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戦国時代最大とも言われる山岳戦となった三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)。
武田信玄が勝利したとも、北条氏照が勝利したとも言われるが、武田勢は約1000、北条勢は約2000の戦死者と言う激戦となった。
武田信玄の行軍
津久井城に関係する合戦として、三増峠の戦い(三増合戦)をなくしては語れない。
現在の愛川町三増が主戦場になった山岳戦だが、津久井城にも大変関わり合いがあった合戦である為、まずはその合戦に発展した経緯となる話として、武田信玄の動きを追い、滝山城攻撃、相模原を行軍、小田原撤退、三増合戦、反畑での戦勝祝いと進めたい。
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1569年8月24日武田信玄は甲府を出発。韮崎から佐久を経て、千曲川沿いに2万の兵で碓氷峠を越えて、安中を通過し、北条氏邦の鉢形城を9月10日包囲した。鉢形城を牽制しつつそのまま南下し1559年頃より北条氏照が城主だった滝山城(八王子市)を攻める為、多摩川を挟んで拝島に本陣を置いた。
当時、滝山城は平野の関東では珍しい難攻不落の平山城である。
9月26日別働隊として小仏峠から武田家臣・岩殿城主小山田信茂隊1000が進入。小仏峠は当時、道幅が大変狭く軍勢を通すのは不可能と考えられていた。北条勢は、小河内もしくは檜原からの侵攻を予想した防御を考えていた為、武田軍最強と言われた小山田隊が小仏から侵攻したのに驚き、すぐさま北条氏照は、家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守ら精鋭部隊2000の兵にて、高尾近くの十々里(とどり、現在の八王子市廿里)にて迎え撃つ作戦を取るが、北条勢の動きを察知した小山田信茂は、廿里に先着し、逆に北条勢を迎え撃った。廿里の戦いである。
小山田隊は兵力的には不利ながらも「鳥雲の陣」で迎え撃ち北条勢は敗走。北条側の戦死は251と言われている。その後、9月27日に滝山城を武田信玄本隊・武田勝頼らが猛攻撃。老将・中山勘解由、狩野一庵、師岡山城守らが抵抗するが滝山城は落城寸前になる。
本来の目的が小田原城攻めだった武田軍は、1日で攻撃を止め9月28日早朝、滝山城に悟られないよう突然城下から姿を消し2万の軍勢で、横山(八王子)・御殿峠(一部杉山峠)・相原・橋本・みぞ(上溝)・二つ田(原当麻?)・勝坂(下溝)・新道(新戸)と進軍し、座間で一泊したとされている。この頃の上溝辺りは「油井領」と呼ばれ北条氏照の領地であった。別働隊は、府中・高井戸・世田谷・目黒・藤沢・平塚と進軍したとも言われる。
とある古話では、武田信玄の軍に急ぎ加わろうとした農民が、馬を滑らすように下ったので馬坂と名が付いた坂もある。
相模原市内では景勝地・八景の棚に武田信玄が植えたとされる「さいかちの木」などが残る。実際には、軍事作戦中で随時影武者を用意したりする慎重な武田信玄本人が植樹するような暇はなかったと考えるが・・。
9月29日、相模川を渡るにあたっては、真田信綱、真田昌輝、工藤昌豊(内藤修理)、山県昌景、小幡重貞(小幡憲重)らが殿(しんがり)を努め、背後を滝山城の北条勢に衝かれる事を充分警戒しながら渡河した。武田信玄軍事作戦の慎重さがわかる。なお、座間以外に当麻、新戸、磯部から渡河した部隊もあったとする説もある。
その後、岡田・厚木・金田・三田・妻田に進み、9月30日には国府津・前川・酒匂まで寄せて、10月1日武田軍はいよいよ小田原城を包囲する。
武田信玄の小田原攻め
小田原城を囲んだ武田信玄は城下に火を放ち北条氏康を挑発するが、北条勢は武田勢到着前に近隣の村から農民を多数徴兵し城内に入れ、総勢20000にて篭城作戦を取る。
