おつやの方と秋山虎繁(秋山信友) 織田家に処刑された命運

岩村城

秋山虎繁(秋山信友)とは

秋山虎繁(あきやま-とらしげ)は、秋山領主(山梨県南アルプス市秋山)である秋山信任(秋山新左衛門信任)の子として1527年に生まれた。
なお、秋山虎繁はちょっと前までは秋山信友(あきやま-のぶとも)と呼ばれていたが、近年の研究にて実名(本名)が判明し、現在では秋山虎繁と記載されることが多い。
1541年に16歳で元服すると、翌年、22歳の武田晴信の近習として諏訪攻めに参加した。
これが初陣であったが、安国寺の戦いで活躍。
1547年には、福与城攻めでも功をあげ、50騎の侍大将となった。


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1553年4月、真田幸隆の調略により、村上義清の葛尾城が自落すると、秋山虎繁(秋山信友)が葛尾城主となり、戦後処理を行っている

1554年、伊那で知久・座光寺らの反乱が起こり、神之峰城の戦いで鎮圧すると、武田信玄より伊那郡も支配を任せれた。
秋山虎繁(秋山善右衛門尉)は大島城(長野県松川町)へ入り、室住虎光(諸角虎定)と共に大島城を改修している。

そして、郡代として秋山虎繁(秋山信友)は信濃・飯田城主となり、室住虎光(諸角虎定)は大島城主となったようだが、1561年、第4次川中島の戦いにて室住虎光(諸角虎定)は討死してしまう。

なお、秋山虎繁(秋山信友)は伊那の拠点として、高遠城も整備すると、1562年に武田勝頼が高遠城主となっている。
また、秋山信友は遠山直廉を支援するため、美濃・苗木城(岐阜県中津川市)に在番していた時期もあったようで、伊那郡の支配だけでなく、美濃・遠江・三河方面の軍事・外交にも携わった。

1565年、金山城主・森可成と米田城主・肥田玄蕃允を攻撃したあとである、尾張の織田信長武田信玄との同盟交渉でも岐阜城へ赴くなど尽力した。
この時、織田勢に寝返っていた遠山直廉の娘(龍勝院)が織田信長の養女となり、武田勝頼の正室となった。


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1565年頃には秋山伯耆守を受領。
1567年に成立した、武田信玄の娘・松姫と、織田信長の嫡男・織田信忠との婚約が成立した際には、秋山虎繁(秋山信友)(41歳)が結納の返礼使者として岐阜城へ赴いている。

1571年2月には、大島城の普請を命じた記録がある。
また、三河の田峯城菅沼定忠を攻めて武田家に臣従させたともある。

田峯城

1572年10月、武田信玄が西上作戦を開始すると、秋山虎繁(秋山信友)と山県昌景と別働隊として3000にて奥三河へ侵攻し、田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝長篠城主・菅沼正貞らを武田家に臣従させた。
そして、岩村城主の遠山景任が病いで亡くなったあと、女城主として未亡人・おつやの方が指揮を執っていた岩村城を包囲して10月に降伏させた。

おつやの方

おつやの方(おつやのかた)は、勝幡城主・織田信定の娘で、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前とも呼ばれ、織田信長の叔母にあたる女性だ。
時期は不明だが、岩村城主・遠山景任に嫁ついだ。
しかし、子供には恵まれなかったようで、桜洞城主・三木自綱(姉小路頼綱)を攻撃した際のケガが元で1572年5月に遠山景任が病死すると、織田信長は跡目として5男・御坊丸(織田勝長)(6歳?)を送り込み、おつやの方は養嗣子とした。

これに対し、武田信玄は西上作戦の途中に、依田信守と秋山虎繁(秋山信友)を派遣し、岩村城を包囲して、おつやの方を降伏させると、御坊丸は捕虜となって甲府に送られ、11月14日に武田勢が岩村城に入った。
また、おつやの方が秋山虎繁(秋山信友)と再婚すると言う条件も和議には含まれており、岩村城には下条信氏が入ったようだ。

