前田利長の生涯とは【加賀百万石を築き兼六園や北陸文化を残した名君】


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 前田利長(まえだ-としなが)は、織田信長の家臣・前田利家の長男として荒子城にて生まれた。幼名は犬千代。後に孫四郎、初名は前田利勝で後に前田利長と改めた。
 母は正室である高畠直吉の娘(篠原一計の娘)・まつ(芳春院)。

 1575年9月、父・前田利家が府中三人衆として越前府中に転封されると、前田利長も母・まつと共に移った。

 1576年に安土城が完成すると、15歳の前田利長も安土城下に居住。
 1578年、実弟の前田利政が誕生。
 1579年には天然痘を患ったが回復している。

 1581年8月、父・前田利家の能登転封に伴って、織田信長より父の旧領を与えられて越前・府中城主3万3000石となった。
 9月には、織田信長の4娘(5女?)・永姫(えいひめ)(7歳)と婚約し、12月になって前田利長(20歳)の正室へと迎えている。
 2人の仲は良好だったと言うが、嗣子は生まれなかった。そのため、織田信雄の娘2人、宇喜多秀家豪姫の娘など7人を養女として迎えた。

 1582年6月2日、永姫とともに卿へ上洛の途中、近江国瀬田(滋賀県大津市東部)にて明智光秀による本能寺の変の報を受け、当時8歳の永姫を前田の本領・尾張荒子の旧地へ逃した。
 その後、前田利長は織田信雄の軍に加わったともされるが、蒲生賢秀と一緒に日野城(中野城とも?)に籠城し、織田信長の夫人らを保護したとされる。

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 父と共に柴田勝家の与力となると、1583年2月、柴田勝家勢の先鋒として、近江柳ヶ瀬に出陣。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢と戦っている。
 1583年4月、賤ヶ岳の戦いでは、父と共に越前府中城に敗走。堀秀政の勧告を受けて羽柴秀吉に降伏した。
 すぐに、父・前田利家は、柴田勝家の本拠地・北ノ庄城を攻めている。
 この時、羽柴秀吉は、母・まつに対して、前田利長の出陣は無用としたが、まつはそれを断り、前田利長をわずか2騎の供回りで、北ノ庄城攻めに加えさせたと伝わる。
 こうして、羽柴秀吉より松任40000石を与えられている。

 1584年9月、能登末森城の戦いでは、僅かな兵力にて佐々成政の軍勢を破ると言う軍功をあげている。

 1585年4月、父に従って加賀鳥越城を攻撃すると、8月には羽柴秀吉による越中の佐々成政征伐となった。
 越中・守山城に転封すると、佐々成政旧領である越中三郡(砺波・射水・婦負)32万石を拝領した。
 また、閏8月には、古国府(高岡市)の勝興寺に制札を与えていることが伺える。
 9月になると、羽柴姓を賜り羽柴肥前守を称した。
 11月、従五位下肥前守に叙任。
 また、この年、妹の摩阿姫が豊臣秀吉の側室になっている。

 1586年6月、伊勢大神宮に越中の田120俵を寄進している。また、従四位下侍従に叙任となり、12月には豊臣姓を賜った。
 そして、1586年末に父・前田利家より能登一国を与えらた。

 1587年、豊臣秀吉の九州征伐に従軍。
 4月1日、秋月種長の家臣・熊井越中が籠城する豊前巌石城(岩石城)を、蒲生氏郷と一緒に攻撃し、1日で陥落させる活躍を見せた。

 1588年2月、千利休の茶会に、家臣・中川光重と共に招かれている。
 7月には、方広寺・大仏殿の普請に、父と合計で1万人を負担した。

 1589年、名を前田利長に改名。

 1590年2月、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、父・前田利家が北国軍の総大将となり、前田利長・前田慶次郎ら前田勢は18000にて出陣。
 途中、上杉景勝真田昌幸真田信之真田信繁(真田幸村)らの軍勢と合流し、4月20日上野松井田城、6月14日武蔵鉢形城、6月23日八王子城と次々に攻略した。
 7月5日、小田原城北条氏直北条氏政が降伏。

 1592年、文禄の役では父・前田利家が肥前名護屋城に在陣し、前田利長は国許に残って尾山城を修築し、金沢城と改めたとされる。

 1593年9月、実弟・前田利政が豊臣秀吉より、能登21万石を与えられた。
 10月には、前田利長の邸宅にて茶会を開き、徳川家康を招いている。
 11月、異母弟・前田利常が誕生(母は側室の千代保)。のちの加賀藩第2代藩主である。

 父・前田利家は豊臣家の五大老として、豊臣秀頼の傅役を務めたが、1598年になると、豊臣秀吉共々も衰えを見せ始めた。
 3月15日、醍醐の花見にて、摩阿姫(加賀殿)と母・まつが杯を受けたあと、4月20日、前田利長が前田家26万7000石の家督を継いだ。従三位権中納言にも叙任されている。
 1598年8月18日、豊臣秀吉が大阪城にて死去した約7か月後の1599年閏3月3日に父・前田利家が死去した。母のまつは出家し、芳春院と号した。

