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太田資正(おおたすけまさ)、太田三楽、太田三楽斉、太田三楽斎、太田三楽斉道譽 1522年~1591年
岩槻城の太田氏
太田資正は名将・太田道灌の曾孫にあたり、弱小勢力ながらも知勇兼備の将として名を馳せ、戦国の世を生き抜いた。
武蔵の岩槻城(岩付城)主・太田資頼の2男として太田資正は1522年に生まれた。通称は太田源五郎。太田美濃守、太田民部大輔。太田三楽斎道誉と号す。
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岩槻城は古河公方に属した忍城主・成田顕泰の父・成田自耕斎正等が室町時代1478年に築城したと言われるが、永正の乱で敗れた成田顕泰に替わって1522年以降は太田道灌の養子である太田資家が岩槻城を奪い城主になったと考えられる。
なお、太田道灌の直系は江戸城にあって、江戸太田氏と岩槻太田氏と区別されいずれも扇谷上杉朝興家臣として重要な地位を得ていた。
太田資家の子である太田資頼が岩槻城主を務めていた1520年には太田資正の兄・太田資時が誕生し、太田資正は1522年に生まれた訳だが、この頃には伊勢氏から北条姓に変えた相模の北条氏綱が武蔵へ勢力を拡大しつつあった。
1524年、扇谷上杉朝興の家臣の太田資高(江戸太田氏系)が北条氏綱に内通する。これにより北条氏綱は江戸に侵攻。迎撃に出た扇谷上杉朝興は高縄原の戦い(港区高輪)で敗れ、居城・江戸城を放棄し板橋城に退却するもまた攻められ河越城まで逃れた。その後、北条氏綱は江戸城主として太田資高を配置したが、実質的には北条家臣の遠山直景が仕切ったようである。これにより、岩槻城も敵対する北条氏と接する状態となった。
そして北条氏綱は岩槻城も攻撃する。太田資正がまだ3歳前後である1525年2月である。岩槻城は篭城したが、父・太田資頼の重臣・渋江三郎が北条氏綱に内応した事もあり、3000名余りが討死し落城。太田資頼は一族を連れて足立の石戸城(北本市)に落ち延びる。
1525年から6年間、岩槻城は北条氏の元・渋江三郎が城代となった。
1530年6月には小沢原の戦いで、扇谷上杉朝興は北条氏綱・北条氏康親子に大敗するものの、太田資家は体制を立て直し、古河公方足利高基の援軍を得て裏切った家臣を全て成敗し、1531年9月に渋江三郎を討ち取り岩槻城を奪回した。
1536年、太田資頼は隠居し家督を嫡男・太田資時に譲る。また太田資正は元服し翌年1537年初陣を果たしている。
1537年4月、扇谷上杉朝興の病死により12歳で上杉朝定が家督を継ぐとその3ヵ月後に北条氏康は河越城を攻撃する。扇谷上杉朝定は本拠地・河越城を放棄して松山城に逃れ、河越城には北条勢の北条綱成が入った。
この川越城を北条氏が押さえたことにより、扇谷上杉朝定に仕える太田資頼・太田資時・太田資正が守る岩槻城は北条氏の次の攻撃目標となった。太田一族はその北条氏に寝返るか、扇谷上杉朝定の重臣として北条氏に対抗するか意見が分かれる。太田資頼と2男の太田資正が一環として主君に仕えると言う考えとは異なり、兄・太田資時は勢いある北条氏と結んで太田家の存続を図ろうと画策し、家中で対立することになった。
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1541年に父・太田資頼が死去。同じ1541年7月、小田原の北条氏綱(北條氏綱)も死去し、北条氏康が家督を継ぐと、北条氏は古河公方足利晴氏とも敵対することになる。
1542年、太田資正と正室の難波田憲重の娘の間に嫡男・太田氏資が誕生。難波田憲重の娘は難波田憲重が広沢忠信に嫁ぎ先を相談したところ、広沢忠信が太田資正にと助言したとされる。
