1分でわかる「関ヶ原の戦い」~わかりやすい関ヶ原合戦

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦。
学生諸君は、日本史のテストに出るので、1600年と切が良い数字を覚えておこう。

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。

先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。

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濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られた。
 
西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず、戦闘したいたのは30000程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。
しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略していた。
下記写真は小早川秀秋が本陣を置いた松尾山からの展望です。

松尾山からの眺め

このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守る。
そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けた。
「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。
そして、調略を受けていた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。
このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。
こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000~8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、徳川家康勢の大勝利となったのである。


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ここからは1分以上の追記です。
よければ、引き続きご覧頂けますと幸いです。

東軍の主な武将

徳川家康30000、本多忠勝500、井伊直政3600、松平忠吉3000、黒田長政5400、細川忠興5100、加藤嘉明3000、筒井定次2850、田中吉政3000、福島正則6000、古田重勝1020、織田有楽斎450、金森長近1140、生駒一正1830、藤堂高虎2490、京極高知3000、寺沢広高2400

戦いに参加しなかった東軍武将は有馬豊氏900、山内一豊2058、浅野幸長6510、池田輝政4560

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西軍の主な武将

石田三成4820、島左近1000、蒲生郷舎1000、島津義弘1658(島津豊久858を含む)、小西行長6000、宇喜多秀家17220、大谷吉継600、大谷吉勝3500、木下頼継、戸田重政1500、平塚為広

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った武将は、小早川秀秋15675、脇坂安治990、朽木元綱600、小川祐忠2100、赤座直保600、吉川広家3000

戦いに参加しなかった西軍武将は毛利秀元16000、安国寺恵瓊1800、長束正家1500、長宗我部盛親6660

この戦いで勝利した徳川家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」とも言われる。


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戦国時代の歴史年号暗記・覚え方

1467年「応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)の覚え方は
人よ、むなしい(1467)しい、応仁の乱」

1543年「鉄砲伝来」
以後、予算は(1543)は鉄砲に。

1549年「キリスト教伝来」
以後よく(1549)広まるキリスト教

1582年「本能寺の変
以後バツ(1582)になった明智光秀(あけちみつひで)の本能寺の変

1600年「関ヶ原の戦い」
関ヶ原の戦いは語呂合わせなどでなく、スパッと1600と覚えてしまいまいましょう。

関ヶ原合戦うんちく

関ヶ原合戦は、関ヶ原は東西合わせて約16万人と、動員された兵力が「戦国時代最大」と思われがちですが、もっとたくさんの兵が送られた合戦は他にもあります。
例えば、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、豊臣勢は20万人、北条勢は小田原城に籠城した人数だけで6万人、合わせて26万人が動員されました。
1614年の大坂の冬の陣では20万対10万です。

戦死した人数において、関ヶ原では両軍合わせて8000とも、30000とも言われ諸説ありよくわかっていません。
ただし、例えば島原の乱では一揆軍37000名が殺害され、幕府軍も3000程度の戦死者がいますので、島原の乱の方が死者数は多かった可能性があります。


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関ヶ原の戦いは、徳川家康が天下を取る為に非常に重要なポイントとなった大きな合戦です。
動員兵力・戦死者においても、その規模が大きいのは間違いありません。
しかし、最大の合戦であったとは言えませんので、ご確認申し上げます。

ちなみに、関ヶ原の頃の鉄砲の数ですが、世界の70%の鉄砲が日本にあったとも言われています。
すなわち、軍事力的に、この頃の日本は世界で1番だったとも言えるでしょう。

あなたならどうする?「関ヶ原の戦い」で徳川家康を討つ方法

下記は「あなたが西軍武将ならどうする?「関ヶ原の戦い」にて徳川家康を討ち取る方法?」のページにて募集させて頂いているものを掲載させて頂いております。

立花宗茂

関ヶ原に参陣して中央突破

ふーさまより

石田三成

西軍の武将と仲良くして小早川秀秋に裏切られないようにする

しゅう118さまより

長宗我部盛親

事前に安国寺恵瓊に山を降りて家康を討ち取れば戦は終わり毛利の戦功はかなりのものになるという話をしておそらく東軍についているであろう毛利秀元らにこの話を安国寺恵瓊から耳に入れさせ開戦と同時に毛利勢を煽りながら南宮山を駆け下り桃配山にいる徳川家康を急襲する。賭けだが毛利がくれば家康の討死少なくとも敗走は免れない

