1分でわかる「関ヶ原の戦い」~わかりやすい関ヶ原合戦


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関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦。
学生諸君は、日本史のテストに出るので、1600年と切が良い数字を覚えておこう。

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。

先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。

濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られた。
 
西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず、戦闘したいたのは30000程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。
しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略していた。
下記写真は小早川秀秋が本陣を置いた松尾山からの展望です。

このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守る。
そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けた。
「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。
そして、調略を受けていた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。
このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。
こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000~8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、徳川家康勢の大勝利となったのである。

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ここからは1分以上の追記です。
よければ、引き続きご覧頂けますと幸いです。

東軍の主な武将

徳川家康30000、本多忠勝500、井伊直政3600、松平忠吉3000、黒田長政5400、細川忠興5100、加藤嘉明3000、筒井定次2850、田中吉政3000、福島正則6000、古田重勝1020、織田有楽斎450、金森長近1140、生駒一正1830、藤堂高虎2490、京極高知3000、寺沢広高2400

戦いに参加しなかった東軍武将は有馬豊氏900、山内一豊2058、浅野幸長6510、池田輝政4560

※写真はクリックして拡大写真でご覧願います。

西軍の主な武将

石田三成4820、島左近1000、蒲生郷舎1000、島津義弘1658(島津豊久858を含む)、小西行長6000、宇喜多秀家17220、大谷吉継600、大谷吉勝3500、木下頼継、戸田重政1500、平塚為広

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った武将は、小早川秀秋15675、脇坂安治990、朽木元綱600、小川祐忠2100、赤座直保600、吉川広家3000

戦いに参加しなかった西軍武将は毛利秀元16000、安国寺恵瓊1800、長束正家1500、長宗我部盛親6660

この戦いで勝利した徳川家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」とも言われる。

戦国時代の歴史年号暗記・覚え方

1467年「応仁の乱」
応仁の乱(おうにんのらん)の覚え方は
人よ、むなしい(1467)しい、応仁の乱」

1543年「鉄砲伝来」
以後、予算は(1543)は鉄砲に。

1549年「キリスト教伝来」
以後よく(1549)広まるキリスト教

1582年「本能寺の変
以後バツ(1582)になった明智光秀(あけちみつひで)の本能寺の変

1600年「関ヶ原の戦い」
関ヶ原の戦いは語呂合わせなどでなく、スパッと1600と覚えてしまいまいましょう。

関ヶ原の戦いうんちく

関ヶ原合戦は、関ヶ原は東西合わせて約16万人と、動員された兵力が「戦国時代最大」と思われがちですが、もっとたくさんの兵が送られた合戦は他にもあります。
例えば、1590年、豊臣秀吉小田原攻めでは、豊臣勢は20万人、北条勢は小田原城に籠城した人数だけで6万人、合わせて26万人が動員されました。
1614年の大坂の冬の陣では20万対10万です。

戦死した人数において、関ヶ原では両軍合わせて8000とも、30000とも言われ諸説ありよくわかっていません。
ただし、例えば島原の乱では一揆軍37000名が殺害され、幕府軍も3000程度の戦死者がいますので、島原の乱の方が死者数は多かった可能性があります。

関ヶ原の戦いは、徳川家康が天下を取る為に非常に重要なポイントとなった大きな合戦です。
動員兵力・戦死者においても、その規模が大きいのは間違いありません。
しかし、最大の合戦であったとは言えませんので、ご確認申し上げます。

ちなみに、関ヶ原の頃の鉄砲の数ですが、世界の70%の鉄砲が日本にあったとも言われています。
すなわち、軍事力的に、この頃の日本は世界で1番だったとも言えるでしょう。

あなたならどうする?「関ヶ原の戦い」で徳川家康を討つ方法

下記は「あなたが西軍武将ならどうする?「関ヶ原の戦い」にて徳川家康を討ち取る方法?」のページにて募集させて頂いているものを掲載させて頂いております。

毛利秀元として

宇喜多隊や石田隊が激しい戦いを繰り広げているすきに、南宮山を登って一気に家康本陣へ突撃する?

以上、M,Kさまより

大谷吉継として

小早川秀秋が裏切るとは、分かっているので宇喜多秀家の手勢を分けて、秀秋の監視する。そこから、大谷吉継と宇喜多秀家で井伊直政福島正則を撃破し、また、石田三成と小西行長で黒田長政細川忠興を撃破。
少し離れるが、南宮山にいる毛利、安国寺、盛親は、毛利が動かない可能性があるので安国寺と、盛親だけで、山の上から、大筒を山内に入れ込む。また、池田を姫路以上の領国を約束して、調略裏切させる。池田は、山内に大筒を打ち込んだタイミングで裏切させる。しかし、池田をまだ動かさず、山内が池田に避難来たところで山内撃破。そこで小早川、毛利も、動かざるを得ないので、家康を囲んで一気に撃破する。そして、家康を討ち取ると、なおよいだろう。また、小早川秀秋がそれでも裏切ったら、小早川秀秋が攻めるであろう、人の旗印に豊臣の旗を掲げ小早川秀秋をビビらせる。それでもう、小早川秀秋が裏切ることがなく、家康を撃破することが、できると思う。
よい策では、ないけれど、書かせていただいたのは、良かったです。
賞金はいらない
そんなメール送られたら、迷惑メールだと思うので、、、