このおつやの方の寝返りに反発した飯羽間城主・遠山友信、明知城主・遠山景行らが、1572年12月に上村合戦(上村の戦い)にもなったが、秋山虎繁(秋山信友)が撃退している。
山県昌景は井伊谷城などを陥落させて、武田信玄の本隊に合流。

なお、武田信玄が浜松城を素通りして、西へと向かったのは、おつやの方が武田に屈したため、三河から東美濃を攻めようと考えたとも言われているが、その途中、12月22日に三方ヶ原の戦いとなり、武田信玄は徳川家康を破った。
このとき、山県昌景と共に徳川家康を散々に追い回し「さても信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と評されている。

三方ヶ原の戦い石碑

1573年3月6日、秋山虎繁(秋山信友)が座光寺以下の350騎にて岩村城主となり(大島城代も兼任)、この時、正式におつやの方(岩村殿)との婚儀が行われたものと推測されている。
※実際には、おつやの方と結婚しなかったとも言われている。
しかし、武田勢は野田城を落としたところで撤退し、武田信玄は4月12日に駒場で病死した。

天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は織田信長を圧迫するため、15000を率いて岩村城に進出すると明知城を包囲する。

美濃・明知城の本丸

2月5日に織田信長は嫡男・織田信忠とともに出陣するが、到着前の2月6日、明知城の内部で飯羽間右衛門が裏切り、明知城主の遠山一行遠山利景は、妻の実家である足助城へと逃れたとされる。
また、山県昌景が6000にて鶴岡山に進出したと聞くと、織田信長は神篦城に河尻秀隆小里城池田恒興を配置して、2月24日に岐阜城へと撤退した。

1575年5月21日、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、織田信長・徳川家康は奥三河の諸城を攻撃し、岩村城は織田信忠(19歳)の軍勢20000に包囲される。
秋山虎繁(秋山信友)は比高140mで難攻不落の岩村城に籠城して甲府に援軍を要請した。
長篠での大敗のあと、ようやく体制を整えた武田勝頼が出陣したのは5ヶ月後であり、その出陣を知った織田信忠は岩村城への攻勢を強めた。
下記は織田信忠が本陣を置いた「大将陣公園」となる。

大将陣公園

そのため、兵糧も尽きかけた秋山虎繁(秋山信友)は11月10日に、織田信忠の本陣がある水精山(水晶山)に夜襲を掛けるも、河尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近・猿荻甚太郎らに撃退され、大将格21名、兵1100を失った。
万策尽きた秋山虎繁(秋山信友)は、塚本小大膳の仲介にて、城兵の助命を条件に降伏し、11月21日、岩村城を開城した。

降伏の際には、秋山虎繁(秋山信友)の助命も約束されていたが、織田信長はこれを翻し、城兵を殺害して、秋山虎繁(秋山信友)や、おつやの方、大島杢之助、座光寺為清ら5名を岐阜城に連行した。
そして、長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されている。

理由としては、長篠城主・奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が甲府で人質に取っていた奥平信昌の妻?らを磔にしたので、その報復だとされている。

岩村城にいた武田残党も、遠山市丞丸(岩村城の二の丸?)に追い込まれ、遠山二郎三郎・遠山市丞・遠山三郎四郎・遠山徳林・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵らが抵抗するも討死し、焼き殺された。
岩村城に入っていた武田家臣も、帰還の途中、木の実峠で織田勢に待ち伏せされたと言い、長篠敗戦からようやく軍勢をまとめ援軍として向かっていた武田勝頼であったが、これらの報告を受けて引き返している。

秋山虎繁(秋山信友)は享年49。
おつやの方は、生年が不明なため、享年は不明だが、織田信長が自ら手で処刑したとも言われている。

秋山氏の菩提寺は清運寺。


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秋山虎繁の墓は、岩村町の妙法寺と、塩山の恵林寺境内にある。

