安国寺恵瓊の解説~毛利家の交渉人から豊臣秀吉傘下の大名になった僧と広島・不動院

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安国寺恵瓊

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)

誕生年には諸説あり、1539年?とも1537年?とも言われる。
出自に関しても安芸武田氏の武田光和の子?とも、一族である武田信重(佐東銀山城)の子?とも、伴城主・伴繁清(とも しげきよ)の子?とも伝わるが、父・母ともに詳しくはわかっていない。
幼名を竹若丸といい、頭の鉢が大きく開いた少年であったとされ、字(あざな)を瑤甫(ようほ)といい、また一任斎、正慶とも称した。


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いずれにせよ安国寺恵瓊がまだ幼い頃である1541年、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡。その前後に、竹若丸を養育していた安芸武田家臣の戸坂道海(戸坂入道道海)に伴われて脱出し、太田川を渡った対岸の安芸武田氏の菩提寺・安国寺(不動院)に入って出家した。

広島・不動院

この事からも、安国寺恵瓊は安芸武田家関連の武将の遺児であった事が伺えるが、安国寺恵慶が安芸武田氏の遺児であれば、安芸武田を滅ぼした毛利家のために働き、毛利氏と命運をともにすることは不自然ということで、疑問も投げかけられている。

その後、1553年、京都・東福寺の竺雲恵心(じくうんえしん)が、東福寺末寺である安国寺を訪れたことからすべてが始まる。
学識豊かで、弁舌たくみな賢僧である安国寺恵瓊を評価した竺雲恵心は京都に招き、みずからの名の「恵」の一字をあたえて安国寺恵瓊と名乗らせ、安国寺恵瓊は東福寺に入って竺雲恵心の弟子となった。

1555年、厳島の戦い陶晴賢を破った毛利元就は、朝廷工作の仲介を竺雲恵心に頼んでおり、その縁で安国寺恵瓊が代理を務めるなど、しだいに毛利氏との関係が深くなったようで、1568年の大友家との合戦では安国寺恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献している。
また、1569年の大友宗麟との多伏口の合戦において、博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見するなど、早くから毛利家の外交僧の任を担っていたようだ。
1571年6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に大友家・浦上家・三好家との和議の斡旋を依頼もしている。この時はうまく行かなかったが、翌年1572年には、三好を除いた大友・浦上との講和については足利義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功している。

毛利元就が1571年に亡くなってからはも毛利隆元は、毛利家運営に関しても、なにかと竺雲恵心に相談した為、安国寺恵瓊も引き続き毛利家の外交僧としてより一層活躍する事となる。

1573年、織田信長によって京都を追放された足利義昭は、一旦、枇杷庄(城陽市)に退去したのち、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移った。
しかし、織田信長と三好義継の関係も悪化したため、11月5日には和泉国の堺に移ると織田信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、足利義昭の帰京を要請したのだが、この交渉には毛利氏使者として安国寺恵瓊、林就長も参加している。
なお、足利義昭は織田信長より人質を要求されていたこともあり交渉は決裂。このとき、安国寺恵瓊は災いを懸念して、足利義昭が西国に来ないよう要望もしている。

1576年、足利義昭が毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移り、鞆幕府が設立された。毛利家に迷惑が及ぶことを恐れた毛利輝元は、安国寺恵瓊に足利義昭・織田信長間の講和を斡旋させ、安国寺恵瓊は宇喜多直家と結ぶ事をやめて織田信長と結ぶべきと主張したが、結局受け入れられなかった。

僧としては1572年6月19日に、正式に安芸・安国寺(不動院)の住持となり、後に東福寺退耕庵庵主、東福寺二二四世、そして南禅寺住持の公帖を受け、禅僧としての最高位に達した。
地位の上昇は、中央での知名度を上げることになり、必然的に入ってくる情報も格段に良質なものとなり、多くの要人との接触も容易になると言う事だ。
1599年には建仁寺の再興にも尽力。このほか方丈寺、霊仙寺といった寺院を再興し、大内義隆が建立した不動院を安国寺に移築するなどしている。
人を見抜く眼力に優れていた安国寺恵瓊は、のちの織田信長の横死や、羽柴秀吉の天下を予言していたとも言われる。