武田軍は兵糧などの不安と、越後・上杉謙信の動きや、まだ充分戦える力を持っている北条氏邦・北条氏照らの動向を考慮し、長期戦は不利と、3日間しか小田原を包囲せずに10月4日撤退を開始。鎌倉に向うと見せかけて、平塚まで進んだところで相模川を渡らずに北上。金田・妻田で一泊。津久井から甲斐に戻るルートをとる。
別の説ではもともと小田原を包囲するだけの計画だっと言う説もあるが、背後に上杉を控えるなどの状況で、武田信玄自ら小田原に出陣した事は、のちに武田軍が西上するため、駿河より関東北部の守りを固めさせようと北条氏に印象を与える=北条の駿河側の守りを薄くさせて、武田が駿河に侵攻しやすくする戦略だったと筆者は考える。ただし、もしうまくいけばある程度北条に痛手を与えておきたいと言う思惑は当然あったと思う。
ただ、この件は、後述するが、もしかしたら、北条氏康の体調が悪いことを知って、あえて、小田原城まで迫ってみたのかも知れない。
なお、武田の小田原攻めを受けて、小田原城の備えは拡張され、小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構え(これは後の豊臣秀吉・大阪城の惣構えよりも広大)が作られた。
北条氏は築城技術に優れている証拠でもあり、現在の規模の小田原城からは想像もできない。
また、落城寸前になった滝山城の代わりに、新たに八王子城が建設開始され、実際に北条勢は武田が関東に再び出てくることを想定して、関東最大の山城になる八王子城ができるなど八王子方面の防衛力を拡大しているので、武田信玄の思惑は成功したと言えるだろう。
※小田原北条氏や武田氏も従来から農民も軍に動員しており、通常は武士1に農民2が標準。矢部・鵜野森の3人は武士1人、農民2人と言うことになる。
※当麻三人衆については「当麻城」にて更に詳しくご紹介
※油井領には、溝上下(上溝、下溝)、粟飯原(相原)、新戸などが含まれている。
三増峠の戦い(三増合戦)
1569年、三増(みます)峠の戦いについての真相はわからないことも多いが、色々な諸説を総合しできるだけ現実的な説明をしたい。
北条氏照は厚木の金田の北側に連なる台地上に、物見を出しており、武田勢が金田に迫った事を察知。
このようにして、津久井を抜けて甲斐に戻る武田軍の動きを捕えた、北条氏邦・北条氏照らは、三増峠(愛川町)に布陣して、武田軍をの退路をふさぐ作戦に出る。
北条氏邦・北条氏照には、忍衆、深谷衆、江戸川越衆(河越衆)、碓井衆(臼井衆)、佐倉衆、小金衆、岩槻衆が従い、更に玉縄城(大船)から北条綱成以下、玉縄衆、子机衆(小机城)も加わり、総勢12000とも20000とも言う大軍で、三増峠の中里・上宿・下宿村に陣をとり、高所から見下ろす形で大変有利な陣形で武田軍より先に構える作戦だ。
このように地形の高低差を生かした戦い方を「山岳戦」と呼ぶが、三増峠の戦いは、両軍あわせて3万~4万の激突となる戦国時代でも最大規模の山岳戦となる。
しかし、対する武田信玄はこのとき既に50歳近い老練で、また北条に有利な体制とはいえ野戦及び山河戦に強い武田勢を迎えるのはいささか不安な北条氏邦・北条氏照らは、小田原の北条氏康にも出陣してもらい、三増で挟み撃ちにする作戦を考えた。
武田勢の進軍が本当に早いのか、小田原の北条氏康の出陣に時間がかかったのか、結局小田原からの出陣した援軍10000を待たずに戦が始まることになる。
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10月6日、武田軍は金田・田村(厚木市)・大神(平塚市)に着陣。偵察部隊や捕虜などから前方の三増峠に北条勢が対陣する構えだと武田信玄に報告が入ったようだ。
当主の北条氏康ですら篭城と言う慎重な作戦を取るのに、討って出てきた若輩の北条氏照・北条氏邦兄弟との対戦を即断したと考えられ「北条氏康でさえ簡単ではない武田との戦を、子供たちだけで何ができよう? この戦は信玄が勝利」と確信したとも言われている。
武田信玄は、即座に三増に進む決断をし、地理を把握した上で策を講じ、軍を3つに分ける。