1546年、扇谷上杉朝定は1541年に和解していた山内上杉家の上杉憲政や古河公方足利晴氏らの連合軍に、常陸・小田政治なども加わった80000とも言われる大軍で、北条綱成3000が守る河越城を奪還しようとした。
この時、兄・太田資時は北条氏康に加担し出陣を控えたとも言われるが、弟の太田資正は主君の連合軍に加わり河越で24回も奮戦したと言う。
圧倒的に優勢だった連合軍に対し北条氏康は援軍を8000しか出せなかったが、連合軍本陣を夜襲し、扇谷上杉朝定22歳は討死するなどし総崩れし大敗した。(河越夜戦)
太田資正の正室の父・難波田憲重も河越で古井戸に落ちて死亡したと言われている。
河越夜戦後、兄・太田資時は正式に北条氏康の家臣となった。
太田資正は上杉憲政らと共に松山城に撤退した。
その後北条氏康は松山城も手に入れたが、元の松山城主・上田朝直は太田資正に協力を求め、1546年9月、北条氏康に奪われていた松山城を深夜奇襲し奪い返している。
しかし、太田資正の家臣である広沢尾張守と太田下総守(太田一族か?)が本丸を守備し、上田朝直は二の丸守将となった事に不満を覚えた上田朝直は、その後北条勢が押し寄せた際に北条勢に寝返り、二の丸に北条勢を入れた為、松山城は落城し北条氏康の手に渡った。
1547年には、河越夜戦で北条氏に降ったと考えられる戸倉城主・大石定久の娘との間に2男・政景(のちの梶原政景)が誕生している。その為、大石定久がまだ扇谷上杉家臣として滝山城にいて北条氏と敵対していた年代に、大石氏から太田資正の側室になったと考えるのが自然か。大石定久の娘は正室だった難波田憲重の娘と離別したあと、実質上、太田資正の後添いになったと考えられる。
2男・政景は梶原上野介の未亡人の養子となり梶原姓を称したが、梶原姓を称した時期には1558年、1561年など諸説ある為、ここでは以後梶原政景として表記する。
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1547年10月、太田資正にとっては転機が訪れる。兄・太田資時が28歳前後の若さで病死。(没年は諸説有)
以後、太田家の家督は26歳前後になっていた太田資正が継ぐことになり岩槻城主となった。同じ年、長尾景虎(のちの上杉謙信)が19歳で長尾家の家督を継いでいる。
河越夜戦で主君だった扇谷上杉家が没落していた事もあり、太田資正は家督を継いだあとは、兄を偲んで兄と同じ政策を取ったのだろう。兄の家臣だった人物の説得もあったかも知れない。
1548年1月、北条氏康(北條氏康)と太田資正は一時和睦したようで、以後数年間は北条勢に加わっている。
北条氏の記録によると太田資正は、入東郡古尾谷(川越市古谷本郷、古谷上)に776貫400文の知行も得ている。
1551年には北条氏康の出陣に、戦わずして関東管領・山内上杉憲政は平井城を捨て越後に逃亡し上杉謙信を頼り、山内上杉氏も没落した。
1554年には古河公方足利晴氏が幽閉となり、北条氏康は関東で優勢な立場となった。
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北条氏康から上杉謙信に
年代は明らかでないが北条氏康は娘を太田資正の嫡男・太田氏資に嫁がせ、太田氏姻戚関係を結び、太田資正との関係を強化し、太田資正はこれに応える形で、北条氏の常陸などへ進出を助けた。
1556年4月には北条氏康の命に従い、北条氏康と親しい結城政勝と対立していた小田氏治を討伐する軍勢に「軍監」として太田資正も出陣し、太田康資(江戸太田氏系)、遠山綱景、富永康景らの江戸衆と共に小田城を落としている。
しかし、太田資正は次第に北条氏康に敵対する姿勢を強め北条派の家臣を追放する。
そして、岩槻城下町を整備するなど、肥沃な自領の経営に力を注ぎ、入間川の堤防工事をしたり、支城などとの伝馬制度を整えた。
