豊臣秀頼 (拾)~天下に翻弄された波乱の生涯と玉造稲荷神社


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 豊臣秀頼は、1593年8月3日、大阪城にて誕生した。
 父は、太閤・豊臣秀吉(57歳)で、母は、側室・淀殿(茶々)。

 幼名は「拾」。1591年に僅か3歳で亡くなった兄・鶴松には「棄(すて)」と名付けていたことから、豊臣秀頼は「拾(ひろい)」となった。

 乳母は3名おり、宮内卿局・右京大夫局(一説には両者は同一人物とも?)・正栄尼と伝わる。
 なお、淀殿の乳母であった大蔵卿局(大野治長の母)が養育係を務めた。

 兄・鶴松が亡くなった時点で、豊臣秀吉は、関白の座を甥の豊臣秀次に譲り、後継者としていたが、拾(豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉は豊臣秀次から関白を豊臣秀頼に継承させるように考え始めた。
 そして、誕生した2ヶ月後の1593年10月には、前田利家を仲介人にして、豊臣秀頼と豊臣秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳の2歳)を早くも婚約させている。
 また、、日本を5つに分けてその4つを豊臣秀次に、1つを豊臣秀頼に与えると豊臣秀吉は公言した。

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 しかし、豊臣秀吉は拾(豊臣秀頼)にどうしても跡を継がせたいと考え、ついに1595年7月、豊臣秀次から関白職を奪って、自刃させた。
 この際、豊臣秀次の妻女や妻妾、子なども大半が処刑されている。
 また、諸大名に豊臣秀頼に忠誠を誓約する起請文への血判署名をさせ、こうして、豊臣秀頼は豊臣秀吉の継嗣としての地位が確定した。

 1596年9月、禁裏で元服し、豊臣藤吉郎秀頼と称した。
 1597年、伏見城が完成すると、豊臣秀吉と淀殿は居城を移して、豊臣秀頼も従っている。

 豊臣秀吉は、五大老・五奉行などの職制を導入し、幼い豊臣秀頼を補佐する体制を整え、徳川家康の跡継ぎ・徳川秀忠の娘・千姫と豊臣秀頼との婚約を約束させたが、1598年8月に豊臣秀吉は伏見城にて没した。
 豊臣家の家督は、豊臣秀頼(6歳)が継ぎ、遺命により1599年に居城を大坂城に移し、五大老筆頭の徳川家康が大阪城・西の丸にて政務を取った。

 しかし、徳川家康が影響力を強め、前田利家も死去すると、石田三成らとの対立が深まり、やがて関ヶ原の戦いとなる。

 1600年、蟄居していた石田三成が蜂起し、関ヶ原の戦いとなると、西軍の大将・毛利輝元が大阪城に入り、豊臣秀頼を保護した。
 この時、豊臣秀頼の親衛隊である七手組(ななてぐみ)の一部が西軍として戦闘に加わっている。

 結果的に石田三成は敗れたが、勝利した東軍・徳川家康も「秀頼公のため」との大義で戦った為、戦後、豊臣秀頼は大阪城を訪れた徳川家康を忠義者として労している。

 しかし、徳川家康は勝手に論功行賞を行い、日本全国に分散していた豊臣家の所領約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分が奪われ、豊臣家の摂津・河内・和泉の直轄地65万石のみを領する、一大名の立場に転落した。
 ただし、近年の研究では、諸国の蔵入地からは引き続き収入を得ていた形跡があり、公儀としての性質を保っていた事が判明している。

 1603年2月、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開き、諸大名に命じて江戸城の普請を行わせた。

 年始・歳末や端午・八朔・重陽などの節句には、全国各地の大名から豊臣秀頼に祝儀が届けられ、毎年年頭には、勅使以下、親王・門跡・公家が残らず大坂城に下向して秀頼に年賀の礼を述べるなど、朝廷からも豊臣秀吉生前同様の扱いを受け、摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進をしており、1605年4月23日には、右大臣に昇進。

 豊臣家は摂関家であり、徳川家や前田家・毛利家などは一段低い清華家となっており、この家格は徳川家康が征夷大将軍になっても有効であり、豊臣秀頼は摂関家の当主として将来の関白の有力候補であった。
 豊臣家では、政権はいずれ徳川家康から豊臣秀頼に返されると考えていたが、徳川家康は1605年4月16日、徳川秀忠に将軍職を譲り、政権が徳川家で世襲されることを明確にした為、豊臣家の天下はなくなり淀殿らは激高。
 豊臣秀頼が右大臣に昇進した際、徳川家康は豊臣秀頼の上洛と京都での会見を希望したが、淀殿の反対で実現しなかった。
 これに対して、徳川家康は、6男の松平忠輝を大坂城に派遣し、豊臣秀頼と会談させている。

 1607年1月11日、豊臣秀頼は右大臣を辞したが、1607年7月、かねての約束通り、7歳になった千姫(淀殿の妹・お江の娘)が乳母・刑部卿局とともに大阪城に入り、婚儀を行った。この時、豊臣秀頼は11歳。
 夫婦仲は良かったとされるが、子は産まれていない。