けーしさまより

毛利秀元

東軍に内応し南宮山から全く動かない吉川に内通していると問い詰め、あくまで言い訳する吉川にしびれを切らし吉川を斬る
長宗我部・安国寺・長束勢と共に池田輝政・浅野幸長・山内一豊・有馬則頼・有馬豊氏・蜂須賀至鎮らに強襲を仕掛ける

名無しさまより

小早川秀秋

裏切らない!
広家と勝って毛利の家を大きくしようという約束をして、戦う。

ゆーきくんさまより


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長曾我部盛親

毛利秀元を見ずに、自ら動く。長曾我部隊の目前には、池田輝政隊が陣取っているが、盛親が後の大坂の陣のような采配を見せれば、難なく破れるだろう。その後、山内一豊隊に攻撃を仕掛ける。毛利秀元も、ここまで来ると、さすがに参戦を決意するだろう。
毛利隊、長曾我部隊(以下南宮山隊という)は家康本隊の後方の部隊を蹴散らし、家康隊に迫る。
その頃には、福島、黒田らの部隊の雑兵は背後の家康の部隊が、攻められていることにより、逃げ惑う。
石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは瞬く間に家康のもとに迫る………………………
家康もそこまで‥‥‥………………

井下frさまより

石田三成

関ヶ原の戦いで実際に戦った武将は、
・石田三成
・大谷吉継
・宇喜田秀家
一方裏切った武将は、
・小早川秀秋
・脇坂安治
・他、多数
ですから、石田三成・大谷吉継・宇喜田秀家で裏切る軍隊を囲むように布陣し、裏切った時には協力して挟み撃ちにします。
そして、すばやく馬防柵を組み立て、かつて織田信長が使用した「三段うち」を実現します。
私が考えた作戦は、以上です。

石川里奈さまより

宇喜多秀家

開戦直後に宇喜多兵を4つに分けて、後方の山をとおり、4つが合流したときに家康本陣を襲う。宇喜多兵は西軍最多の兵の数だからできるはず。(毛利らは出陣しない)

トトオさまより

石田三成

小早川にあらかじめ東軍につくように内通する小早川は家康の軍の近くに布陣する。あと東軍が不利になると家康の軍を攻撃するように言う。 「適当にかてば褒美を出すと言う」 西軍の西側の軍は東軍の軍を各個撃破 「1つの軍ずつ倒す」宇喜多秀家が身代わりになる。「前にでる」\ そしてここで小早川が裏切る一気に家康はピンチになる、さらに長宗我部・吉川・毛利・長束・安国寺が、家康本陣に突撃?石田三成らも総攻撃   西軍の大勝利!!     もし負けそうになったら、長谷堂城で戦いをしている伊達政宗最上義光「東軍側」に石田三成が勝ったという嘘の書状を送るすると伊達政宗や最上義光は撤退するので上杉影勝は江戸の街を攻撃、幕府はたちまち滅び石田三成が天下統一をして幕府を作る

しまずさまより

石田三成

家康の陣お取り囲む、家康に鉄炮お打つ

石田三成さまより

平塚為広

平塚為広が、裏切るはずの、松尾山の、武将達を殺し、軍を、奪って同じく南宮山の軍も、奪い、徳川本隊を、叩き、最後は、平塚為広が、徳川家康を一騎討ちで、討ち取って、勝ち。