最盛期には北は松山城、石戸城、西は寿能城(大宮)、入間川を越えたあたりまで支配下だったようで、南は蕨城、そして梶原政景の居館が現在の都電荒川線の梶原駅の近くにあった。
軍事力としはて常時1000騎と言われ、大名よりは見劣りしたが、太田資正は自らの智略と兵の用い方で、この頃より上杉謙信の関東経略の有力武将として活躍し、北条氏康との戦いを繰り返した。
1560年~1561年、上杉謙信の小田原攻めでは太田資正が3500を率いて、上杉勢の先鋒として2男梶原政景と共に江戸城を一時占拠している他、上杉謙信が鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職就任の儀式を行う際には、太田資正が鶴岡八幡宮境内での乱暴狼藉を禁止している。上杉謙信は由緒ある梶原姓の梶原政景に太刀を持たせたという逸話も伝わる。
1561年頃、上杉家の関東における家臣名簿として記された関東幕注文には、岩槻衆として太田資正の名が見られ、太田家臣には大石石見守(大石憲重)、小宮山弾正左衛門、浅羽下総守、本間小五郎、春日八郎、春日攝津守、埴谷図書助、小宮右衛門尉、広沢尾張守、浜野修理亮家風、河内越前守家風、賀藤兵部少輔、川口将監家風の名が見られる。
なお1561年4月、上杉謙信が大軍をもって松山城を奪取すると太田資正に松山城を預けた。これに対し太田資正は松山城主として旧主の家系である上杉憲勝を置いた。敗れた松上田朝直は安戸城(秩父)へ退いている。
しかし、1561年11月、北条氏康は北条氏政・北条氏照・北条綱成・上田朝直ら30000の大軍にて松山城奪取を図るが、太田資正らは見事撃退に成功している。
1562年、北条氏康の配下であった江戸太田氏系の太田康資は約2000貫を知行していたが北条氏康への恩賞の不満から、同族であった岩槻太田氏である太田資正を通じて上杉謙信への寝返りを計画した。
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一説には江戸城では当時3人の北条家臣が守っており、本丸に富永直勝、二の丸に遠山綱景、そして、代々城主を務めた太田康資が三の丸だったのが不満だったとも言われる。 しかし、1562年10月、寝返りが露見し、太田康資は同族の太田資正のもとへ逃れた。
これを受けて、北条氏康は上杉謙信の相模・小田原攻めの拠点となりつつあった松山城を危惧し、1562年11月、武田信玄の協力も得て、北条25000・武田25000の計50000にて松山城を包囲した。しかし、松山城はなかなか落城せず、武田勢は坑道を掘って松山城に侵入する奇策を用いた。上杉兼信は救援する為出陣し太田資正らと合流して、武蔵・石戸城まで迫ったが、1563年2月、松山城主だった上杉憲勝は勝式部少輔を城内に入れ北条氏康に降伏し援軍を待たずに開城。
これには上杉謙信も激怒し、人質として預かっていた上杉憲勝の子を斬り捨てたと言われている。責めは松山城を託されていた太田資正にも及び、太田資正は詫びている。
上杉勢は、守りが堅い松山城を奪回することはできず、北条勢の騎西城を1563年2月に攻略。小山城、佐野城ら諸城を降伏させ、1564年1月には小田城を落とし、そして古河城を回復して越後に引き揚げている。
以後松山城は北条氏康の支配下となり松山衆として上田朝直は松山城、青山城、腰越城を守備した。それに反し、上杉謙信は関東での影響力を弱める結果となった。
そして岩槻城を息子に追われる
そんな中でも太田資正は岩槻城にて孤立しながらも耐えていたことから、大名とまでは言わないが、小大名くらいの独立領主であったことは間違えない。
一方、太田資正の嫡男・太田氏資は妻が北条氏康の娘だったことからも、父・太田資正とは違い、北条氏康に近い立場を取り、父・太田資正とは不仲になっていた。