二人の間に生まれた子とされる、秋山六太夫は、小早川隆景の元へ落ち延びたとされている。
手助けしたのは村上水軍で、伊豆から安芸・竹原へと船で向い、元服すると朝鮮出兵もしたと言う。
しかし、1600年、関ヶ原の戦いの際に、28歳で討死したとも・・。

岩村城は河尻秀隆が城主となり、現在の城郭に改修を開始した。

その後の岩村城

1582年、河尻秀隆が甲斐一国を与えられると、岩村城には団忠正が50000石にて入った。
しかし、3ヶ月と経たないうちに本能寺の変となり、織田信忠と共に二条御所に籠もった団忠正は、明智勢と戦って討死。
岩村城は信濃から戻った森長可が接収し、森長可の死後は森忠政が支配した。
この時の、岩村城代となった森家の家老・各務元正は、約17年を費やして、岩村城を近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成したとされる。

岩村城

1584年、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が明知城を奪還し、さらに岩村城を攻撃するも、各務元正によって退けらている。
1599年、豊臣秀吉が死去すると、森忠政が信濃・松代城へと移封となり、蒲生氏郷の与力である田丸直昌が40000石にて岩村城に入った。

1600年、関ヶ原の戦いで大阪城番だった田丸直昌は、石田三成に協力したため、徳川家康の命を受けた遠山利景が岩村城を再度攻撃している。
戦後、田丸家が改易されると、岩村城には松平家乗が20000石にて入城した。

1601年、松平家乗は、岩村城の山上にあった城主居館を、城の北西山麓に移して城下町の整備を開始。
現在、岩村の城下町もまだ古い建物が残されており、雰囲気がある。

岩村の城下町

江戸時代の1645年、大給松平氏が上野国・館林城へと転封となり、三河国伊保藩より丹羽氏信が岩村藩主となった。
1702年、お家騒動となりを起こし越後国高柳藩に転封となると、松平大給家の松平乗紀が、小諸城より入って、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。

岩村城の観光情報

整備されていますので、トレッキングポールなどは不要。
麓の岩村歴史資料館がある場所が、江戸時代の藩主館跡で、表御門・平重門・太鼓櫓が復元されている。
この館跡が100台ほどの無料駐車場になっており、岩村城の大手口となるが、ここから徒歩で登っていくと、片道30分の坂が待っている。
クルマの場合には、本丸脇の「出丸跡」まで行けて、10台ほどの駐車場と新しいトイレが完備されていてOK。
下記の地図ポイント地手長、出丸跡の駐車場への道はクネクネしているので、運転にはご注意を。

出丸の駐車場から本丸に行くだけでしたら徒歩5分。
ただし、せっかくですので、6段石垣や井戸「霧ケ井」辺りまでは見学されたほうが良い。
全部見ますと5時間とも言われますが、出丸跡から霧ケ井までの往復でしたら40分程度といったところ。


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岩村城の写真は下記のページにてたくさん掲載させて頂いておりますので、よければご覧願いたい。

岩村城と遠山景任~圧巻の6段石垣など見ごたえある山城「岩村城」

なお、麓の岩村城の城域には、宿泊施設「岩村山荘」があり、夕食は炭火で焼く「戦国料理」が振舞われる。

また、岩村城の移築門が、飯羽間城近くの徳祥寺の山門になっていた。

徳祥寺の山門

悲劇の女城主・おつやの方の生涯
菅沼定忠と田峯城の復元された本丸御殿と武田勝頼が逃れた武節城~菅沼定利も
小里光忠 小里光明 小里光親 ~小里城を奪還するも後継ぎがなく断絶
美濃・明知城と千畳敷砦にある光秀産湯の井戸~明智光秀誕生の地なのか?
遠山利景と遠山一行~徳川家の旗本となる礎を築いた明知城主
遠山景行と上村の戦い~美濃・遠山氏の存亡をかけて
山県昌景~武田家を支えた重臣
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コメント

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  1. 2017年5月19日放送のヒストリア、野波麻帆さんの迫真の演技、うまかったな~。(*^^*)

  2. 竈飛燕

     【MRA】ブックマン渋沢派起源は、岩村城主ですか?

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