千姫とは~徳川家の娘として波乱の人生を歩んだ戦国時代最後のヒロイン


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千姫(せんひめ)は、徳川秀忠お江の長女として、1597年4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれた。

父は徳川家康の跡継ぎで、のち第2代徳川幕府将軍になっている。

母・お江は、織田信長の妹・お市の方の娘で、柴田勝家が北ノ庄城で自害した際、姉の茶々・お初と共に豊臣秀吉の保護を受けた。
お江はその後、佐治一成に嫁いだがのち豊臣秀勝に再嫁するも、豊臣秀勝が朝鮮出兵の際に病没。
1595年9月17日、お江が23歳の時、今度は徳川家康の3男・徳川秀忠(17歳)に嫁いでいた。

豊臣秀吉は側室・茶々(淀殿)との間に生まれた豊臣秀頼を後継者として、1598年、2歳の千姫と、6歳の豊臣秀頼とを婚約させた直後、伏見城で亡くなる。
その後、関ヶ原の戦い石田三成が敗れ、徳川家康は1603年2月に征夷大将軍となり徳川幕府を開いた。

このままでは、徳川家に天下が奪われると懸念した豊臣秀頼の母・淀殿は、豊臣秀吉が亡くなる前に成立していた徳川家との婚約を早く履行させ、1603年7月、千姫は乳母・刑部卿局とともに大坂城に入り、豊臣秀頼と結婚した。
千姫は7歳、豊臣秀頼は11歳の時であるが、千姫は事実上、豊臣家に人質に取られたとも言えよう。

千姫は祖母・お市の方の血を受け継いでおり美しい女性へと成長。
2人の間に子供はできなかったが、仲睦まじく暮らしていたとされる。

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大阪城の淀殿など豊臣家としては、あくまでも豊臣家の為にと徳川家康が開いた江戸幕府の2代目に、豊臣秀頼が就任すると言う期待を持っていたが、1605年、徳川家康は、徳川秀忠に征夷大将軍を譲り、権力が徳川家で世襲されることを示した。

以後、徳川家康は徳川幕府の安寧の為、豊臣家を潰すための行動を取って行く。
豊臣家としても、1607年に結城秀康、1611年に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正、1613年に池田輝政浅野幸長、1614年に前田利長と、恩顧の大名が相次いで亡くなり、孤立していくと兵糧を大阪城に入れ、浪人を募集して行った。
真田幸村(真田信繁)、長宗我部盛親後藤又兵衛(後藤基次)、毛利勝永明石全登塙直之大谷吉治ら約10万が大阪城に参集。
徳川家康も諸大名に陣触れし20万の大軍が大阪城へと出陣した。

こうして、1614年大坂冬の陣、1615年大阪夏の陣となる。

1615年5月7日深夜、大阪城が炎上する中、千姫は豊臣秀頼や淀殿らと自刃することも覚悟した。
しかし、大野治長から助命嘆願の依頼を受けると、僅かな望みに掛けて、千姫は侍女・松坂の局や堀内氏久らと徳川勢の坂崎直盛の陣に向かい、徳川秀忠の元へ送られたと言う。

千姫一行は混乱する戦場で徳川勢に捕まったが、衣に描かれていた「葵の紋」から千姫だと証明でき、徳川家康の本陣(茶臼山)へ届けられた。
この時、徳川家康は京都の公家に顔が広い坂崎直盛に千姫の再嫁先も探してほしいと述べ、千姫には助命嘆願の件は父にも話すようにと言い、その後、千姫は父・徳川秀忠の陣へ赴いた。
しかし「なぜ秀頼と共に自害しなかったのか」と父から冷たくされ、淀殿や豊臣秀頼の助命嘆願は叶わなかったと言う話もある。

翌日、5月8日に淀殿と豊臣秀頼は自害し、豊臣家は滅亡した。

豊臣秀頼の側室が産んでいた豊臣国松と奈阿姫は京に潜伏していたが京極忠高に捕縛されて、国松は5月23日に田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に六条河原で斬首となる。
しかし、お初(常高院)や千姫による助命嘆願により7歳の奈阿姫(天秀尼)は、千姫の養女となって寺に入ることで命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入った。