太田資正は、正室だった難波田憲重の娘、すなわち嫡男・太田氏資の母と離別しているが、その時期は不明である、この嫡男・太田氏資との不和に関係して難波田憲重の娘と離別したと考えるのが自然か・・。
北条氏康は官位を太田氏に与えようと朝廷に働きかけ、1563年、父・太田資正は民部大輔に任じられ、嫡男・太田氏資は大膳大夫に任ぜられた。北条氏康からの評価も高かった事が伺え、このように北条氏康は太田資正となんとか和睦したいと考えたが、太田資正の考えが変わることはなく、太田家の家督を2男・梶原政景に譲ると言う話を知ると、嫡男の太田氏資は一時出家して「道也」と称した。
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1563年12月、武田信玄が倉賀野城を攻めた際、救援のために上杉謙信は出陣するが、冬季の出陣のために兵糧が充分でなく、太田資正や佐貫城の里見義弘らが兵糧の調達を命ぜられ、市河津(市川市)などで調達活動を行なっているが、これに対して北条氏康は軍を出した。国府台合戦が勃発する。
1564年早々に里見義弘は出陣し、1月4日国府台城に入った。12000とも言われており、里見氏が総力で戦いに挑んだことが分る。
千葉氏が迎撃したが戦力に劣り、千葉氏は北条氏康に援軍を求めた。すぐさま北条氏康は20000の兵出陣させる。
1月7日北条勢は江戸城を出て国府台城を攻撃するが反撃にあい、遠山綱景・富永直勝が討死した。逆にこの勝利に気を良くした里見義弘は油断することになり、1月8日未明に北条本隊が夜襲をしかける。里見勢は家臣の裏切りなどもあり大敗した。
この救援失敗の報を知ると嫡男・太田氏資は密かに俗世し、1564年11月、劣勢回復のために宇都宮国綱へ援軍要請に赴いていた父・太田資正と弟・梶原政景の留守をついて岩槻城を奪取する。
太田氏資は以後、岩槻城主として北条氏康(北條氏康)の家臣として仕え、この際に北条氏康から「氏」の一字を与えられて「氏資」と改名したと言われている。
我が子によって岩槻城を追われた太田資正は、1565年従っていた僅かな兵で岩槻城を目指したが奪回には失敗し、越後の上杉謙信を訪れて2男の梶原政景を引き立ててもらえるう懇願したあと、小田氏治家臣で上幡城主・上曽氏俊の仲介で小田氏治を頼って1566年5月に小田城を訪問した。
小田氏治は快く家臣に迎え、小田氏家臣として1000石を与えられ太田資正は片野城主となり、梶原政景も同様に1000石を知行し柿岡城を与え梶原景国と改名させた。
しかし、すぐの1566年6月に小田氏治を裏切り、まだ上杉謙信に通じていた忍城主・成田長泰を頼り、娘婿の佐竹義重に与えられていた領地ごと寝返った。最初から得た領地を持って佐竹氏の庇護を受けるつもりだったのかも知れない。
佐竹氏のもと岩槻城奪還を目指す
佐竹義重は、真壁氏幹の娘を梶原景国(梶原政景)に嫁がせ、佐竹義重自らは太田資正の娘を側室に迎え、佐竹氏と太田氏の絆を強固なものにした。
更に佐竹義重は太田資正に妻をすすめ、前片野城主・八代将監の娘で上曾源三郎の後家を妻として迎え、3男・太田資武と4男・太田景資をもうけている。
また、太田資正の娘は成田氏長や下妻城城主・多賀谷重経に嫁いでいたと言われる。
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常陸・片野城に入った太田資正はまもなく入道して太田三楽斉道誉と号し、家督を梶原景国に譲った。
1569年、恨みを持つ小田氏治は片野城攻めに出撃する。太田三楽斉は真壁城主・真壁久幹・真壁氏幹と、多賀谷城主・多賀谷重経らの援軍を得て手這坂の戦いにて小田氏治を撃破。小田氏治は本拠地小田城からも追われる大敗を喫し、小田城主には梶原景国が入った。
手這坂の戦いについて詳しくは常陸・小田城と小田氏の章にてご紹介している。