以上、大坂の陣真田幸村さまより

毛利輝元として

まず、西軍総大将、毛利輝元が出陣すること。輝元本体3万の軍勢が、三星一文字の旗印、旗指物の前に、太閤桐、千成瓢箪を掲げ関ヶ原に現れれば、西軍、東軍に関係なく、関ヶ原全体に大きな動揺とどよめきが起きる。
もちろん、秀頼はいてもいなくてもよい。
要は、敵味方関係なく、インパクトを与える事が目的。
東軍諸将、特に秀吉子飼いの諸将には精神的動揺がある(秀頼公が出陣してくるとは・・・)し、西軍にとっては、思いがけない嬉しい出来事に歓声があがり、裏切り、不戦、日和見の諸将にも迷いが生じる。そうなれば締めたもの。
結果、西軍がますます一気呵成に東軍を押し込む。吉継麾下の裏切り4将も目の前の東軍に突撃。
事ここに至っては、小早川勢も遅れをとるなと一気に山を下り、東軍の横っ腹へ突撃。
これを見て遅れまじと、秀元隊が家康本陣へ向け山を下る。広家も腹を決め追随。
恵瓊、さらに長宗我部隊も続く。
袋の鼠となった西軍は浮き足だち右往左往。我先にと敗走するも周りを敵に囲まれては万事休す。

以上、デスラーさんより

長曾我部として
長曾我部だったら別に毛利傘下ではないから吉川無視して家康の後方を脅かす
あるいは地図上大きく迂回して福島に横やりを入れる。
そうすれば宇喜多と互角だった手前、福島は総崩れ、仮に小早川が裏切ったあとでも長曾我部が福島を攻撃してれば小早川は大谷軍にしばらく苦戦してたから
勝機が来るかも、少なくともその日のうちに決着せずに長期戦になる
吉川が長曾我部を監視できなかったことで家康は吉川の忠義を疑うから
いっそのこと吉川は毛利を勝たせようと頑張るかもしれない。
裏切った小早川はそのまま東軍に鞍替えするだろうが大きな影響はないだろう。

以上、ひろんさまより

宇喜多秀家として
作戦内容: 真ん中に陣を張り前方から攻めてくる敵の軍勢を鉄砲隊と槍隊で迎え撃つ。

以上、和歩さまより

安国寺恵瓊として
吉川勢が降りられないなら。自分が先陣を切ります。安国寺恵瓊が降りたら吉川は約束を破った事になり。毛利も敵としてみなされます。
浅野勢が安国寺勢と対して。吉川勢と毛利勢にも被弾すれば毛利は降りざるえない。
毛利が戦えば小早川も裏切ない。
西が有利となると長宗我部、長束正家も関ヶ原中央に来ます。これが理想と思われます。

以上、君の名はさまより

立花宗茂として
大津城にさっさと火をつけて関ケ原にくる!

以上、亀太郎さまより

毛利秀元として
弁当食べてる吉川広家を
「この裏切り者がー!ズバッ!」
と切り捨て
「この者は内府に内通しておったので成敗いたした!吉川勢はこれより我の指示に従えーさもなくばっ」
ズラッと構える鉄砲隊

っと強引に吉川勢を従えて安国寺、長束、長宗我部と共に家康背後を強襲、後は天命に任せる

以上「ようき」さまより

宇喜多秀家として
まず関ヶ原の戦い前に宇喜多家は騒動により主力な家臣が離れ低下しています。
戦い前ではありますが宇喜多騒動を事前に食い止める事ができれば福島隊を敗退させる事も可能になるやもしれません。

島津隊を動かせるか否かで小早川秀秋の判断と情勢は変わるのではないかと。
少数ながらに島津隊は東軍の包囲を突破した集団なので良い活躍が期待できます。
その活躍ぶりに東軍を押し返し、それにより小早川隊は裏切らない可能性と自ら動き出すかもしれないと考えています。

因みに島津隊が動かなかった理由は、
開戦前に島津義弘の提案した奇襲を却下したためと言われており、それを採用して奇襲すれば関ヶ原の戦い本戦をせずとも東軍を打ち破れる可能性があります。

開戦前が大事ですね
以上、影武者さまより。

大谷吉継として
まず裏切り四部隊(脇坂・朽木・小川・赤座)を動かないという(西軍として戦わない)理由で攻撃開始。(先手必勝作戦)
小早川だけだったら史実で二度三度押し返してるので待機して裏切ったらそのまま攻撃開始。(待機・待ち伏せ作戦)
松葉浩弘さまより。