10月7日までに、武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的としてもまず左翼隊から1200の兵を津久井城に向かわせて牽制。小幡重貞(しげさだ)(国峰城主)と、剛勇の士であり土地勘がある上野原城主・加藤景忠や上野原七騎(富田・安藤・野崎・中島・上条・石井・市川)などの上野原衆らが加わって津久井に向かったようである。
この時小幡重貞隊は、津久井城の西にある金原で枯れたとうもろこしに火をつけて回り、夜間、津久井城からは松明の群のように見えたと言う。こうして金原に武田の大軍が集結しているかのように見せかけた。津久井では今でも土地の人たちは穂先の枯れたとうもろこしを「信玄もろこし」と呼んでいる。
また、武田軍は60体のわら人形を作って本物の軍勢の如く配置した「六十面」という地名が津久井に残っている。
つまり津久井衆は武田軍の知略により、城下に武田の大軍がいると感じ、城から出ることができず、武田の撤退を許したという筋書きらしいのである。その他「勝ちどき畑」「前陣場」などの地名が三増合戦と関連して伝えられている。
結果的に、津久井城主の内藤景豊は、城からも見える三増峠へついに援軍を出せずにいる。数キロ先と近くで戦となっている以上、少人数と言えども援軍として津久井城から馳せ参じるのが普通と考えるが、同じ内藤氏一族が治めていた田代城・細野城(愛川町)もこの時既に武田軍により落城していたと推測もでき、また更に推測すると城内にいる津久井衆の半分は武田に心ある者もあり、士気も低く、津久井衆としては一番無難な「中立」の立場を取ったものと考えるのが正しいかも知れない。いずれにせよ、小幡重貞(小幡憲重)隊の牽制がうまく功をなしたことになる。
武田軍は、中央の隊に、主力として馬場信房(検使の旗本は真田昌幸)、武田勝頼(検使の旗本は三枝守友)、浅利信種(検使の旗本は曽根昌世)、そして工藤昌豊(内藤修理)率いる小荷駄隊を配置。
右翼隊には武田信玄と旗本を配置。
別働隊としては、武田信廉と一条信龍(検使は小幡昌盛)。
検使の旗本とは武田軍が取った人材配置で、部隊長が戦死したり、その部隊が混乱した際に、代行して指揮をとる副隊長みたいな役割。
武田信玄は更に、赤い軍装束「赤備え」で有名な山県昌景を中心とした真田信綱・真田昌輝兄弟ら残りの左翼隊5000に志田峠を越えさせて、長竹(韮尾根地区(にろうね))へ向かわせる。三増に陣を張る北条勢を横目に甲斐に向かったとも思える行動とも捕らえられる。
そうしているうちに、長々と続く小荷駄隊は、荷駄を捨て始め、あたかもそのまま甲斐に逃げるような行動を取った模様だ。高台にいた北条勢から良く見えたことであろう。
北条勢には武田が撤退していると見えたようで、このままでは、武田軍をみすみす逃してしまうと考えたのであろう、勇猛果敢で知られる北条綱成は我慢できなくなり、10月7日(8日未明とも)高台より下って武田勢に攻撃を開始する。(武田側から攻撃開始したとも言われる。)
※最初から北条勢が不利な低地に布陣するとは考えにくく、高台に陣を張っていた北条勢が降りて、撤退する武田勢を襲撃する直前の布陣が、甲陽軍鑑にも見られる三増合戦の布陣図となり、結果的に北条勢が低地から追いかける格好になっているのだと小生は考えています。
開戦直後は、軍を分けていた武田勢より北条勢の方が兵力も勝っていたのだろう、大道寺政繁、北条氏忠、北条氏邦)、上田氏、原氏、遠山氏ら北条勢が有利に戦を進める。
しかし、志田峠を超えてすでにいなくなっていた山県昌景ら5000が、志田峠から戻ってきて北条勢に襲いかかった。激闘の中だけに北条勢が気付くのが遅れたのかも知れない。横を突かれた北条勢は大混乱に陥り、日が暮れる頃半原山に逃げ込んだと言われている。
赤備えとしても知られる浅利信種は北条綱成勢の鉄砲に当たり戦死。浅利信種の検使として赴いていた曽根昌世は、部隊長の浅利信種が戦死すると、代わって部隊を指揮、部隊をまとめて引き揚げに成功している。
北条氏邦・北条氏照らを短期集中戦で撃破することに成功すると、小田原からの追っ手が到着して挟み撃ちになる前に、武田軍はすぐさま三ヶ木へと向かっている。
この時、小荷駄はそのまま三増に捨てて、急ぎ三ヶ木を目指したとも、言われているが定かではない。
