長篠の戦い(設楽原の戦い)考察と訪問記・戦跡・史跡・場所・写真・地図


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長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が12000にて決戦を挑んだ長篠の戦い(設楽原の戦い)。

1575年5月、武田勝頼は、上杉景勝の抑えとして海津城高坂昌信に10000を残し、15000にて長篠城を包囲。
5月8日に長篠城の周囲に砦や陣地を築くと、長篠城を孤立させた。
この時の長篠城主は奥平信昌で手勢は僅か500であったが、鉄砲は200を擁し、良く耐えていた。
しかし、陥落寸前となり、有名な鳥居強右衛門の話となる。
鳥居強右衛門は城を脱して、岡崎城へ向かい徳川家康に援軍を求めた。

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この時、岡崎城には、ちょうど織田信長30000の援軍が到着し、5月16日に軍を進める。

織田軍は、織田信長(42)、織田信忠(19)、河尻秀隆柴田勝家(54)、丹羽長秀(41)、羽柴秀吉(39)、佐久間信盛(48)、滝川一益(51)、佐々成政(40)、前田利家(38)、水野信元、前田利家(38)、野々村正成、明智光秀ら30000。
徳川軍は、徳川家康(33)、松平信康(17)、石川数正本多忠勝(28)、榊原康政(28)、鳥居元忠大久保忠世(44)、大久保忠佐(39)、大久保忠教、高木清秀、成瀬正一、日下部定好ら4000。
※カッコ内は年齢

5月18日、徳川・織田の連合軍は長篠城の手前である設楽原の丘に布陣すると、武田軍をすぐに攻撃はせず、陣地を築き始めた。
鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を取る。

これに対して、武田勝頼(30)、武田信廉、小山田信茂(37)、武田信豊穴山信君(35)、望月信永、馬場信春(61)、山県昌景(47)、内藤昌豊(54)、原昌胤、真田信綱(39)、真田昌輝(33)、跡部勝資土屋昌次(32)、土屋直規、横田康景、小幡信貞、甘利信康らは、軍議を開く。
山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは織田信長自らの出陣を知り、甲斐への撤退を進言したと言われるが、武田勝頼は決戦を行うことを決意する。
長篠城の牽制に河窪信実、三枝守友(39)、名和宗安、飯尾助人、五味高重、小山田昌行、高坂昌澄、山本勘蔵ら3000ほどを残して、残り12000を設楽原に向けた。

ちなみに、長篠の村民は小屋久保(こやんくぼ)などに避難したと言います。

長篠城ではすでに兵糧が尽きて、睨み合いが続く間に壊滅は必至だった事もあり、別働隊となる酒井忠次は弓・鉄砲に優れた兵と選びだした。
織田軍の目付としては金森長近、佐藤則足、武藤次久が参加し、徳川勢は酒井忠次を大将に、松平康忠、松平伊忠、松平家忠、松平清宗、本多広孝、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用、設楽貞通、阿部定次、鈴木重好、豊田秀吉(豊臣秀吉ではありません)、牧野康成、松平真乗、設楽貞道、戸田重光、本田宏孝、名倉俊光、そして鉄砲頭としては青山幸忠、加藤景村の名が見られる。
この長篠城救援隊4000は、5月20日夜の間に鳶ヶ巣山の背後から500丁の鉄砲を携え長篠城へ接近した。

これは、軍議で酒井忠次が進言したところ、織田信長によって退けられたが、軍議のあとすぐに呼び出されると、織田信長は、武田の間者を警戒し、軍議の場では許可しなかったが、妙案ゆえすぐに実行するようにと言われたと言う逸話がある。

武田勢の長篠城の包囲網である鳶ヶ巣山砦(とびがすやま)(武田信実、小宮山信近)、中山砦(五味与惣兵衛、名和無理之助、飯尾助友、飯尾祐国、名和田晴継)・久間山砦(ひさまやま)(和気善兵衛、大戸民部、倉賀野秀景、原胤成、野洲浪人衆)・姥ヶ懐砦(うばがふところ)(三枝守友、三枝守義、三枝守光、草刈隼人助、宍戸大膳)・君ヶ伏所砦(きみがふしど)(和田信業、長竹昌基、反町大膳)は完全に不意を突かれて、ほとんどが討死し、武田本隊に合流を図った高坂昌澄らも討ち取られた。