1570年1月11日、上杉謙信は唐沢山城の佐野昌綱の攻め、北条氏康に岩槻城を太田三楽斉に返還するように要求している。これに対し、2月18日、北条氏康は上杉謙信に誓詞を送り、岩槻城を太田三楽斉に返還、双方人質を遣わすことにも決定し、北条氏康の子?とされる北条氏秀を上杉謙信の元へ送り、柿崎景家の子・柿崎晴家が小田原へ行く事を約束している。しかし、岩槻城が返還されることがないまま、同年3月5日に上杉謙信と北条氏康が和睦する「越相同盟」が成立した。
これにより、上杉謙信による北条討伐や岩槻城奪回はもはや望めないと模索した結果、関東や東北諸大名が巨大となりつつある織田信長の勢力に対抗する意識が強い中にも関わらず、太田三楽斉は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などに書状を送り交流を開始した。
小田氏治とは常陸・小田城を巡って、奪ったり、奪われたりの戦いを繰り返すが、小田城を奪還していた小田氏治が毎年正月に家臣を集めて酒宴を開くの知って、1573年正月に小田城を急襲し小田城を奪うなどの知略ある作戦も取っている。
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上杉謙信は太田三楽斉を称して「希代の名将」と言っていたが、1578年に上杉謙信が死去すると、跡を継いだ上杉景勝は太田三楽斉との復交を図ったが、不成功に終わったようだ。
上杉景勝の家臣として名高い直江兼続も「わが国の大小の武将中で主君謙信と太田三楽に及ぶものはない」と激賞している。
なお小田氏治との攻防は続き、同年1578年、梶原景国は小田氏治の木田余城を攻略。その後すぐに小田勢が取り返すが、佐竹義重が占拠するなど、小田氏治を追い詰めた。
佐竹義重の2男佐竹義広が会津・蘆名氏(芦名氏)の養子となり、1582年蘆名の家督を継いだ際には太田三楽斉が外交面でも尽力したと言われ「片野の三楽」の名声を高めた。
1586年には結城晴朝の武将・片見晴信を板敷山の戦いで破り、下館城主・水谷正村などの結城勢の諸将と戦うなど、岩槻城奪還を夢見ながらも、佐竹氏の一翼として北関東を転戦する。
1588年9月には太田三楽斉・梶原景国・太田資武らは小田氏治とも一戦交えている。
1590年の豊臣秀吉小田原攻めては、太田三楽斉にも協力するようにと、豊臣秀吉より書状が届いている。
1590年5月には小田原の北条氏(北條氏)を包囲する豊臣秀吉に拝謁し「天下一の名将」と褒め称えられた。
1591年9月8日、片野城で死去。享年70。北条氏が滅亡した翌年であった。
太田資正の墓は片野城内にある浄瑠璃光寺の境内に現存する。
元服してから56年間で79度戦をしたと言われ、一番槍23回、組打ち34回、太刀打ちは数え切れないの言い伝えがある。そのうち勝ち戦は30回と言われ、大国ではない独立勢力だった事が多かったので、やはり大軍には勝てず、負け戦も多いことが伺える。
しかし、乱世の中、弱小勢力でありながら巧みに生き抜いた事は大変評価できると思う。
「犬」を書状運搬に活用
北条氏康は上杉謙信に降った太田資正の岩槻城(岩付城)や松山城を何度も攻めているがもその度に太田勢に加勢する援軍が現れ北条勢は攻めあぐんでいる。
北条勢の忍者である風魔一党が一生懸命、太田資正の使者を討っても、連絡網を断ち切ることができなかった。
甲陽軍鑑によると岩槻城と松山城ではそれぞれ約50匹の犬を飼っていたと言われる。
城内で太田資正が犬とじゃれあっているのを、家臣たちは「うつけ者」と陰口を叩いていたとも。
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太田資正はそんなことを気にせず、岩槻城の犬を松山城に連れて行き、松山城で飼っていた犬を岩槻城連れて戻り「何かあったら、犬を放せ」と家臣に伝えていた。