モリアーティ教授さまより


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吉川広家

まず、この吉川広家さえ裏切らなければまだ勝敗はわからなかったわけだから、この武将を選んだ。そして、小早川秀秋が東軍に裏切らないように、石田三成、大谷吉継らに小早川秀秋用の大砲を用意してもらって、一度でも小早川秀秋が西軍につくかはたまた東軍につくか迷ったら、即大砲を大谷吉継の陣から小早川秀秋の陣に撃ち込み、西軍につかせたところで、福島正則、藤堂高虎ら東軍に突っ込ませ、そこを後ろから大谷吉継らに援護させ、即座に戦を西軍圧倒的有利にさせ、焦った徳川家康はおそらくその東軍を助けに小早川秀秋を倒しに行こうとするから、そこの裏を書き、吉川広家が左右両側から家康を攻撃し、さらに後ろから、毛利秀元、長宗我部盛親らに攻めさせ一気に家康の首をとる。そして、戦が終わった仕上げに徳川秀忠の首を取りに行く。伊達政宗を利用し、徳川秀忠の首を討ち取ったら東北にもともと100万石与えるという約束を150万石にまでひきあげる。といい、政宗に秀忠と戦わせ、両方疲れ切ったところをもともと西軍だった上杉景勝に攻め込ませ、秀忠の首を取り、そのあとに、石田三成ら関ヶ原で戦った武将たちも到着し、伊達政宗も討ち取り、豊臣の天下を奪おうとする徳川、伊達2つの家を討ち滅ぼしたところで、西軍の完全勝利。

塚田千葉守俊之助さまより


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上杉景勝

江戸炎上作戦
10名規模の精鋭を10部隊程編成し、全員農民/商人に変装させ、東軍が上杉征伐に出発する前後に江戸市中・近郊に潜入させる。
光成挙兵の報を聞いた東軍が反転西上した後に、潜入舞台がゲリラ戦を展開し江戸市中を放火・炎上させる。
家康の性格から、東軍の3割(家康本隊中心)程度は江戸付近に残留させる可能性が高いし、進軍速度にも影響するはず。
東軍も所詮は寄り合い所帯の混成軍。
中心部隊の家康軍の躊躇する様を見れば、士気がガタ落ちになること必定です。
反対に、団結力の乏しい西軍には、迎え撃つ時間的余裕と味方を引き締め(裏切り対策)ることもできる。
この潜入ゲリラ作戦は上杉景勝が最適任。

近藤哲夫さまより

吉川広家

裏切らなければ、吉川が動くことで、信頼をよせている秀元が動き、家臣の安国寺も動き、毛利の動きをみた長曾我部も山を駆け上がり家康の背後を突けば、他の裏切ろうとした大名も西軍につき家康の首を楽楽とかきとれたとおもいます。

吹雪士郎さまより

毛利秀元

毛利秀元隊が山内一豊隊を破り退路を防ぎ徳川家康隊を前後から挟む作戦

無名の隊長さまより

毛利秀元

南宮山の吉川勢を説得し、長曾我部、長束、安国寺勢と共に後ろから徳川家康本陣を襲撃

豆腐ハンバーグさまより

中西康高

まず、関東から出発して、三手に分かれ、一つは関ケ原へ、もう一つは上杉と合流し、もう一つは佐竹と真田と合流する。関ケ原へ着いた時は、様子を見て二つの軍は合流する。関ケ原の方は島津の撤退戦で焦っている徳川軍に奇襲攻撃をする。そして、再び合流し、家康を討ち取る。

中西公大さまより

大谷吉継

作戦内容: 毛利輝元を説得して、豊臣秀頼を連れて松尾山の背後に布陣させて小早川が裏切ったら毛利輝元を動かさせて大谷隊と挟んで脇坂隊たちに西軍が有利になっているように見せれば他の隊たちも動いて勝って家康を江戸まで追い込む