なお、北条氏照の家臣である大石定久(大石源左衛門綱周)の伯父・大石遠江守が、武田勢に捕らわれて甲斐へ連行されている。
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10月7日夕刻には、北条氏康・氏政父子の本隊10000が現在の荻野(厚木市)まで進出していたが、敗戦を知り、小田原へ引き返した。
北条勢の戦死者約3270名は、出陣している兵力(12000~20000)を考えると大敗である。負傷者は通常戦死者数の3倍程度なので9000人はいただろう。
武田軍も約900人の死者を出し、浦野重秀が戦死するなど、まさに激戦であった。(ちなみに関ヶ原の戦いの戦死者は3000~8000人と言われているので、両軍で4000の死者を出した三増峠の戦いがいかに激戦だったか伺える。)
当初、北条氏照などの迎え撃つ北条勢は布陣に置いて有利な立場になるはずだったが、余りにも急いで進軍させた為、兵がバラバラになり、どうも全軍揃わないうちに武田と戦となったようだ。
甲斐と言う国柄か高低差を活かした山岳戦に強く、なおかつ常に慎重に戦をする武田勢は、戦場での作戦・指揮において勝った形となった。
北条勢は平地での野戦経験はあっても、山岳戦経験がなかったのも敗因の1つとされているが、武田勢は事前に北条勢の動きを察知し、敵地三増の地形や地勢を調べ上げ熟知していたとも伝えられている。
また、武田信玄は小田原攻めの一環として三増峠の戦いで勝利し「6歳も年上の北条氏康に勝ったことは本望である」と述べたも言われている。
「三増坂の一戦で北条氏邦・北条氏規らの兵二千余を討ち取ったことは、諏訪社の神力のおかげである」と述べたとも記録が残っている。
武田信玄は合戦前、工藤昌豊に「小荷駄奉行をせよ」と命じた。工藤昌豊は小田原攻めでも先陣であったことから、「しんがりはともかく小荷駄奉行は不名誉だ」と答える。それに対して武田信玄は「以前に上杉謙信の軍が小田原から引き上げる際、小荷駄部隊を崩されて敗走した。小荷駄奉行は重要な任務で、本来ならば信玄自らがしたいところなのだ」と諭し、工藤昌豊は喜んで引き受けたと言う。その後、甲斐に戻った後、これまでの軍功を賞され、内藤家の名跡を継ぎ、工藤昌豊は内藤昌豊(内藤修理亮)と改名している。(三増の戦いの前に、既に内藤家を継いでいた可能性もある。)
別説では、武田信玄は小荷駄を捨てて戦闘に専念するよう下知を下したともあり、又、真田昌輝(当時27歳前後)と、工藤昌豊は、ともに殿(しんがり)をつとめ、軍功をあげたともあるが、確かめるすべは無い。
また「甲陽軍鑑」によれば津久井城主・内藤周防が武田側の加藤丹後に討ち取られたとあるが、これも真偽は不明であり可能性は低い。
また、武田軍がこの北条勢の千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と叫び、千葉氏が寝返ったとも、千葉氏は戦意を喪失したとも言われている。
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武田信玄が本陣を置いた山の上から見ると、北条氏照勢で白い羽織を着た者が武田勝頼勢に向かって見事な働きをしていた。そこで「見事な様子だ。あれは殺さずに生け捕ってまいれ」と命令し、4人の武士がその武者を生け捕ってきた。名前を尋ねると「北条氏照配下の大石遠江(大石憲重)」と名乗った言う逸話もある。大石憲重は大石定久の弟に当たる。
ちなみに武田信玄が攻撃した八王子の滝山城はもともとこの大石氏の居城で、大石氏は北条の臣下になっていた。
津久井の「宝が峰日記」には、10月の三増峠の戦いで北条軍の捕虜となっていた武田の兵は、しばらく生かされていたが、小田原からの命によりとうとう12月28日に処刑されたと言う記録がある。しばらく生かされていたのは捕虜の中にも顔見知りの者がいたからだとされており、津久井の半敵地を表している。