武蔵・松山城が北条氏康に包囲された際には、城中の犬のうち10匹に書状を入れた竹筒を首につけて城外へ放し、岩槻城へ連絡させたと言う。
このように太田資正は「犬」を連絡の手段として用い、日本初の軍用犬を使用したと言われており有名な軍用犬「三楽犬」となった。
なるほど、人間が走るより今は速い発見される可能性も低く、仮に犬を発見しても犬のすばしっこさにより補足されにくい訳である。
太田資正(太田三楽斉)の評判
豊臣秀吉は小田原征伐の際に、徳川家康にこう言ったと言う。
関東には不思議がある。我らのような者でも天下を取れるのに、太田三楽斉ほどの者が1国も取れないのは不思議だ。
上杉氏重臣の宇佐美定行もこう言ったと言う。
自分が主君として仕えたいと思った人物は上杉謙信公の他には太田三楽斉だけだ。この英雄が1国も取れなかったのは不思議と言えば不思議だが、実は不思議ではない。
KOEIが発売しているゲームソフト「【PR】信長の野望 革新」などは、太田資正は「領主」としても登場しており、その武将能力は前田利家などより上と評価が高い。
太田資正が小田氏治のように情勢を見て加担する勢力を変えていたら失敗はしなかっただろう。太田三楽斉は意地を貫き、長野業正と同じように続ける扇谷上杉氏を最後まで助け、勢いのある北条氏康に抵抗する為、越後の上杉謙信を頼ったが上杉謙信は関東に全力を注げないと分ると、里見義弘に協力を求めたが大敗するなど、失敗の連続。更には先祖代々の本拠地・岩槻城を息子に奪われ、常陸にて佐竹を頼り、片野城においても衰えを見せず佐竹の為に働き、最後は豊臣秀吉に協力もした。
城を追われ浪人しつつ、見事復活を果たした武将には、真田幸隆(真田幸綱)や明智光秀がいたり、息子から国外追放を受けたのは武田信虎がいたりするが、それらの人物と大田資正はまた異なり、関東平野を見下ろす筑波山の下にて一進一退を続けており、不器用に世渡りしつつも乱世を見事生き抜いたこの太田資正を調べていくうちに、小生は太田資正の生涯に好感を持ち、どんどん引き寄せられてき、好きな武将の1人となった。
しかし、よく行動がわかっていない武将であり、大名とまで評価できる人物でもない為、研究資料が乏しく、調べるのには通常の3~4倍のパワーを要し、苦労した次第である。
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岩槻城を奪った嫡男・太田氏資とその後の岩槻城
1564年に、父・太田資正の留守中に北条氏康に内通し岩槻城を奪った太田氏資は、北条家臣となり、岩槻城主となっていたが、1567年、里見氏を攻める北条氏政に従軍。三船山砦(君津市)に着陣し、里見氏の本拠・佐貫城に迫るが、里見方の策に嵌り、障子谷に誘い込まれて身動きが取れなくなったところを急襲され、北条勢は大敗。太田氏資は退却する北条勢の殿軍(しんがり)を務め、25歳前後で戦死した。
一説によると太田氏資が小田原城に出向していたところ戦が起こり、北条氏康から出陣するように命を受け、充分な兵を持たず出陣したとも言われており、付き添った家臣全員討死したとある。
北条氏康にとって岩槻城は関東北部への戦略上重要な拠点であることもあり、岩槻から太田氏を排除するのも戦略だったのかも知れない。もちろん、岩槻城と岩槻衆に新たな「主」をつける必要があった。
太田氏資には跡継ぎとなる男の子がいなかった為、岩槻衆筆頭に正当な後継者を立てて、太田資正や梶原景国の復活を阻止する必要性もあった。
北条氏康は、討死した太田氏資の正室だった北条氏康の娘との間に生まれた娘に婿として北条氏政の3男北条源五郎(実名不明)を送る形での婚約を行い太田氏を継がせる方針を明らかにした。
この時、北条源五郎はまだ4歳前後と考えられ、実質岩槻城は同族の江戸太田氏などが後見に入り統治された。北条源五郎は1575年頃に、太田家が代々その名を名乗った「源五郎」を襲名し、太田源五郎と称していることから、この頃正式に婚儀も行ったと考えられる。しかし、1582年19歳前後で亡くなる。