この攻撃と時を同じくして、設楽原では5月21日早朝から武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。
戦いは約8時間、昼過ぎまで続いたと言うが、無理に突撃した武田勢は、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、小幡信貞、真田信綱、真田昌輝、武田信実、金丸忠次、土屋昌続、土屋直規、小宮山忠房、安中景繁、望月信永、望月重氏(望月甚八)、根津甚平、米倉重継、米倉正継、横田綱松(横田備中)、山本信供、水原茂忠、津金胤時、甘利利重、甘利藤蔵、油川顕重、油川宮内、高坂昌澄、奥津十郎(奥津定元)、名和無理介、杉原日向、和気善兵衛、川窪備後、下曽根源六、浪合胤成、岡部竹雲斎、岩手左馬之助、松平伊忠、脇善兵衛、鎌原之綱、常田春清、祢津是広、樋口兼周などが討死した。
※充分に確認していないので、名前は重複があるかも知れません。

これまでの説では、織田信長の鉄砲隊3000が、三段撃ちをしたとされていたが、現在、三段撃ちは否定されている。
しかし、当時、即席の野戦築城・馬防柵と言う織田信長の手法は異例の戦法であり、そこから、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政が1000丁の鉄砲を一斉に射撃したと言う事がわかっている。

5月18日付けで徳川家康は家臣に「柵等よく念を入れて構築するように」と命令書を出している。
もっとも、織田信長に取って見れば、自ら援軍に赴いて、徳川家康への義理はすでに果たしており、武田勢が攻撃してこなければ、そのまま帰ろうと言う感じで、野戦陣地を築いたと言えよう。
野戦陣地は防御目的であり、敵が攻めて来なければ、無用のものであったが、武田勢はあえて決戦を挑んできた。

となると、このような野戦築城を相手にし、鉄砲1000による一斉射撃を受けると言う事は、武田勢に取って見れば初めての経験であり、1000丁の大音響に慣れていない騎馬が、冷静さを失ったとも考えてよいかと思う。
鉄砲の傭兵として有名な根来衆も参戦していることから、接近した大将クラスは狙撃されたとも言えよう。
要するに鉄砲攻撃に対する備えと戦術に関しては、織田信長の方がはるかに経験豊富であったところを、武田勢はこれまでのように接近戦をしたため、鉄砲にやられたのだ。

この劣勢に驚いた、武田勢中央の親類衆である武田信廉、穴山信君、武田信豊が、早々に退却した結果、左翼の山県昌景、内藤昌豊、右翼の馬場信春、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規らに負担が掛かったものと推測する。
鶴翼の陣は、兵力が劣勢でも勝てるチャンスがある陣形だが、中央が壊滅すると、両翼も崩壊するため、その最悪パターンに武田勢は陥ったと言える。

しかし、長篠城の守備軍に酒井忠次らの奇襲部隊が合流し、設楽原の武田勢を背後から襲撃したようで、現地の地勢を見る限り、武田主力は撤退も困難となり、どうも北へと逃れていったように感じる。
敗れた武田勝頼も北上して、武節城へと落ちのび、梅酢湯を飲んだと言われている。
定説では武田の戦死者は10000と言うが、それは誇張しすぎであろうが、その後、武田勝頼が軍を発するのに約4ヶ月間、甲斐から動けなかったことを考慮すると、感覚的には5000前後は討死したように思える。

これよりは、現地史跡・戦跡などの場所を、わかりやすく地図も踏まえてご紹介し、最後に考察を記載する。

設楽原歴史資料館

まずは、新城市の設楽原の戦いで武田勢が陣を構えた丘の上にある「設楽原歴史資料館」をご紹介したい。
資料館は朝9時~16時30分の入場まで。定休日は毎週火曜(火曜が祝日の場合は翌平日が休み)と年末年始。

資料館に入れば、周辺に史跡が点在する地図も手に入る他、合戦の史料や火縄銃の展示もある。
無料駐車場があり、その駐車場から歩いて1分のところに、下記の信玄塚がある。

設楽原(したらはら)資料館へのアクセス・場所は下記の地図ポイント地点。
まさに、合戦場の中にある。

信玄塚

設楽原資料館の玄関から南側に見える民家方向へちょっと歩くと墓地がある。
資料館に車を置いたまま、歩いて行けばよい。

その墓地の中に小高い丘があるのだが、それが信玄塚。
1575年の長篠の戦いで、おびただしい数の戦死者を、地元の住民がここに埋葬したとされる塚だ。
武田軍を弔った方が、写真の大塚で、のちに「信玄塚」と呼ばれるようになった。
毎年、8月15日には「信玄原の火おんどり」祭りが開催される。