近代1998年1月5日、三増の「塚場」と呼ばれる場所で、人骨と六道銭が発見された。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性で、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭との事。地元では「相模国風土記」に記述がある北条氏の家臣・間宮善十郎の墓であるとの説もあり、当時の戦死者のものとされている。
三増峠の戦い後の武田信玄退路
三増峠の戦いのあと、武田軍は長竹に出て、串川を経由し、大橋の六間入口バス停付近から、青山に向かい、三ヶ木に出た。
串川から新屋敷のバス停に続く現在の412号の道路は後世にできたものなので、戦国時代、串川から青山に向う道は、大橋の光明寺の手前で分かれていたことが伺える。
そして道志川を渡るに当たっては、少しでも時間を短縮する為、2手に分かれて、本隊は、三ヶ木・落合坂・沼本の渡しから、別動隊は三ヶ木新宿・みずく坂(七曲坂)・道志へと渡って、そり畠(反畑)で合流する。
そり畠(反畑)は現在の相模原市相模湖町寸沢嵐辺りと思われる。
ここなら、仮に北条が追撃してきても、また津久井城が討って出てきても、深い谷になっている道志川が天然の防壁となり追っ手が来ても充分対応が取れるので、安全な場所として選んだのであろう。とても慎重に戦を行う武田信玄の緻密な計算がここでも垣間見られる。
通常、勝ち戦の場合、首実検は合戦場付近で行うものだが、戦となった三増峠から10km以上離れたこの地にて、戦勝の儀をと首実検を行い、両軍戦死者の魂を弔った。
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「首洗池」と言う、討ち取った首を洗ったとされる池が現在もある(ただし、水はない)。そして、浅間の森にて丁重に埋葬した。現在、浅間神社の碑がある場所とされている。
三増からも、津久井城から追っ手が来ても、防戦に向いている道志川を渡った山河地で首実検をしたと言うことは、やはり北条本隊との決戦を避けたと言える。
その翌日には、自国領である都留郡の諏訪明神で夜営をしたが、傷を負い、寒さに凍えた兵が、拝殿を壊して薪にしたが武田信玄は黙認したと言われている。今で言えば12月上旬の時期であり、寒い訳である。藤野の由緒ある「石楯尾神社」の社殿も壊した燃やしたと言う記録がある。
このように三増峠の戦いにおいて、戦闘では勝利を収めた武田勢であったが、その後も津久井は北条が支配していることから、戦略的には北条勢が勝ったと言える合戦である。その為、どちらも勝利したと公言したのであろう。
※匿名だったためお名前が不明ですが、お寄せ頂いた情報も交えて掲載
三増合戦直後にあった青根での戦闘
実は、三増峠の戦いで、うまく退却した武田勢だったが、その甲斐への退路にて、もう1つ戦闘があったことはあまり知られていないのでご紹介したい。
武田本隊は、津久井から青山を経て、現在の甲州街道に出て上野原経由で帰路についたと考えるが、別の一隊は現在の道志みち(国道413号)で帰った。推測するに、この道を通ると最短距離で帰られる、郡内方面(都留市)の一隊と考えられ、小山田勢の一派である可能性がある。
その退却する武田勢を、北条勢として動いていた日向薬師の山伏が補足し、現在の青根(駒入原)で戦闘を行った。
恐らくは、火急の知らせを聞いて、日向薬師(伊勢原)の山伏(僧兵)は、宮ヶ瀬方面から、津久井城辺りへと進出したのであろう。北条傘下の山伏は、日向薬師、八菅山七社権現、心源院(八王子)などが北条勢の軍の一部として、諜報活動・戦闘部隊として活躍していたのは知る人ぞ知る話である。要するに、北条氏が寄進(経済的支援)していた寺などは、その恩に報いるため、北条危うしの際には軍隊を出していたのだ。
この青根での戦闘では、日向薬師・八大坊の「前大先達権大僧都勝快法印(勝快法印)」を始め、日向薬師の山伏の多くが討死したようで、現在も「法印の首塚」があり、青根の諏訪神社には山伏たちを祭った八幡宮がある。
日向薬師の山伏が、はるばる青根にて武田勢と戦闘と言う事を考慮すると、恐らくは100人程度の手勢だったのではないだろうか?