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1582年6月2日、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)際に、明智光秀による「本能寺の変」が起き、織田信長が亡くなる。
このとき羽柴秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、外交僧である安国寺恵瓊は、毛利側の交渉役として和睦を取りまとめた。
停戦した羽柴秀吉は「中国大返し」を行い、たちまち姫路城まで駆け戻り、山崎の合戦にて明智光秀を破り、続く織田家重臣を集めた清洲会議で巧妙に主導権を握った。
本能寺の変の事実が判明した7月、羽柴秀吉の代理をつとめる黒田官兵衛蜂須賀小六と毛利家の処遇をめぐって、講和交渉を再開したが和睦とは成らず、もし、毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包吉川広家を、羽柴秀吉の家臣に取り立ててほしいと願い出るなど、羽柴秀吉の実力を評価していたとされる。

この頃、安国寺恵瓊は、毛利家の外交僧としての身分はそのままで羽柴秀吉の側近としても仕えるようになっており、1585年6月の四国征伐後、伊予国和気郡に23000石を与えらた。
九州征伐の際には、先立って黒田官兵衛・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されている。
毛利輝元は、清洲会議を経た賤ヶ岳の戦いののち、着々と天下人への道を進む羽柴秀吉に祝勝の品を届けて接近し、1585年1月、毛利氏が正式に羽柴秀吉の軍門に下り、臣従する事になると、安国寺恵瓊は羽柴秀吉から賞賛されている。
1586年の九州征伐後は60000石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の出世を果たし、安国寺にも1591年に11000石の寺領が与えられている。
太閤検地、厳島神社の千畳閣などでも、安国寺恵瓊は奉行を務めている。

1587年、肥後国人一揆が起こった際には芸州衆からなる第2陣の将として・粟屋・古志・伊勢・小田・日野ら毛利家臣の兵を率いて小早川秀包・立花宗茂鍋島直茂・筑紫広門らの第1陣に続いた。
第1陣諸将と共に辺春親行、和仁親実の籠る田中城を攻めた際には辺春氏を内応させて落城に導いた他、一揆の盟主・隈部親永を降伏させ、天草五人衆・志岐麟泉の人質を受け取るなど有力国人たちを調略した。
そして、大田黒城の大津山家稜を講和と偽り誘い出し、吉地浄満院での宴の最中に佐々成政の家臣に大津山家稜を刺殺させ大津山氏を滅ぼしている。
この他にも、降伏した内空閑鎮房を柳川城での桃の節句の宴に呼び出して謀殺した他、近隣諸氏に牧野城に拠った内空閑鎮照を討伐させるなど参謀・謀将として活躍した。
なお、戦後に佐々成政、隈部らの助命を嘆願するが、許されなかった。

安国寺恵瓊は、1590年の小田原攻めににも兵を率いて参陣し、1590年3月には脇坂安治長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦を展開したのち陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の乱暴狼藉を禁じている。

下田城の碑

朝鮮出兵においては小早川隆景率いる6番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当し、占領地の支配も行った。
「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めては「いろは」を教え、髪型を日本風に変えさせて召し使うなどの活動が見られる。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭の私軍を立花宗茂とともに錦山にて撃破し、討ち取っている。

安国寺恵瓊は、毛利一族の中で豊臣秀吉派の中心であった小早川隆景と親しく、豊臣秀吉が病気に伏せると小早川家重臣・山田某に伝えるなど豊臣秀吉と小早川隆景と連絡係りも務めたが、小早川隆景が死去すると、以後、反豊臣派である吉川広家の台頭により毛利の存亡を危ぶんだ。

安国寺恵瓊は吉川広家と対立し、1600年の関ヶ原の戦いでは、懇意にしていた石田三成と通じて安国寺恵瓊は西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功している。
1600年9月15日の関ヶ原の戦いでは、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康の後方に騎馬700、足軽3000という部隊で南宮山の山麓に布陣した。毛利勝永も安国寺恵瓊と共に布陣。
安国寺恵瓊の馬印は天蓋、旗は白地に一文字を使用したとされる。
しかし、前に布陣する吉川広家が、徳川家康に密かに通じて毛利勢の進軍を阻んだため、家臣・椎野道季を派遣して、吉川広家を説得するも失敗し、結局、肝心の毛利輝元も大阪城から出なかった事もあり、関ヶ原の毛利勢は戦闘に参加することなく、石田三成の西軍は敗北した。

