長宗我部元親~5分で分かる長曾我部元親


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 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、四国を平定した土佐の戦国大名で1539年生まれ。
 岡豊城主(おこうじょう)・長宗我部国親(約14000石)の嫡男で、母は美濃・斎藤利長の娘(祥鳳玄陽)。

 1560年5月16日、22歳のとき遅い初陣となったが、長浜の戦い出陣。その槍の名手として勇猛果敢な活躍を見せ、武名が広まったが、その僅か1ヶ月後、6月15日に父が急死。
 長宗我部元親が家督を継いだ。

 この頃の土佐は、一条家を筆頭に、津野家、大平家、吉良家、本山家、安芸家、香宗我部家が勢力を争っており、長宗我部元親は農民や地侍などを半農半兵・一領具足(いちりょうぐそく)としてもちいて戦力を増強し、勢力拡大を図った。

 1563年、美濃・斎藤利三の娘を正室に迎え、1563年頃に吉良家が滅ぶと、長弟・長宗我部親貞に継がせて吉良親貞と改名させている。

 大平権頭(大平国興)は、1566年に一条兼定と本山茂辰の挟撃を受けて戸波村積善寺にて自刃すると、のちに吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って戸波城も落とした。

 中村城(中村御所)の一条兼定の協力を得て、1568年に本山茂辰を降伏させると、1569年7月には安芸城主・安芸国虎を攻略し、実弟の香宗我部親泰を安芸城に入れた。

 また津野勝興は、家臣に促されて、長宗我部元親に臣従。津野勝興の養子として3男・長宗我部親忠を送り込み、津野親忠として当主に据えた。

 1574年には土佐国中村の一条兼定を豊後国へ追放。

 1575年、大友宗麟の後援を受けて旧領回復を目指し、九州から戻った一条兼定が伊予宇和島で挙兵。
 長宗我部元親は短時間で兵を派遣。僅か3日後には一条兼定3500を四万十川の戦いで撃破。
 小さな領主に過ぎなかった長宗我部元親は36歳のとき、土佐国98000石を完全に統一した。

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四国統一へ

 土佐統一後は、斎藤利三の娘との親戚関係から、勢力を拡大していた織田信長と同盟を結び、伊予・阿波・讃岐へ侵攻して行った。

 十河存保や三好康長らによる抵抗や、1576年、吉良親貞の早世などもあって当初は進まなかったが、1577年に三好長治が討死すると三好家は衰退。
 1578年2月には、阿波の白地城を攻めて大西覚養を討った。
 また、讃岐へ侵攻すると1581年、香川之景(香川信景)との和睦条件として、2男・長宗我部親和を養子として送り込み、香川親和(香川五郎次郎)と名乗らせた。

 阿波では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊の激しい抵抗を受けたが、1579年夏に重清城を奪って十河勢に大勝し、三好康俊を岩倉城に追い詰めると嫡子・三好利忠を人質にとり降伏させた。
 こうして、1580年には阿波・讃岐をほぼ制圧。

 伊予では久武親信が1579年春の岡本城攻めで土居清良に討ち取られたりしたが、金子元宅・妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。
 伊予守護・河野通直は、毛利家は小早川隆景などの支援を受けて、長宗我部家に対抗した。

 これら急な勢力拡大に織田信長は不快感を示し、1580年、長宗我部元親に対して臣従を迫り、土佐・阿波半国のみの領有へと追いやろうとするしたが、当然拒否。
 その為、織田家と敵対関係となり、1581年3月には織田家の援助を受けた三好康長・十河存保らの反攻を受け、降伏していた三好康長が寝返っている。

 1582年5月には、神戸信孝(織田信孝)を総大将とした、織田勢の四国攻めが準備され、長宗我部元親は危機に陥いる。
 そなような状況下で、三好家旧臣は三好康長に寝返るなどし、阿波の一宮城と夷山城を奪われた為、長宗我部元親は明智光秀の家臣・斎藤利三宛の書状で、織田家に恭順する意向を示している。
 四国攻撃軍は6月2日に大阪から渡る予定であったが、この日に明智光秀による本能寺の変が勃発。
 織田信長と織田信忠が横死した為、織田勢の四国攻めは中止された。

四国統一と豊臣秀吉との対立

 織田家が混乱している間に、長宗我部元親は宿敵・十河存保を1582年8月、中富川の戦いで破ると阿波の大半を支配下に置き。9月には勝端城の十河存保に勝利して阿波を完全に平定した。