伝説によると、日向薬師の山伏は、武田勢を待ち伏せしたとされているが、待ち伏せしたことを小生はすんなり受け入れられない。なぜ、待ち伏せした地が青根だったのだろうか? 武田本隊は甲州街道から帰るのは最初から分かっているし、不意に落ちない点が残るが、資料が乏しくは詳しくは不明である。
この青根は当時、北条の勢力下であり、武田信玄の父・武田信虎も軍勢を青根に出したことがある記録も残っている。
戦功のあった小川氏
相模原の田名新宿に居住していた小田原北条側の武士、小川通民は、田代城主・内藤秀行(内藤三郎兵衛秀行)の家臣として志田峠に出陣していたが、戦功抜群として50貫文の加増と上腰刀を得ている。北条氏が三増峠の戦いは武田の勝ちではなく、北条側の勝利と称していた証拠でもある。
武田滅亡後、相模原に土着した旧武田家臣
武田滅亡に関しては小山田信茂と武田氏滅亡天目山の戦いにてご紹介している為、ここでは割愛するが、武田滅亡後、相模原に土着した旧武田家臣、木下信久、渡辺是念、島田元忠が田名新宿に土着した。
三増峠の戦いを検証
これまでは、一般的に言われている三増峠の戦いをご紹介してきたが、ここからは実際の戦闘状態に関して、検証してみたい。
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小田原城から撤退を開始した武田勢が、津久井を抜けて甲斐に戻るとの動きを察知した、北条氏照・北条氏邦らは、三増峠(愛川町)に布陣して、撤退する武田勢を迎撃する体制を整えた。
北条氏邦・北条氏照には、忍衆、深谷衆、江戸川越衆(河越衆)、碓井衆(臼井衆)、佐倉衆、小金衆、岩槻衆。
玉縄(大船)から参陣した北条綱成以下、玉縄衆、子机衆(小机)。
北条氏忠、高城蔵人、原胤栄、上田朝直らも参じている。
後年に描かれた三増峠の戦いの合戦図は、最初の布陣とは考えにくい。
この図だと、甲斐へ退却する武田勢を追いかけるように、北条勢が不利な布陣となっている。
先に三増峠に布陣したのが北条勢だと言う点を考慮すると、どう考えてもおかしい布陣であり、恐らくは最初に布陣した場所は異なるところで、その後、甲斐方面へ撤退開始した武田勢を追いかけるような形となり、合戦の火蓋が切られる「直前の布陣」なのだろうと推測される。
もっとも、この合戦図が描かれたのは江戸時代だと推測できるため、もともと信憑性の問題もある。
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実際の北条勢は、相模原から進軍してきたのだろうから、三増峠へと繋がる中里村・上宿村・下宿村を見下ろす高台に布陣したのだろう。
この場所に布陣したと言うのは伝承からもハッキリしているが、最大の理由は、武田信玄が甲斐へ戻る際の経路の問題がある。
この高台に北条勢が布陣することで、急に相模川を渡って相模原方面に武田勢が向かっても、三増峠方面に武田勢が向かっても、この位置からだとスムーズに軍を展開できる。
そして、高所から見下ろす形で大変有利な陣形で武田軍より先に構える作戦で、定石とも言える。
更に、武蔵各地から遅延して到着する北条勢も、ここであれば合流しやすい。
仮に武田勢が三増峠方面に向かえば、津久井城の1000を三増峠まで進出させることで塞ぐことも可能だ。
仮に北条勢の主力が三増峠に布陣して、完全に武田勢の退路を断つ構えを見せれば、武田勢は三増峠を避けて、相模原方面に転進し、逃してしまう恐れもあり、そうすると空っぽの滝山城が危険にさらされる事になる。
そのため、小生は、下記の図のように北条勢が布陣したと推測している。
武田信玄が、戦いのあと、苗木遠山家を仲介して織田信長に合戦の報告をした際には「三増峠を左に置いて陣を布いて戦った」と書いている事も考慮すると、上記の布陣の可能性が高い。
1569年10月7日には上記に布陣となり、武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保のため、左翼隊から小幡重貞や加藤景忠ら上野原七騎1200を津久井城に向かわせた。
武田軍は、主力として馬場信房(検使の旗本は真田昌幸)、武田勝頼(検使の旗本は三枝守友)、浅利信種(検使の旗本は曽根昌世)を配置し、後方に武田信玄と旗本が布陣。
上記の布陣を見てもわかるとおり、武田勢は甲斐へ撤退するための布陣を取ったものと推測できる。
三増峠へ繋がる街道を進んでは、横と背後からと襲撃される可能性があったため、志田峠から津久井へ行く退路しかなくなった。
そして工藤昌豊(内藤昌豊)が率いる小荷駄隊を配置して、北条氏照らと睨み合いになったものと考える。