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以後は北条源五郎の弟・北条氏房が、兄の未亡人を娶って太田氏の家督を継いで太田氏房と称したともされており岩槻城主となった。
北条氏房は北条滅亡時まで岩槻城主を努め、城の防御面の拡充などを行い、全長8kmにもおよぶ「大構え」が構築された。小田原城の総構えは9kmであり、それに匹敵する規模だ。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、岩槻城には城代として家臣の伊達房実を配置し、2000の兵にて篭城させ、岩槻城主・北条氏房は小田原城にて籠城する北条一門に加わった。
浅野長政・鳥居元忠らが率る20000軍勢が岩槻城を包囲し1590年5月20日早朝より攻撃開始。三方向からの攻撃により、5月22日伊達房実は本丸櫓より傘を揚げて降伏した。岩槻城では北条勢約1000が討死したと言われる。
この際、板部岡江雪斎の長男・板岡部房恒(21歳)も負傷して倒れていたところを味方に助けられたと言う。
北条滅亡後、北条氏房は兄の北条氏直と共に高野山に蟄居。その後、寺沢広高預かりとなって肥前国にて1592年に死去した。享年28。
豊臣秀吉の第2次朝鮮出兵に従って肥前唐津の陣中で没したと言う説もある。
岩槻城の訪問記
太田道灌が築いた関東の名城「岩槻城」は、現在、岩槻城址公園となっており、新曲輪・鍛冶曲輪の部分が見学可能です。
下記の通り、元荒川に面し、池なども多かった「水城」であることがわかりますが、総曲輪型城郭です。
その為、別名は「浮城」でして、関東平野にはこのように湿地帯に設けた城は多いです。
下記は移築されている岩槻城の大手門と言われている建物で通称は黒門です。
駐車場近くにあります。
しかし、どうみても長屋門?ですので、たぶん門ではなかったと思います。
下記は岩付城の土塁ですね。
結構規模の大きな堀切も見どころの1つです。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、岩槻城主・北条氏房は小田原城に詰めていました。
そのため、付家老の伊達房実が2000にて岩槻城を守備しましたが、浅野長政、本多忠勝、平岩親吉ら20000にて攻められて落城しています。
発掘で障子掘も確認されていますが、保存の為、埋め戻されています。
写真ですと迫力に欠けますが、堀は結構深く、その深い堀の中を散策できるようになっています。
堀の中をどんどん進んでみます。
堀はクランクになっていて、先が見えないので、散策していても不安にかられます。
やがて、岩槻城の石碑が見えてきました。
別名の白鶴城で彫られています。
この石碑は鍛治曲輪にあります。
石碑は普通「本丸跡」にあるものですが、本丸は開発の手で、見るに忍びない状況ですので、石碑は鍛治曲輪にあります。
江戸時代には譜代大名が岩槻藩主として入っています。
岩槻城の無料駐車場はいくつかありますが、下記の駐車場が一番便利です。
上記の岩槻城址公園だけでしたら、見学所要時間は30分といったところです。
下記は愛宕神社で、岩槻公園からはちょっと離れています。
この愛宕神社がある高台は、北条家が造営した「大構え土塁」となっており、小田原城のように城下町を囲む「大構」だったことを示す唯一の遺構となります。
愛宕神社の場所ですが、下記の地図ポイント地点が境内の駐車場への入口となります。
東側の道路からは進入できませんので、線路側から入ってください。
他にも復元された「時の鐘」などが城下にあります。
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