ヨッシーーーーーさまより

吉川広家

普通に家康の背後に突っ込む

山井祐樹さまより

毛利輝元

作戦内容: 豊臣秀頼をかつぎ、小早川秀秋のいる松尾山城に小早川秀秋を追い出して入る。そして、吉川秀家などの毛利軍にも参戦させる

utさまより


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毛利秀元として

西方面の西軍が東軍に総攻撃、南東の毛利秀元以外の西軍が攻撃を仕掛け、戦っている間に毛利秀元隊が徳川家康隊を襲撃

チトユーさまより

小早川秀秋として

あらかじめ大砲を用意して徳川本陣に狙いを定め、攻撃する。その後松尾山から東軍に攻めかかる。秀頼から借りた豊臣家の旗を立て大義名分を得る。東海の大名を降伏させて、関東の佐竹、会津の上杉や北陸の前田を取り込み、江戸総攻め。石田三成に兵たんを担当させ、大阪の毛利輝元に援軍を依頼する。代わりに宇喜多を大阪詰めとする。降伏した福島、浅野、細川、黒田、藤堂、池田の兵力を先鋒、大津から立花、関東の佐竹、相馬、岩城勢、鍋島勢や大阪の毛利勢を中軸、小西や島津や大谷、小早川自軍を後詰めとして十万の兵力で江戸を囲み兵糧攻めで家康を討つ。

hinomaruさまより

宇喜多秀家として

偃月の陣
別働隊2000で山内軍に奇襲。その後大谷軍を200歩前進させて鶴翼の陣を展開させる。
そして小西軍を蜂矢の陣細川と井伊を攻撃して小競り合いをしてから百歩後退。鶴翼の陣に変えてから槍部隊で迎え討つ時間を稼いで銃撃かーらーのー、先ほどの別動隊と挟み討ち??敵軍が崩れたところを宇喜多本軍が蜂矢の陣で家康の軍に突撃。そして背後から吉川と安国寺が家康を攻撃。池田は長宗我部が抑える。そうしたうちに毛利輝元大坂城から出陣。

諸葛亮孔明さまより

徳川家康として

バカバカしい西軍贔屓。三成がアホすぎるから西軍が負けただけ。歴史は変わらない。

桃配山さまより

毛利秀元として

作戦内容: 南宮山の吉川広家隊を兵力差で壊滅させて長曾我部や長束隊と共に背後から家康本陣を攻め込み前線にいる石田や宇喜多などと挟撃して東軍を叩き潰す

橋さんさまより


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石田三成として

大垣城をまずはでない。

前哨戦

噂では大垣に攻略隊を残し京や大阪に攻めいるなどと言っているが冷静に考えればそれはない。
何故なら、、、、、

京は攻めやすく守りにく所。
こんなところ攻めたら大垣城の攻略隊を撃破した西軍に囲まれる。
最悪袋の鼠。

野戦がうまい家康はこんな下手をうつわけがない。

大阪はもっとヤバい。
何せ豊臣のお膝元。
豊臣には刃を向けないから家康軍に加わっているものも多い。
こんなところ攻めたら福島などは領地へ帰りかねない。
更に此処まできたらさすがに毛利軍3万が出陣する。

天下の堅城に毛利軍3万。
対するは疲労困憊、混乱の徳川軍。

どちらが優位に戦を終わらせられるか。
言うまでもない。

更に大垣攻略隊を撃破した西軍4万よって
挟み撃ちになる。余程下手を打たなければ
勝てる。

秀忠には大津攻略隊と大垣城守備隊の半分の2万5000を向かわせればいい。

でも野戦がうまい家康はこんな下手をうつわけがない。

冷静に考えればどちらもあり得ないこと。

おおかた我らをこの大垣城から出させることを
目論んでいるのであろう。

ここは大津城攻略隊を待ってから出陣しよう。

この間に徳川軍の食糧を焼き払ってしまおう。

さすればさらに士気は下がることは必須!

要は大垣から出ずに大津攻略隊を待ってから出陣すればよいのです。
食糧が焼き払われたら徳川軍は撤退せざるを得ないでしょう。

戦いになったら。以上を踏まえ
関ヶ原に史実どうりには展開することになれば、、、

大谷吉継と島津義久を松尾山に展開させる
もしも小早川が裏切るようなことがあれば困るから。

大津攻略隊は前衛にをおく。
毛利秀包は毛利元就の息子で吉川広家も
下手には逆らえない。

故に秀包殿が秀秋殿が動かず俺を殺す気か!と激昂されておる。とでも言えば彼はビビって大軍を動かす。史実では若干西軍の有利だったのに更に1万6000が横から攻撃を、前からは精鋭の立花、毛利軍が攻撃を仕掛ければ東軍は崩れ去る。
家康は逃げるだろう。
終了。