北条勢も小田原城から出陣した北条氏康らの本隊が到着するのを待つため、すぐには攻撃を控えていた。
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武田信玄としては、このまま睨み合いを続けて、北条氏康の本隊が到着するのもマズイため、まずは工藤昌豊(内藤昌豊)の小荷駄隊を志田峠から撤退させて、山県昌景・真田信綱・真田昌輝ら5000も志田峠を越えさせ、順次撤退を開始したと考えられる。
北条氏照も滝山城の戦いで少なからず被害を受けていたし、もしかしたら、傍観するだけで戦闘にはならない可能性も考えての事だろう。
しかし、まだまともに武田勢と戦っておらず、戦力も被害が無い北条綱成だけは違った。
武田勢の3分の1である5000が志田峠に向かったのを高台から見ていた北条綱成には、弱腰となった武田勢が撤退していると見えたようで、目の前の武田勢をみすみす逃してしまうのは、武門の名折れと考えたのだろう。
地元では、武田勢が退却するように見えた北条氏忠が下知したとも伝わる。
勇猛果敢で知られる北条綱成は我慢できなくなり、10月7日(10月8日未明とも)高台より下って武田勢に攻撃を開始した。
これを見て、北条氏照・北条氏邦らも三増の平原へと進軍し、武田勢に攻撃を開始したと考えられる。
開戦直後は、大道寺政繁、北条氏忠、北条氏邦ら北条勢が有利に戦を進めた。
長い出陣となっている武田勢の疲労度が濃かったことも起因しているだろう。
北条綱成の鉄砲隊が、武田重臣・浅利信種を討ち取ってもいる。
しかし、志田峠を超えてすでにいなくなっていた山県昌景ら5000が、志田峠から戻ってきて北条勢に襲いかかった。
激闘の中だけに北条勢が気付くのが遅れたのかも知れない。
横を突かれた北条勢は大混乱に陥り、日が暮れる頃には半原山に逃げ込んだと言われている。
また、元根来法師で山県昌景の家臣・鳶二位(とびにい、鳶大弐の弟)が、武藤喜兵衛(真田昌幸)が馬場春信の備えで一番槍をしたと聞き、二番槍は嫌だとして槍を捨てて、刀を抜いて北条の武者8人を倒すと言う抜群の働きもあったと言う逸話もある。
10月7日夕刻には、北条氏康・氏政父子の本隊10000が現在の荻野(厚木市)まで進出していたが、敗戦を知り、小田原へ引き返した。
なお、甲府に戻った武田信玄はまたすぐの1569年11月に駿河に再び侵攻し、深沢城・足柄城・河村城・大仏城山・湯ノ沢城・中川城などを一時占拠したと考えられます。
北条氏康・北条氏政は1570年4月になってから、深沢城などを奪還したと推測され、11月の武田侵攻時には軍勢の動員ができていないため、三増峠の戦いにて北条勢が大打撃を受けたのは本当だった可能性がある。
信玄本陣跡(旗立て松)
三増峠の戦いの際に、武田信玄が本陣を置いた場所とされるのが、厚木東名カントリークラブの中にある「旗立て松」の丘(標高309m)だ。
ゴルフ場の中にあるのだが、営業時間内であれば見学が可能となっている。
緑が茂る前の春先に実際に訪問してみた。
行き方(アクセス)は、厚木東名カントリークラブの駐車場をまず目指す。
ゴルフ場までは急坂なので、自動車で行くのが便利。
大きな駐車場に入る手前のカーブ左側に、何台か止められるスペースがあるので、ありがたく短時間駐車させて頂いた。
そして、電動カートで移動するコースをちょっと抜けて行くと、旗立て松への登り口が見えてくる。
あくまでもゴルフ場の敷地内なので、電動カートの走行を邪魔しないように、道の端を歩いて頂きたい。
駐車場は標高243mだったので、約66mの比高を5分~10分で登って行く、かなり急峻な計算となる。
歩行路は日頃よりゴルフ場の方が整備なさっているようで、比較的良好な登山道となっている。
日頃不節操な小生は、息がゼイゼイ状態となった。夏場ならドリンクが必須だろう。
頂上部分は、ちょっとした尾根になっており、西と東へ100mくらいは移動できるようになっていた。
信玄旗立松に関しては、現在は枯れてしまっており、石碑が立っている。
しかし、展望はなかなか良い。
木を斬り倒していたら、360℃の展望があったことだろう。
北条氏康本隊が進軍してくる方角もバッチシ見える高台だ。
上記は、信玄旗立松の本郭の一番東側から、北条勢が最初に陣を張ったと考えられる中里方面の山並みを望む展望写真。
遠方には相模川の向こう側にある相模原市の街並みが見える。
実際のところ、この高台は戦場を見渡せることから、北条勢の動きを監視するために使用したのだろう。
山頂部分はそんなに広くなく、大部隊の展開は不可能であり、少人数では警備上の問題や、万が一、囲まれた際には詰んでしまう恐れがある。
