであります。という事で、次回の記事は「戦国期の軍馬」について紹介させて頂きたいと思います。
 (白状致しますと、今記事で馬の事についても記述させて頂くつもりでいましたが、3人の紹介で思った以上に長文となってしまったので、次回にさせて頂きます。失礼致しました)

(寄稿)鶏肋太郎

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