失意の中、体調も崩し床に臥せた19歳の千姫は、公家との再嫁を断った為、徳川家康は本多忠勝の孫にあたる本多忠刻との再嫁を進めた。
本多忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美男子だったとされ、この婚姻に関しては大坂落城後の7月に、千姫が江戸城に送られる途中、桑名の七里渡しの船中で、たまたま本多忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話もある。
千姫は豊臣家から離縁された訳ではなかったので本多家に嫁がせるにあたり、徳川家康は千姫を豊臣家と離縁させるため、形式的に満徳寺(群馬県太田市尾島)へ入れて短期間、尼とさせて豊臣家との縁を絶たせた。その後、侍女が千姫の名代として満徳寺の尼となって生涯を終えている。

1616年4月、徳川家康は千姫の婚礼を待たずにこの世を去ったが、1616年9月26日千姫(20歳)は桑名城に到着し、9月29日に10万石の桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻(21歳)と結婚。
なお、徳川家康の長男で切腹した松平信康の娘・熊姫(妙高院)が、本多忠政の正室であり、本多忠刻の母であった。

この輿入れの時、津和野藩主・坂崎直盛は、江戸湯島台の屋敷にいた家臣110名全員に髪を剃らせて不穏な動きを見せる。
輿入れの行列を襲撃し、千姫を奪うと言う計画であったようで、幕府が知る所となると酒井家次、堀直寄、松平信吉ら10000の兵で屋敷を取り囲んだ。
そのため、坂崎直盛は1616年9月11日に自害(たまは家臣により殺害)している。
これは、大阪城から千姫を救出した者には、褒美として千姫を嫁にして良いと徳川家康が発言しており、坂崎直盛が火傷を負いながら千姫を救出したが、千姫に拒絶されたことで、千姫を襲う計画を立てたともされている。
ただ、実のところは徳川家康に頼まれて、苦労して公家の再嫁先を工面したが、反故にされたにも拘わらず、本多家に嫁いだことを快く思わなかったのだろう。

1617年7月14日、桑名の本多忠政に姫路藩15万石が与えられ、本多忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石が与えられると、本多忠政、本多忠刻と千姫は姫路城に移った。
千姫が姫路城に入る際には、馬500頭と供850人が付き従ったと言う。

本多忠刻はまだ家督を継いだ訳でもなく、城主でもない部屋住みであり、しばらくの間は備前丸の居館に住んだ。

そのため、姫路城には千姫と本多忠刻専用の武蔵野御殿と、西の丸を整備して化粧櫓(上記写真)が新たに建てられて新居とした。
武蔵野御殿は伏見城から移築したもので、壁やふすまには金箔がはられ、見事な武蔵野のススキが描かれていたため 「武蔵野御殿」と呼ばれたと言う。

本多忠刻は剣術を好み、天下無双の兵法者・宮本武蔵を迎えてはその流儀を学ばせてもいる。

領民から「播磨姫君」と称されて敬愛された千姫は、1618年、22歳の時、初めての子・本多勝姫が誕生。
本多家の侍女らは千姫のことを「御姫様」、勝姫を「小姫様」呼んだ。
1619年には長男・幸千代も生まれたが、幸千代は3歳で急逝してしまう。
悲しみに暮れた千姫は、その後妊娠はしたが流産を繰り返すようになり、1623年に化粧櫓から望む姫路城近くの男山に千姫天満宮を建立すると、本多家の繁栄を祈願して、千姫が魔よけとして持っていた羽子板を奉納しているのが現存する。

千姫は毎朝、西の丸の化粧櫓から見える男山に祀った千姫天満宮を拝んだと言う。
※上記写真は姫路城の西の丸廊下から望む男山

その後、千姫が頼った占いで、豊臣秀頼が恨んで千姫を祟っているとされ、千姫は豊臣秀頼に許しを請う願文を書いて、観音像の中に入れ奉納もした。
しかし、1626年、参勤交代から帰った夫・本多忠刻が結核で31の若さで病死。
亡くなった日付は、奇しくも大坂落が落城した日と同じ5月7日であった。

1626年8月には姑・熊姫(妙高院)、そして、9月15日には母・お江(崇源院)と次々に没し、播磨10万石の化粧領も本多忠刻の弟・本多政朝が継いだため、徳川家光の勧めもあって30歳の千姫は11月に勝姫を連れて江戸へ戻る決心をし、11月に姫路城主・本多忠政らに見送くられて江戸城・西ノ丸に入った。

千姫には加賀前田家との縁談もあったようだが、その後は賄料10000石を得て、弘経寺の住職・照誉了学の教えを受け落飾すると、天樹院と号して二人の夫の菩提を弔い、竹橋御殿に移って勝姫と共に暮らした。