エピローグ 三成の懺悔。

今まで戦ってきて傷ついてきたのは清正や正則であり俺は刀傷一つおってない。
更にこの戦いでわかったことだが人は必ずしも己の予想どうりには動いてくれないのだ。
その事を考えずに俺は馬鹿正直に戦功を
秀吉様に報告してしまって、、、、
結果家康に付け入る隙を与えてしまった。
この戦の根本的な原因は俺だな。
あいつらに謝ったら引退しよう。

こうして三成は引退し豊臣は再び一枚岩になったとさ。

真田源太郎榛幸さまより


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石田三成として

自分がもし、石田三成だったら。
鶴翼の陣をひいているのはよいが、小早川が裏切るのは不味いので
(理由1小早川が左翼を担っているため、裏切られたら西軍が袋の鼠。)
(理由2一万を超える小早川に対抗出来る部隊がいない。宇喜多は前線を抑える為無理。)
親友の大谷吉継を小早川本陣のすぐ近くに展開させる。
これで裏切りを抑止するとともに圧力をかけやすくする。
戦が始まったら両軍とも互角の戦いをするから
二時間ほど待つ。
二時間ほどすると流石に福島軍も疲れてくるから、此処を狙って
小早川軍7千に攻撃を開始させる。
福島軍は疲れている所を挟み撃ちにされて逃げ出す。
すると宇喜多が対福島のために展開させていた部隊を他に回すことができ、
西軍は有利になる。
(小早川が東軍に攻撃を開始した時点で徳川と吉川の約束がパーになる。
どうせ裏切りがバレるなら少しでも手柄をたてようと池田や山内等に
攻撃を開始するはず。別に攻撃を開始しなくてもいい。)
小早川、大谷軍 計1万3000が戦闘中の東軍の横から攻撃を開始し
東軍の前線は崩壊する。
ここらで小早川の前に展開していた 裏切り4人トリオも加わるはず。
すると小早川軍は1万5000以上の大軍になる。
東軍戦線はどの武将も多くて3500前後。
只でさえ福島勢が崩れて宇喜多勢に余裕ができ西軍の式が上がっているのに
そこに横から1万5000以上の大軍が来たら
細川も井伊も藤堂も崩れ去る。
前線が崩壊した徳川軍は総崩れになる。
家康も経験上戦わずに撤退を始める。
終戦。

怨☆穏さまより


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吉川広家として

まず南宮山配置部隊を毛利秀元隊などと襲い、それを殲滅する。その後、後ろから家康を襲って討ち、それによって動揺した東軍を石田三成と挟み撃ちし、殲滅する。

征夷大将軍さまより

大谷吉継として

まず、陣形を丸にして、

以上、倒幕志士さまより

小早川秀秋として

家康に裏切ったと見せかけ、敵本陣の隙をつき攻め立てる

以上、 yuーさまより

石田三成として

私が三成なら、まずは関ヶ原に参陣する武将の選定から、変える。まず、関ヶ原で、伊勢方面を指揮していたの、立花宗茂と小早川秀秋の配置替えである。元々伊勢方面は、対したことはなく、小早川勢一軍で充分である。秀秋はまだ19で若く家中もひとつにまとまらない状態である。秀秋には、年齢が若く、経験も浅いので楽な方がと、理由つけて言いくるめ、実際には、軍監に福原長尭をつければ安心、立花勢は、勇猛果敢、天満山陣を引かせ、松尾山には、宇喜多勢を、先陣に立花勢を、次に南宮山の長曽我部勢と大津城攻めの毛利秀包の配置替えである。大津城攻めこそ城兵少なく、どうでもいいので、長曽我部で充分である。毛利秀包は、勇猛果敢で21万石の大名なので、兵数に変わりなく、いい状態である。秀包は、毛利元就の息子で、南宮山の大将毛利秀元の叔父で、吉川広家の叔父にも当たるのである。毛利氏が負け敗因は、長老の死で、世代交代が進まなかったせいである。秀包を南宮山の先陣、もしくは、秀包の陣に置いとくと、南宮山の兵は、スムーズに家康本陣に進軍するであろう。吉川も逆らえない。総括、関ヶ原は陣営は完璧、兵で負けたのではなく、人の人選で負けたのである。