そのため、ここに本陣を置いたわけでは無く、武田信玄は行動しやすい麓にある高所に旗本と共に布陣したと見て良い。
下記のポイント地点は小生が車を止めさせて頂いた場所。
首塚
三増峠の戦いにおける首塚があります。
武田勢は、通常は戦場で行う「勝鬨」も上げずに、撤退を急いだため、この首塚は恐らく、後処理をした地元民が建てたものか、一時、陥落した田代城に戦いのあとに駐留した北条勢によって、埋葬された地かも知れませんね。
下記のポイント地点は首塚がある場所。
胴塚
上記写真は、胴塚の案内板です。
首塚の地点から大通りを南方面に100mほど行ったところにあります。
なお、塚じたいはこの案内板裏手のやぶの中にあるようです。
人が入ったような跡はあるのですが、かなりのヤブとなっているようであり進入が困難なので、やめておきました。
三増合戦まつり
毎年「秋」には、三増合戦まつりも開催されています。
北条家戦力ダウンの可能性
驚きの発見があったのですが、1569年の三増合戦から、約2年後になる、元亀二年、1571年7月16日、武田信玄が清浄光寺(遊行寺)に藤沢200貫、俣野(戸塚区)100貫、合計300貫を寄進しているがわかりました。
清浄光寺(遊行寺)は、鎌倉や江ノ島から近い、藤沢の御幣山城を、1569年の小田原攻めから、武田勢が支配していたと考えられるのです。
のち、北条氏政が、御幣山城を奪還したと言う事になっているのですが、上記の寄進状からは、少なくとも、1571年7月の時点で、藤沢は武田領だったとも考えられる訳です。
もし、本当に、2年近く、北条氏の本拠地・相模国にある藤沢を、武田勢が領していたとしたら、かなり、驚きです。
確かに、北条氏康は、三増峠の戦いから、10ヶ月たった頃(1570年8月)には、すでに中風(脳卒中)で倒れていたようで「呂律が回らず、子供の見分けがつかず」と言う記録も残っています。
実際には、それより以前から病に伏せっていたとしても、おかしくないですし、三増峠の戦いで、北条氏康の出陣が遅れたなど、北条家は武田勢の攻勢に対し、適切に対処できていません。
そんな状況を察したのか、甲斐に戻った武田信玄は、すぐに駿河・伊豆方面を攻略開始し、蒲原城、駿河・深沢城などが、陥落して、韮山城や興国寺城も攻撃しました。
また、上杉謙信との同盟を急いだ北条家は、1570年4月、上杉家の養子として北条三郎を、春日山城に送っています。
1570年6月には、武蔵・御嶽城の平沢政美(平沢豊前守政実)が武田氏に離反するなど、ピンチが続き、北条氏は上杉謙信に援軍派遣を、強く求めています。
となると、三増合戦で、北条氏は、かなり兵力を失っていたのと、北条氏康の状態も悪かったのかな?と感じます。
そして、上杉氏から援軍が来ないのが分かると、武田信玄との同盟を模索するようになりました。
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北条氏康は、三増合戦から約2年後の1571年10月3日、小田原城にて死去しました。享年57。
死後の12月27日、北条氏政は上杉謙信との越相同盟を破棄し、武田家と再同盟した次第で、駿河国駿東郡や西上野は武田家支配となり、興国寺城にも武田勢が入りました。
これらの同盟条件は、武田氏側に有利な内容と言えますので、実質的に北条家は負けたと言えるでしょう。
武田信玄は、三増峠の戦いのあと、駿河方面だけでなく、北条氏の上野・沼田城や、前橋城にも攻勢をかけていましたので、単純に駿河に出たかったため、小田原攻めをしたと言う事でもありません。
ただし、有利に戦いつつも、同盟に同意したと言う事は、北条氏を潰すと言う事ではなく、もっと、大きな目的があったことだったのでしょう。
家督を継いだ北条氏政は、早々に関東になだれ込む、上杉の軍勢と対することになりました。
このように、三増峠の戦いにて、戦力ダウンしたと考えらる北条家は、かなりピンチだったようでして、藤沢の御幣山城ですら、手が回らない状態だったとも考えられる次第です。
三増峠の戦いは、戦略的には、武田氏の勝利と言える由縁です。
・浅利信種の墓碑に関してはこちら
・武田勢の首塚と首洗い池はこちら
・三増合戦祭り(毎年10月)
・間宮善十郎と間宮康俊~北条家臣と間宮林蔵・杉田玄白の意外な関係
・廿里の戦い(とどりのたたかい)~小山田衆と滝山衆が高尾で行った合戦
・小幡昌盛と真田丸に果敢にも突撃した小幡景憲とは?【甲州流軍学者】
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