徳川秀忠~徳川幕府第2代将軍~凡庸ではなかった武勇ある実直な武将


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 徳川秀忠(とくがわひでただ)は、1579年4月7日に遠江・浜松城にて誕生した。
 父は徳川家康で、その3男であり、幼名は竹千代成と名付けられた。
 母は側室の西郷局(於愛の方、宝台院)で、乳母・大姥局によって養育されたと言う。

 長兄・松平信康は、徳川秀忠の生まれた年に切腹。
 次兄・結城秀康は、豊臣秀吉の養子になったため、3男の徳川秀忠が徳川家の後継者となった。

 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、実質的な人質として10歳で上洛すると、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁・元服し、秀忠の名を賜った。
 そして、織田信雄の娘で、豊臣秀吉の養女となった小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉の怒りを買って織田信雄が改易されると、離縁している。

 1595年9月、豊臣秀吉の仲介で、浅井三姉妹の一人である浅井長政の娘・於江与(お江、お督、崇源院)と再婚。
 1597年4月11日には、伏見城の徳川屋敷で千姫が誕生するなど、お江との間に2男5女を儲けた。
 なお、側室は持たなかったが、一度だけ女性に手をつけて保科正之が生まれてしまい、子に会うこともせずに保科家に養子に出している。

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 1600年、関ヶ原の戦いでは、東海道を進む徳川家康本隊に対して、徳川秀忠(21歳)は別働隊の指揮を任され中山道から近江を目指した。

 進軍途中、上田城にて真田昌幸真田幸村の抵抗を受けると、3万8000の大軍を率いながら、わずか2000の真田勢に時間を浪費したため、上田城攻略を諦めて、関ヶ原に急いだが、天候不順にる増水で川を渡れないなど行軍が遅れ、9月15日の関ヶ原決戦に間に合わないと言う失態を犯してしまい、徳川家康の勘気をこうむった。

 この時、徳川秀忠の経路としては、下記の通りになる。
 9月11日に小諸城を出立。
 9月12日、諏訪郡鍛治が原(下諏訪町)に到着。
 9月13日、下諏訪(下諏訪町)に到着
 (9月15日、関ヶ原合戦)
 9月16日、木曾福島城(木曾福島町)に到着。
 9月20日、近江草津(滋賀県草津市)に到着するも、徳川家康の命により滞在。
 9月23日、京都伏見にて、父・徳川家康と対面。

 実際、9月20日に大津城にて徳川家康に対面を求めたが、会ってもらえず次期将軍の座も危うくなったが、もっとも、徳川家康も子だけに甘い顔をすることなく、厳しく接したのだろう。
 しかし、榊原康政の取り成しで、伏見城での徳川家康との対面が許された。

 1603年、征夷大将軍に就任した徳川家康は、将軍家世襲を狙い、徳川秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)とし、将軍継承が内定した。
 そして、2年後になる1605年、徳川家康は将軍職を譲り、東国の諸大名16万の上洛軍を率いた徳川秀忠が、伏見城で宣下を得て徳川幕府第2代将軍となった。
 この年、7歳の千姫が大阪城の豊臣秀頼と結婚。

 隠居した徳川家康は、江戸城から駿府城に移ったが「大御所」として江戸幕府の実権を握り続けたため、徳川秀忠はおもに東国を中心とした大名の統率に当たった。

 1614年の大阪冬の陣、1615年の大阪夏の陣には大軍を率いて総大将として出陣。
 遅参しないと、大坂の役では逆に強行軍をし過ぎて、兵は疲労困憊となっており、徳川家康から叱責されている。
 大野治房に一時本陣を脅かされたが、槍を取り奮戦するなどの武勇も見られ、淀殿・豊臣秀頼らが自決後は、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを大御所と共に整備・定着させた。

 徳川家康は死期を悟ると、徳川秀忠が本当に後継者たり得るか、試したと言う。
 「ワシの命もあとわずか。この後、天下はどうなると思うか?」と問うと、徳川秀忠はこう答えた。

 「乱れます」

 「それさえ分かっていれば、問題なし。」と家康は安堵し、1616年に死去した。

 こうして、徳川秀忠は名実共に江戸幕府の主導者となり、自分に従わない弟の松平忠輝や譜代の本多正純を改易し、側近の酒井忠世・土井利勝・安藤重信らを老中に起用するなど、リーダーシップを発揮。
 二代目として徳川家による平和を維持するため、冷徹に反対派になるかもしれない勢力を次々に静粛する政治を実行した。

 大名統制を強化し、福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)ら外様23家、親藩・譜代16家を改易させ、年の離れた弟3人を尾張(徳川義直)・紀伊(徳川頼宣)・水戸(徳川頼房)に配置し、自身の子・徳川忠長にには駿河・遠江・甲斐を与えた。
 また、娘・和子を後水尾天皇に入内させ、朝廷との関係も強化し、鎖国政策としては、オランダ外国船の寄港を平戸・長崎に限定させている。

 淀殿が父・浅井長政の供養のために建立した京都・養源院が1619年に火災で焼失すると、お江の願いを聞き入れて、1621年に江戸幕府が再建もしている。

 1623年、徳川秀忠は将軍職を子の徳川家光に譲り、江戸城西ノ丸に隠居すると大御所として君臨し、しばらく二元政治を行った。

 1626年、徳川秀忠・徳川家光・徳川忠長の上洛中に、お江の方が死去。享年54。

 1627年、紫衣事件により後水尾天皇が退位すると、和子の娘・明正天皇が即位。

 1631年には、徳川忠長の領地を召し上げ蟄居を命じたが、このころから体調を崩し、1632年1月24日に薨去した。享年54。

 遺骨から推定される体格は、身長159cm程度で筋肉質、血液型はO型であった。
 銃創の痕跡が複数見つかっていることから、果敢にも戦では前線で活躍していたものと推測されている。

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