以上、朝霞源氏さまより

石田三成として

関が原への布陣をしない。
家康が佐和山城に向かったら、後を追いかけて大津城攻略部隊と挟み撃ちにする。
動かなければ、毛利輝元を大坂から出陣させる。

以上、MKさまより

大谷吉継として

吉継がいざという時のために温存していた精鋭兵を小早川秀秋がまだ若いからといって秀秋の陣に送り込み、秀秋を討ち取らせる

以上、氏家卜全さまより

宇喜多として

12000ほどの別働隊をじゅんかいさせて家康の後ろ抑えれば勝ち

以上、ーさまより


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織田信成として

回り込んで後ろから隠れて倒す

以上、ブタ こうすけさまより

毛利秀元として

宇喜多隊や石田隊が激しい戦いを繰り広げているすきに、南宮山を登って一気に家康本陣へ突撃する?

以上、M,Kさまより

大谷吉継として

小早川秀秋が裏切るとは、分かっているので宇喜多秀家の手勢を分けて、秀秋の監視する。そこから、大谷吉継と宇喜多秀家で井伊直政福島正則を撃破し、また、石田三成と小西行長で黒田長政細川忠興を撃破。
少し離れるが、南宮山にいる毛利、安国寺、盛親は、毛利が動かない可能性があるので安国寺と、盛親だけで、山の上から、大筒を山内に入れ込む。また、池田を姫路以上の領国を約束して、調略裏切させる。池田は、山内に大筒を打ち込んだタイミングで裏切させる。しかし、池田をまだ動かさず、山内が池田に避難来たところで山内撃破。そこで小早川、毛利も、動かざるを得ないので、家康を囲んで一気に撃破する。そして、家康を討ち取ると、なおよいだろう。また、小早川秀秋がそれでも裏切ったら、小早川秀秋が攻めるであろう、人の旗印に豊臣の旗を掲げ小早川秀秋をビビらせる。それでもう、小早川秀秋が裏切ることがなく、家康を撃破することが、できると思う。
よい策では、ないけれど、書かせていただいたのは、良かったです。
賞金はいらない
そんなメール送られたら、迷惑メールだと思うので、、、

以上、大坂の陣真田幸村さまより

複数として

吉川広家として・・吉川広家になって、毛利秀元、長曽我部盛親と一緒に徳川本陣を急襲する
小早川秀秋として・・徳川軍に銃撃されても、裏切らずに徳川を攻める。そうすれば、脇坂、小川、赤座、朽木も裏切らなかった。
島津義弘として・・島津義弘になって本気で戦う

以上、中2さまより

毛利輝元として

まず、西軍総大将、毛利輝元が出陣すること。輝元本体3万の軍勢が、三星一文字の旗印、旗指物の前に、太閤桐、千成瓢箪を掲げ関ヶ原に現れれば、西軍、東軍に関係なく、関ヶ原全体に大きな動揺とどよめきが起きる。
もちろん、秀頼はいてもいなくてもよい。
要は、敵味方関係なく、インパクトを与える事が目的。
東軍諸将、特に秀吉子飼いの諸将には精神的動揺がある(秀頼公が出陣してくるとは・・・)し、西軍にとっては、思いがけない嬉しい出来事に歓声があがり、裏切り、不戦、日和見の諸将にも迷いが生じる。そうなれば締めたもの。
結果、西軍がますます一気呵成に東軍を押し込む。吉継麾下の裏切り4将も目の前の東軍に突撃。
事ここに至っては、小早川勢も遅れをとるなと一気に山を下り、東軍の横っ腹へ突撃。
これを見て遅れまじと、秀元隊が家康本陣へ向け山を下る。広家も腹を決め追随。
恵瓊、さらに長宗我部隊も続く。
袋の鼠となった西軍は浮き足だち右往左往。我先にと敗走するも周りを敵に囲まれては万事休す。