・・・・・として
まず島津や小早川、脇坂などから人質をとり、裏切らないようにしてから、徳川家康に通じさせ、味方になると、騙し、家康には戦場で裏切ると嘘をつき、安心させて、戦場で裏切ったと見せかけ、大谷部隊に攻められていると見せかけ、全軍反転し、家康本陣めがけて、突撃。
追記(最初に忍には、暗殺をお願いする)
(吉川にも、人質をとり、家康には戦いに参加しないと言って、後ろから突撃 ) 
以上、シリウスさまより。

大谷吉継として
大谷・平塚隊を石田本隊にくっつけ赤座・小川・脇坂隊を小早川隊が寝返る前に裏切りの汚名をきせる。
以上、ゆっくりさまより。

石田三成として
小早川の家老の平岡に事前に小早川が裏切らないように確実に約束させること。しかし、裏切ぎる可能性があることから、三成の最も信頼する大谷吉継に小早川陣営を監視させておくことが大事である。今回の敗戦は小早川の裏切りとそれに追従した武将がいたために起こったことから、やはり小早川を抑えておくことが必要である。
以上、佐藤裕之さまより。

長曾我部盛親として
戦いは、前衛に集中しており、前衛陣(石田・宇喜多・大谷・小西陣営VS黒田・福島・細川・伊井陣営)ががっぷり四つ、小早川が「日和見体制」でいる事は予想済み。
家康の背後で構える「毛利」がどう動くか。結果は「全然動かなかった事」にあります。長曾我部盛親が祖父譲りの「四国の雄」であれば、毛利に何等の仕掛け
を行った筈。(当時まだ名ばかりの領主で洗滌の実態が理解できなかったのは
無理もないが、大阪冬の陣ではあれだけの武威を行った人)
安国寺恵瓊と図って、「毛利勢」を戦場に押し出し家康の背後をつく事をやらせてみたいと考えます。
以上、宮下房義さまより。

石田三成として「史実の内応を知り得ない」前提で下記を述べます。
①宇喜多秀家隊を核として、大谷吉継隊、小西行長隊、石田三成隊を天満山麓ま で後退させる
②天満山を拠点とし、上記4隊を以て魚鱗陣を形成する(以降天満山4軍とまとめて呼称)
③小早川秀秋隊は、上記魚鱗陣に対して包囲する形で攻撃を仕掛けるであろう黒田、細川、井伊、福島隊に対して、側面攻撃を行わせるべく、伝令を遣わす。
④頃合いを見て、前線と徳川隊の位置関係を把握するため、物見を遣わす。
⑤長宗我部盛親隊を中山道方面に移動させる。ただし中山道には入らせない且つ敵部隊に接近させ過ぎないように留める。
⑥安国寺恵瓊隊は、南宮山西方へ侵攻させる。が、前線の中山道までは進出しないように距離を取らせる。
⑦徳川隊、山内隊、池田隊の動きを物見させる。
⑧安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊の背後を突く形で行進させる。
⑨安国寺恵瓊を行進させる中で、長宗我部盛親隊を池田、山内隊に突撃させる。
全力で中山道に進出させ徳川隊の背後に迫らせる。ここで徳川隊を前線に押し出す事が目標。
⑩安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊方面から反転させ、徳川隊に突撃させる。この動きに対して天満山から、黒田、細川、井伊、福島隊のいずれかが(または全てが)反転して、徳川隊の支援に向かえば天満山4軍にて背後から魚鱗のまま突撃させる。もし動かなければ、安国寺恵瓊隊の情勢により、天満山4軍は突撃か防御かを決める。
※当方は、小早川秀秋は元々、松尾山に布陣しているので距離的な関係から、天満山の魚鱗に加えるのは難しいと判断しています。
そこで遊撃隊としてお願いをする事になったのですが、果たして彼は、その任に
対してどう応えるのかがポイントだと思います。
※2徳川家康を後方から突いて、前線に押し出そうとしていますが、上手くゆくかは分かりません(笑
以上、武藤某さまより。

※他の皆様の投稿内容は順次公開させて頂きます。
※ご投稿は「あなたが西軍武将ならどうする?「関ヶ原の戦い」にて徳川家康を討ち取る方法?」よりお願い申し上げます。

「大谷吉継」関ヶ原の戦いでも石田三成に加勢
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コメント

    • 知子
    • 2015年 11月 07日

    はじめまして。最近入会致しました。埼玉県在住です。
    よろしくお願いします!

    • 高田哲也
    • 2015年 11月 08日

    この度は、戦国武将研究会への会員ご登録、誠にありがとうございます。
    お気軽に色々とコメントなどお寄せ頂けますと幸いです。
    どうぞ、よろしくお願い申し上げます。(^-^)

    • けん
    • 2016年 1月 10日

    はじめまして。今日登録しました。よろしくお願いいたします。

    • 高田哲也
    • 2016年 1月 10日

    けんさま、ありがとうございます。
    こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます。(^-^)

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