 1608年、豊臣秀頼の側室・伊茶(渡辺五兵衛の娘)との間に、嫡男・豊臣国松が誕生。
 1609年には、長女と考えられる天秀尼(母は不詳)が誕生。

 1611年3月、徳川家康の計らいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、豊臣秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正浅野幸長に守られつつ上洛し、京都・二条城にて徳川家康と会見した。

 豊臣秀頼は身長2m近くの太った巨漢で、武芸にも秀でており、対面した徳川家康は風格に恐れをなし、攻め滅ぼす動きに出たとも言われている。

 徳川家康も、将来の豊臣秀頼の扱いに迷っていたが、1614年に起こった方広寺鐘銘事件を口実に、豊臣家を滅ぼすことを決意し、大坂冬の陣が勃発した。
 豊臣秀頼と淀殿は福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に味方するよう書状を送ったが、大坂方に参じる者はほとんどいなかった。
 その為、関ヶ原の戦いで改易された真田幸村(真田信繁)・後藤又兵衛(後藤基次)・長宗我部盛親毛利勝永明石全登などの他、浪人していた数万の武士を集めて大阪城に入城させた。
 大坂冬の陣では、真田丸にて真田幸村が奮戦するなどし、幕府勢を撃退していたが、幕府勢は昼夜を問わず大阪城に砲撃を加えた。
 その為、砲弾に怯えた淀殿が和議を主張し、徳川家康が提案した和議に応じた。

 和議により、大阪城は外堀を埋める事となったが、幕府勢が自ら工事を進めて、外堀だけでなく内堀も埋めて、城郭の一部も破壊。
 大坂方は抗議したが、逆に幕府からは浪人の総追放や国替えを要求された。

 1615年、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否して、堀を掘り返し始めたため、徳川家康は和議が破られたとして大坂夏の陣となった。

 もはや、大阪城の籠城で撃退するのは不利と見た大坂方は、野戦に出て徳川勢を迎え撃った。
 しかし、浪人中心で各部隊の統制が取れない大坂方は、敗戦続きとなり、決戦を挑む為、真田幸村らは、総大将・豊臣秀頼自らの出陣を願ったが、淀殿らが強固に反対し実現しなかった。
 天王寺・岡山の戦いは戦国にして最大の被害の合戦となり、大坂方は約15000が討死。
 真田幸村、後藤又兵衛、明石全登らが乱戦のさなか、討死を遂げた。

 大阪城には幕府軍が乱入し、天守閣が炎上。
 城に火をつけて寝返った家臣を、豊臣秀頼が石垣の上から落としたと言う話をオランダ人が記録にもつけている。
 豊臣秀頼・淀殿らは、山里丸に逃げたが、やがて徳川勢に包囲され、豊臣秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害し豊臣家は滅亡した。
 結局、初陣を飾ることなく自ら命を絶った豊臣秀頼は享年23歳。
 墓所は京都市東山区の養源院ほか、また大阪市中央区の豊國神社にも、父・豊臣秀吉や叔父・豊臣秀長と共に豊臣秀頼も祭神とされている。

 大阪城に入っていた嫡男・国松は逃亡を試みたが捕まり、京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首。享年8歳。
 千姫は、徳川家康の命により救出され、豊臣秀頼の娘・奈阿姫(天秀尼)は、千姫が自ら養女にして、必死な助命嘆願をした為、命は助けられ、鎌倉東慶寺にて仏門に入った。
 この時、豊臣秀吉の側室であった甲斐姫も、奈阿姫(天秀尼)に従い東慶寺に付き添ったと言われる。

 1980年、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で、3名の頭蓋骨と馬1頭の頭の骨が発見された。
 骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨のうちのひとつは20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から豊臣秀頼のものではないかと推測された。
 その後、遺骨は昭和58年(1983年)、京都の清凉寺に埋葬されている。

玉造稲荷神社

 大阪城からもほど近い玉造稲荷神社は豊臣秀頼ゆかりの史跡にもなっています。

 玉造稲荷神社がある場所は、もともと大坂城三ノ丸で、豊臣秀吉が崇敬した稲荷神として大坂城の鎮守神にしました。

 別称は豊津稲荷神社とも呼ばれます。

 玉造禰宜町には千利休の屋敷があったとされ、境内には千利休ゆかりの井戸もあります。
 さて、社殿の右奥に行きますと、豊臣秀頼ゆかりの史跡が集中しています。

 上記は豊臣秀頼公胞衣塚(よなづか)と言い、胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)として、母・淀殿が豊臣秀頼を産んだ際の胞衣(卵膜、胎盤など)が祀られています。

 1603年3月に豊臣秀頼が寄進した石鳥居もあります。

 本殿正面(上記写真)に豊臣秀頼寄進の鳥居があったそうですが、阪神大震災にて損傷したため、上部、脚部に分けて保存しているとの事です。

 このように、豊臣秀頼の銅像もある玉造稲荷神社は、大変豊臣家とゆかり深い神社なのです。

 玉造稲荷神社へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が入口となります。
 三光神社と大阪城との中間地点となりますので、是非、セットでご訪問なさってみてください。

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