以上、デスラーさまより

長曾我部として
長曾我部だったら別に毛利傘下ではないから吉川無視して家康の後方を脅かす
あるいは地図上大きく迂回して福島に横やりを入れる。
そうすれば宇喜多と互角だった手前、福島は総崩れ、仮に小早川が裏切ったあとでも長曾我部が福島を攻撃してれば小早川は大谷軍にしばらく苦戦してたから
勝機が来るかも、少なくともその日のうちに決着せずに長期戦になる
吉川が長曾我部を監視できなかったことで家康は吉川の忠義を疑うから
いっそのこと吉川は毛利を勝たせようと頑張るかもしれない。
裏切った小早川はそのまま東軍に鞍替えするだろうが大きな影響はないだろう。

以上、ひろんさまより

宇喜多秀家として
作戦内容: 真ん中に陣を張り前方から攻めてくる敵の軍勢を鉄砲隊と槍隊で迎え撃つ。

以上、和歩さまより


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安国寺恵瓊として
吉川勢が降りられないなら。自分が先陣を切ります。安国寺恵瓊が降りたら吉川は約束を破った事になり。毛利も敵としてみなされます。
浅野勢が安国寺勢と対して。吉川勢と毛利勢にも被弾すれば毛利は降りざるえない。
毛利が戦えば小早川も裏切ない。
西が有利となると長宗我部、長束正家も関ヶ原中央に来ます。これが理想と思われます。

以上、君の名はさまより

立花宗茂として
大津城にさっさと火をつけて関ケ原にくる!

以上、亀太郎さまより

毛利秀元として
弁当食べてる吉川広家を
「この裏切り者がー!ズバッ!」
と切り捨て
「この者は内府に内通しておったので成敗いたした!吉川勢はこれより我の指示に従えーさもなくばっ」
ズラッと構える鉄砲隊

っと強引に吉川勢を従えて安国寺、長束、長宗我部と共に家康背後を強襲、後は天命に任せる

以上「ようき」さまより

宇喜多秀家として
まず関ヶ原の戦い前に宇喜多家は騒動により主力な家臣が離れ低下しています。
戦い前ではありますが宇喜多騒動を事前に食い止める事ができれば福島隊を敗退させる事も可能になるやもしれません。

島津隊を動かせるか否かで小早川秀秋の判断と情勢は変わるのではないかと。
少数ながらに島津隊は東軍の包囲を突破した集団なので良い活躍が期待できます。
その活躍ぶりに東軍を押し返し、それにより小早川隊は裏切らない可能性と自ら動き出すかもしれないと考えています。

因みに島津隊が動かなかった理由は、
開戦前に島津義弘の提案した奇襲を却下したためと言われており、それを採用して奇襲すれば関ヶ原の戦い本戦をせずとも東軍を打ち破れる可能性があります。

開戦前が大事ですね
以上、影武者さまより。

大谷吉継として
まず裏切り四部隊(脇坂・朽木・小川・赤座)を動かないという(西軍として戦わない)理由で攻撃開始。(先手必勝作戦)
小早川だけだったら史実で二度三度押し返してるので待機して裏切ったらそのまま攻撃開始。(待機・待ち伏せ作戦)
松葉浩弘さまより。

・・・・・として
まず島津や小早川、脇坂などから人質をとり、裏切らないようにしてから、徳川家康に通じさせ、味方になると、騙し、家康には戦場で裏切ると嘘をつき、安心させて、戦場で裏切ったと見せかけ、大谷部隊に攻められていると見せかけ、全軍反転し、家康本陣めがけて、突撃。
追記(最初に忍には、暗殺をお願いする)
(吉川にも、人質をとり、家康には戦いに参加しないと言って、後ろから突撃 ) 
以上、シリウスさまより。

大谷吉継として
大谷・平塚隊を石田本隊にくっつけ赤座・小川・脇坂隊を小早川隊が寝返る前に裏切りの汚名をきせる。
以上、ゆっくりさまより。

石田三成として
小早川の家老の平岡に事前に小早川が裏切らないように確実に約束させること。しかし、裏切ぎる可能性があることから、三成の最も信頼する大谷吉継に小早川陣営を監視させておくことが大事である。今回の敗戦は小早川の裏切りとそれに追従した武将がいたために起こったことから、やはり小早川を抑えておくことが必要である。
以上、佐藤裕之さまより。