関ヶ原での敗北後、安国寺恵瓊は毛利秀元の陣に赴いたが、吉川広家に諭されて逃亡。
京の鞍馬寺や、下間頼廉の婿である端坊明正の本願寺に匿われ、京都の六条辺で潜んでいたが、奥平信昌隊の鳥居信商に発見され、安国寺恵瓊を守る平井藤九郎と長坂長七郎が猛抵抗
したが捕縛され、大津に進出していた徳川家康に護送された。
そして、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首となり、石田三成・小西行長と共に処せられた。

享年62または64。建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院には墓がある。
首は、建仁寺の僧侶たちが持ち去り、方丈の裏庭に手厚く葬ったとされている。
建仁寺は長く荒廃していたが、この前年に安国寺恵瓊が安国寺(不動院)方丈を移築して、復興に尽力したので、その恩義へのせめてもの報いだったようだ。

関ヶ原合戦のあと、最終的に毛利家は減封処分を受けるものの、首謀者はあくまでも安国寺恵瓊とされたので、毛利家は存続することができたが、織田信長の横死を予言したものの自分の末路までは予測できなかったと言う事か・・。

広島・不動院(安国寺)

と言う事で、広島の不動院を訪問して参りました。
広島にある不動院(ふどういん)は、真言宗の別格本山です。
始めは、安芸・安国寺と言う名前の寺院でした。
安国寺恵瓊の「安国寺」はこの寺の名前と言う事です。
開基は行基ともされますが、足利尊氏足利直義が設立した安国寺の1つでもあり、安芸・安国寺として武田家の菩提寺にもなったとの事です。


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戦国時代には戦火にて伽藍が焼失しますが、毛利家の外交僧でもあった安国寺恵瓊によって復興されました。
安国寺恵瓊は幼い頃に修行したこの安国寺(不動院)の住職も兼ね、寺領としては11500石と言う破格の規模にて手厚く保護しています。

関ヶ原の戦いのあと、福島正則広島城主となると、福島家の祈祷僧・宥珍が安国寺に入り住持となりました。
この時、禅宗から真言宗となり、不動明王を本尊として安国寺から「不動院」へと改名しています。

のち、浅野家が広島城主となると、不動院は歴代藩主の保護を受けました。

不動院の金堂は天井の墨書から1540年の建造物と分かっており「国宝」に指定されています。

不動院・金堂(国宝)

ただし、戦国時代に安国寺恵瓊が山口市にあった大内義隆の菩提寺・凌雲寺(廃寺)から、建物をココに移築したようです。
しかも、広島原爆投下の爆心地から約4kmと言う距離にも拘わらず、一部損壊だけであったことから修復もされ、広島市内に現存する国宝としては唯一となります。

1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。
不動院は爆心地から約3.90kmに位置し、爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛んだと言います。
本堂の柱の1本が中央から折れたものの、全体では倒壊を免れました。

国の重要文化財でもある「楼門」は、安国寺恵瓊が1594年に再建したようです。

不動院・楼門

不動院の左手高台にある墓地には、安国寺恵瓊の墓、武田刑部少輔の墓、福島正則の墓、豊臣秀吉遺髪塚があります。

不動院の境内案内図

不動院・金堂(本堂)の左手から山に上がって行く道を進んだ、一番奥まったところに墓所があります。
下記の階段を上がった右手奥です。

安国寺恵瓊の墓への通路

下記が安国寺恵瓊の墓となります。

安国寺恵瓊の墓

下記は豊臣秀吉の遺髪塚。
考えて見れば、遺髪とは言え、豊臣秀吉の墓は大変貴重です。

豊臣秀吉遺髪塚

下記は福島正則の墓。
一番奥の方にありました。

福島正則の墓

武田刑部少輔と言う武将は、安芸・武田家の当主である武田元繁の嫡男・武田光和で、1540年に嫡子を残すことなく37歳で死去しています。

武田光和の墓

さて、不動院の無料駐車場(30台)がありますが、そろしまアストラムラインの「不動院前」からでも徒歩1分と観光には非常に便利です。
不動院の駐車場への入口は不動院の参道が兼ねていますので、下記の地図ポイント地点で示しておきます。

クルマで行く場合には、門前の国道54号からは直接入れません。
地図ではわかりにくいのですが、新しくできた国道は1段高くなっていて、その脇にある昔からの道路沿いに不動院がある形となります。
できればカーナビで指定して訪問した方が無難です。
下記が境内駐車場の写真です。

広島・不動院の駐車場

不動院の外観は24時間公開で、観光所要時間は15分といった形です。
広島城や原爆ドーム・原爆資料館などを訪れた際には是非立ち寄ってみて下さい。

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