1628年1月26日、11歳の勝姫が鳥取藩主・池田光政(20歳)の元に嫁ぐと、千姫は池田家に嫁いだ1人娘のことを心配し、度々「天樹院書状」を送っている。
5年後、参勤交代で江戸にやってきた勝姫の夫・池田光政に初めて会ったが、これは千姫の弟である将軍・徳川家光の配慮であり、以後、千姫は池田光政ともは大層親しく交流した。
この池田光政は、岡山藩校・閑谷学校を創設したことでも有名だ。

鎌倉・東慶寺では天秀尼が住職となると、女性の救済活動を開始。
ある日、会津・加藤家の家臣の妻が東慶寺に逃げ込んだが、その女性は夫が謀反の罪を被り、加藤家に追われていた。
加藤家はこの女性を引き渡すよう天秀尼に申し入れたが、この女性は夫とは離縁したいと言った為、千姫は弟の将軍・徳川家光に交渉し、女性をそのまま東慶寺にて預かる許可を得る。
このようにして東慶寺は、当時、女性側から離婚申立てが許されなかった社会において「縁切寺」として、幕府公認の駆け込み寺となったが、かつて千姫が形式的に尼になった世良田の満徳寺も縁切寺であったため、千姫は離縁する事ができたと言う事なのであった。

1632年1月24日、父・徳川秀忠が死去。千姫も最後を見送ったとされる。
1633年、お初(常高院)が死去。

1643年、東慶寺の伽藍を再建。この時、千姫の寄進で建立された仏殿は、現在、横浜三渓園に移築されている。

1644年、懐妊した徳川家光の側室・夏(後の順性院)が徳川家光の厄年(42歳のふたつ子という迷信)と言う事で災いを避ける為、千姫と一緒に暮らすすようになり、竹橋御殿にて徳川家光の3男・徳川綱重(甲府宰相)が生れている。
徳川綱重を養育した千姫は大奥で大きな権力を得るようになる。
1645年2月7日、東慶寺の天秀尼(奈阿姫)が37歳で死去すると、千姫は香典を送った。
天秀尼の墓には、大阪城から付き添ったとも推定されている甲斐姫とする墓も並んでいる。
なお、天秀尼(奈阿姫)が東慶寺に入る際、千姫は寺入り道具にと『唐糸草紙』を授けたが、遺品として戻ってきた『唐糸草紙』は、愛読していたようで、至る所に手ずれが残されていたと言う。

1654年7月、勝姫が嫁いだ岡山で大洪水が発生して、大飢饉もあり餓死者は3000人を超えたと言う。
千姫は見舞金として4万両を送ったとされるが、現在の価値で40億円もの大金を所有しているはずはなく、江戸幕府に働きかけて資金を得たとされ、20万人の命を救ったとされる。

1657年1月、明暦の大火で30年住んだ竹橋御殿が焼失した時は、一時、紀州徳川家・徳川頼宣の屋敷に寄留するが、再び竹橋に新居を構えている。

1666年2月6日、千姫(天樹院)は生涯を終えた。享年70歳。
戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

亡くなった夜に、曾祖母・於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ、知恩院37世・導師知鑑により葬儀が行なわれた。

墓所は小石川伝通院と常総市の増上寺別院・弘経寺で、この弘経寺からは近年になり遺髪だけでなく遺骨も発見されている。
分骨宝塔は京都知恩院。

個人的な所感で申し訳ありませんが、下記のカラフィナの曲「symphonia」がとても曲・歌詞ともに、千姫の生涯を物語っているように思えて、この曲を聞きながら千姫の苦悩を思うと、涙が出でる思いです。
皆様も、よろしければ、下記の曲を聞きながら、上記の千姫に関してを読み返して頂けますとうれしく存じます。
Kalafinaさんもそろそろ紅白に出て良いのでは?と思うこの頃です。

(参考)→歴史秘話ヒストリアの主題歌オープニングとエンディング曲はKalafina(カラフィナ)

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コメント

    • 星  一
    • 2016年 4月 14日

    最近訪れた常総市で千姫祭りというのをやっており、千姫って聞いたことあるけど、どんな人だったかな、からこのページにたどり着きました。

    分かりやすく、また知識が深まる喜びが得られるページに出会えてよかったです。

    大変ありがとうございました。

    • 高田哲也
    • 2016年 4月 14日

    星さま、この度はコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    また、参考になりましたご様子で、何よりです。
    ご高覧、ありがとうございました。

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