長曾我部盛親として
戦いは、前衛に集中しており、前衛陣(石田・宇喜多・大谷・小西陣営VS黒田・福島・細川・伊井陣営)ががっぷり四つ、小早川が「日和見体制」でいる事は予想済み。
家康の背後で構える「毛利」がどう動くか。結果は「全然動かなかった事」にあります。長曾我部盛親が祖父譲りの「四国の雄」であれば、毛利に何等の仕掛け
を行った筈。(当時まだ名ばかりの領主で洗滌の実態が理解できなかったのは
無理もないが、大阪冬の陣ではあれだけの武威を行った人)
安国寺恵瓊と図って、「毛利勢」を戦場に押し出し家康の背後をつく事をやらせてみたいと考えます。
以上、宮下房義さまより。

石田三成として「史実の内応を知り得ない」前提で下記を述べます。
①宇喜多秀家隊を核として、大谷吉継隊、小西行長隊、石田三成隊を天満山麓ま で後退させる
②天満山を拠点とし、上記4隊を以て魚鱗陣を形成する(以降天満山4軍とまとめて呼称)
③小早川秀秋隊は、上記魚鱗陣に対して包囲する形で攻撃を仕掛けるであろう黒田、細川、井伊、福島隊に対して、側面攻撃を行わせるべく、伝令を遣わす。
④頃合いを見て、前線と徳川隊の位置関係を把握するため、物見を遣わす。
⑤長宗我部盛親隊を中山道方面に移動させる。ただし中山道には入らせない且つ敵部隊に接近させ過ぎないように留める。
⑥安国寺恵瓊隊は、南宮山西方へ侵攻させる。が、前線の中山道までは進出しないように距離を取らせる。
⑦徳川隊、山内隊、池田隊の動きを物見させる。
⑧安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊の背後を突く形で行進させる。
⑨安国寺恵瓊を行進させる中で、長宗我部盛親隊を池田、山内隊に突撃させる。
全力で中山道に進出させ徳川隊の背後に迫らせる。ここで徳川隊を前線に押し出す事が目標。
⑩安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊方面から反転させ、徳川隊に突撃させる。この動きに対して天満山から、黒田、細川、井伊、福島隊のいずれかが(または全てが)反転して、徳川隊の支援に向かえば天満山4軍にて背後から魚鱗のまま突撃させる。もし動かなければ、安国寺恵瓊隊の情勢により、天満山4軍は突撃か防御かを決める。
※当方は、小早川秀秋は元々、松尾山に布陣しているので距離的な関係から、天満山の魚鱗に加えるのは難しいと判断しています。
そこで遊撃隊としてお願いをする事になったのですが、果たして彼は、その任に
対してどう応えるのかがポイントだと思います。
※2徳川家康を後方から突いて、前線に押し出そうとしていますが、上手くゆくかは分かりません(笑
以上、武藤某さまより。


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コメント

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  1. 知子

    はじめまして。最近入会致しました。埼玉県在住です。
    よろしくお願いします!

  2. この度は、戦国武将研究会への会員ご登録、誠にありがとうございます。
    お気軽に色々とコメントなどお寄せ頂けますと幸いです。
    どうぞ、よろしくお願い申し上げます。(^-^)

  3. けん

    はじめまして。今日登録しました。よろしくお願いいたします。

  4. けんさま、ありがとうございます。
    こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます。(^-^)

  5. ななし

    見ててためになりました。 
    西軍に勝って欲しかったけど、やっぱり三成は戦下手だし、周りとの連携が旨く取れてない。(戦メインなど武将との繫がりが薄い)まず三成が総大将って言う時点で西軍の連携はまずうまくいかないと思いました。まぁ三成は個人的に好きな人なんやけどね。
    で、三成も本隊で1000の部隊しか連れてないってのも舐めすぎなんじゃいかなぁと思いましたね。