 しかし、その翌日に五奉行の石田三成が襲撃されるなど、派閥抗争が始まり、前田家は対徳川の急先鋒的立場となった。

 父の死去により、五大老の座に就任した前田利長は、大阪城にて豊臣秀頼を補佐したが、8月になって徳川家康の勧めを受けると、父の「3年間は金沢へ帰るな」と言う遺言に背いて金沢城へ帰国。
 その直後の9月、前田利長や浅野長政らが徳川家康を暗殺しようとしていると、増田長盛ら徳川家に密告し、加賀征伐の噂が流れた。
 そのため、重臣・横山長知らを3度弁明に派遣するも、疑いが晴れず亡き父より豊臣家を守るように言われていた前田利長は、交戦も辞さない覚悟であった。
 しかし、、母・芳春院(まつ)が、自ら人質となって江戸城に下向することと、養嗣子・前田利常と徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)の婚約を締結し、交戦が回避される。
 こうして、母・芳春院(まつ)は以後14年間、江戸城にて人質生活を送った。
 12月、前田利長は権中納言を辞して、客人として迎えていた高山右近の協力により、金沢城の総構え工事を開始。

 1600年、徳川家康が大軍を率いて、会津攻めに向かうと、前田利長は、前田利政と共に25000にて山口宗永の親子が籠る大聖寺城を攻略。
 北ノ庄城の青木一矩らも降伏させると越前を平定した。
 しかし、敦賀城主・大谷吉継が、金沢城を攻めるとの虚報が届き、軍を返すがその帰路では、8月8日に小松城主・丹羽長重(丹羽長秀の長男)に背後を襲われ、堀内景広が討死した浅井畷の戦いとなっている。
 その後、弟・前田利政が出陣に応じないなどあったが、徳川家康の催促により9月11日、再び西上すると、9月18日、丹羽長重に前田利常を人質に出して和議を結んだ。

 9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかったが、近江大津で徳川家康に拝謁。
 丹羽長重と前田利政の所領は没収された。前田利政はその後、京都の嵯峨に隠棲し余生を送っている。

 こうして、前田利長(39歳)は、前田利政の能登・七尾城22万5000石、小松領12万石、大聖寺領6万3000石が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせた合計122万5千石となる外様最大の藩「加賀100万石」となり、父の偉業を越えた。
 また、島津義弘などを頼って薩摩へ逃れた宇喜多秀家の助命を嘆願して実現させた他、1602年には宇喜多家の家臣であった本多正信の次男・本多政重に3万石にて召し抱えている。
 ちなみに、宇喜多秀家は八丈島へ配流となっている。

 大坪助左衛門の娘・石姫との間に生まれた、前田利長の唯一の子とされる長女:満姫(まんひめ)が1605年に生まれたが、1611年2月21日に亡くなっている。(以前は乳児のうちに亡くなったとされていた。)

 徳川家康が江戸幕府を開いたあと、1605年4月8日、京都にて養嗣子・前田利常と共に徳川家康に拝謁して、前田利常が元服。
 4月16日には、徳川家康も将軍職を徳川秀忠に譲り、6月28日には前田利長(44歳)も家督を前田利常(12歳)に譲って、富山城に隠居し、幼い前田利常を後見した。
 なお、1609年に富山城が焼失したため、魚津城に一時移ったあと、高岡城を築城し居城としている。

 しかし、1610年3月の記録では、梅毒による腫れ物(又は悪性の癌)が悪化して病に倒れたため、政治からも離れて静養し、翌年には遺言も定めている。

 1613年、大阪城の淀殿・豊臣秀頼が派遣した織田頼長が、大阪方へ協力するように説得するも、前田利長は拒否した。
 1614年、病ますます重くなったため、京都での隠棲を江戸幕府に願い出たが許されず「我死なば、即ち天下自(おのづか)ら統一して太平ならん」と言い残し、加賀百万石の礎を事実上築き、そして守った前田利長は1614年5月20日、高岡城にて死去した。(服毒自殺したとの説もあり)享年53。

 6月になると母・芳春院が人質を解かれて、代わりは前田利常の生母・寿福院が江戸に赴いている。

 また、前田利長が亡くなったあと、正室・永姫は金沢に戻って剃髪し玉泉院と号したが、その後、1623年2月24日に50歳で死去した。

 1614年10月には、大阪冬の陣が勃発し、第2代藩主の前田利常は20000を率いて徳川方として活躍した。

 ちなみに、大塚冬の陣の前である1614年7月17日には、大坂城にいた織田信包(織田信長の弟)が吐血して急死しているが、織田信包にも毒殺疑惑があり、同様に前田利長も毒殺されたのではと言う説もある。

父・前田利家に関してはこちら
前田慶次郎に関してはこちら
蒲生氏郷~2人の天下人から厚く信頼され戦国の世を駆けぬけた希有の智将
豪姫とは~流罪になった夫へ仕送りを続けた前田家と豊臣家の姫
高野山・奥の院にある前田利長と永姫の供養碑

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