 十河存保は豊臣秀吉を頼った為、長宗我部元親は柴田勝家を支援するも、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れてのち滅び、豊臣秀吉は四国攻めを準備した。

 豊臣秀吉と織田信雄徳川家康が対立して、1584年、小牧・長久手の戦いとなった際には、徳川勢に協力し、豊臣勢の仙石秀久小西行長が高松などに侵攻するのを撃退。
 1584年6月11日には、ついに十河城を攻略して讃岐を平定。十河存保と十河存之は長宗我部元親に降伏すると、屋島から堺へ落ち延び豊臣秀吉を頼った。

 伊予は相変わらず河野通直が毛利家の小早川隆景から援軍を得たため、手間取ったが、次第に毛利勢が劣勢になり、1584年12月、河野通直が降伏。
 1585年春までにには、伊予の残りの豪族なども降伏させ、47歳のとき、四国全土をほぼ統一した。

 しかし、紀州征伐を行った豊臣秀吉は長宗我部家に対して伊予・讃岐の返納を要求。
 伊予だけを割譲することで豊臣家と和睦する事を模索したが、羽柴秀長を総大将とする10万の大軍が四国に派遣された。

 豊臣勢は宇喜多秀家らが讃岐、小早川隆景・吉川元長ら毛利勢が伊予、羽柴秀長・羽柴秀次らが阿波へ3方面から侵攻した為、相次いで城を奪われ、家臣・谷忠澄の言を受け入れて、長宗我部元親は1585年7月25日に降伏。人質に差し出す津野親忠と共に上洛すると豊臣秀吉に謁見し、臣従を誓った。
 その結果、阿波・讃岐・伊予を没収されたが、なんとか土佐一国は安堵されている。

晩年

 1586年、豊臣秀吉の九州征伐に嫡男・長宗我部信親とともに従軍すると、黒田官兵衛蜂須賀家政、小早川隆景、吉川元長、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋らと大友宗麟を支援して、島津義久らを撃退。
 しかし、四国勢の軍監・仙石秀久の独断により戸次川の戦いとなると、壊滅状態となり、十河存保が討死し仙石秀久は逃走。嫡男・長宗我部信親も 島津勢・新納忠元隊の軍奉行・鈴木大膳に討ち取られた。享年22。
 この時、長宗我部元親は信親の死を知って自殺しようとしたが、家臣に諌められて伊予の日振島に落ち伸びている。
 長宗我部家を背負って立つ若い人材も多くが戦死し、以後、長宗我部家は家臣の争いが起こるようになった。

 1588年、本拠地を大高坂城へ移転。 その後に起こった家督継承問題では、次男・香川親和や三男・津野親忠ではなく、四男の長宗我部盛親に家督を譲ることに決定した。
 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興・吉良親実などを粛清している。

 1590年、小田原攻めでは長宗我部水軍を率いて九鬼義隆らに合流。下田城を攻めたあと小田原城を海上から包囲した。

 1591年1月、浦戸湾に迷い込んだ体長約10mの鯨を、数十隻の船団と100人余の人夫を使い、大坂城内へ丸ごと持ち込んだ為、豊臣秀吉や大坂町人を大いに驚かせている。

 1591年末には本拠を浦戸城へ移転。

 1592年から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍した。

 1596年、サン=フェリペ号事件に対処し、豊臣秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。
 この頃領内で太閤検地を行い、1597年3月、長宗我部盛親と共に分国法である「長宗我部元親百箇条」を制定している。

 1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。伏見屋敷にて11月26日に徳川家康の訪問を受けたが土佐に帰国した。

 1599年3月、出奔しようとした三男・津野親忠を幽閉。
 その直後から、長宗我部元親は体調を崩し、4月、病気療養のために上洛して伏見屋敷に滞在。
 4月23日には豊臣秀頼に謁見したが、5月に入ると重くなり、死期を悟った長宗我部元親は5月10日、長宗我部盛親に遺言を残し5月19日死去。享年61。

 高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派高福山雪蹊寺に葬られ、家督は長宗我部盛親が継いだ。

長宗我部盛親はこちら
立石正賀~武勇名高い長宗我部氏の重臣
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コメント

    • 田村伊三
    • 2016年 3月 18日

    面白かったです。

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 18日

    田村伊三さま、ご覧頂きまして、誠にありがとうございました。御礼申し上げます。

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