上記の「小塚」は、徳川勢・織田勢の戦死者を埋葬した塚。
各写真はクリックすると拡大する。

すぐ近くにあるお堂は「閻魔大王」。
下記の墓石群は昭和に入ってから、長篠の戦いでの戦没者を供養してもの。

武田勝頼の本陣跡

長篠城攻めの際に武田勝頼が本陣を置いたのは、長篠城の北となる「医王寺」とされる。
医王寺の裏山には見張り台が復元もされている。

医王寺の場所は下記の地図ポイント地点。

その後、織田勢・徳川勢が布陣してきたので、本陣を移した。

原昌胤の墓

鬼神の子という逸話を持つ原昌胤の墓は、上記の「信玄塚」の場所付近にある、竹広公民館から更に南へ入る小道(農道)を進むと、畑の中に見えてくる。

下記の地図ポイント地点が、原昌胤の墓がある場所。
  

土屋昌次の墓

武田信玄の奥近習六人衆であった土屋昌次の墓など、設楽原資料館周辺には他にも史跡があるので、ちょっと歩いて回ってみよう。

下記の地図ポイント地点は、土屋昌続(土屋昌次)の墓。
資料館からは徒歩5分ほど。

 

内藤昌豊の墓

武田信玄が信頼していた武田4名臣・内藤昌豊の墓は、東郷中こども園の裏手広場にある。
幼稚園の東側の道路から裏手に行くと、大きな塚(天王山)が目に入る。

この場所は内藤昌豊が陣を置いた場所で、その塚そのものが内藤昌豊の墓ではないので、大きな塚の左手奥に進もう。


 
上記写真が内藤昌豊の墓。

大きな広場になっていて、車も止められるので、歩いていた場合には、一度車に戻って、移動しても良いだろう。
下記の地図ポイントの場所が、その広場。

ここで1回、設楽原の戦いの史跡地図を掲載しておくので、参考にして頂きたい。

上記の信玄塚、原昌胤、土屋昌次、内藤昌豊の史跡を見たら、以後は車で移動すると良い。
順番は自由であるが、下記の順番は、その後のお勧め順で掲載してみる。

甘利信康の墓

甘利信康の墓は、設楽原資料館の丘から、西に降る坂を抜けて下に降りた交差点にあるので、すぐにわかるだろう。

念の為、下記の地図ポイント地点にある。すぐ近くに無料駐車場あり。

丸山の激戦地

甘利信康の墓から北上して、広い道を左折すると丸山がある。

佐久間信盛が陣を張った小さな丘で、馬場信春が攻め落とした。

すぐ近くの橋の近くでは、上州産の矢立硯が発見されている。

下記の地図ポイント地点が丸山と呼ばれる小さな丘。

高森恵光寺快川の墓

織田信長の史料によると、ここで、高森恵光寺快川と言う謎の武将が主従全員討死したと言う。

現地の説明では、なぞの武田武将とされていますが、高森武田氏と言う武田一門衆と考えらる。
詳しくは下記のページにてご紹介させて頂いている。

高森恵光寺快川の実在を調べてみた

高森恵光寺快川の墓の場所は下記の地図ポイント地点。
丸山からほど近い。

馬防柵の復元

長篠の戦い(設楽原の戦い)では、織田信長の考案で3重柵を巡らし、鉄砲隊が主役となって、武田勢の騎馬隊を撃退したとされる、その「馬防柵」が一部再現されている。

なお、この地点で土屋昌続(土屋昌次)が倒れたとされる碑が立っている。

下記地図のポイント地点から、北へと侵入して、柵の奥の方に、車を10台くらい駐車できるスペースがある。

小幡信貞の墓

赤備えで武田24将でもある小幡信貞の墓だが、長篠の戦いで討死したのは、小幡信貞の弟とする説もある。

麓の広い道路からちょっと上がったところにあるので、道路の路肩に短時間停めさせて頂いてお参り。

場所は下記の地図ポイント地点。

山県昌景の墓

山県昌景の墓は、道路に面してなく、山の中である、民家の裏山にある為、ちっょとわかりにくい。

上記写真の看板がある地点から、ひと1人が歩ける細い山道を約20mほど登って行くとある。
この看板のある地点は下記の地図ポイント地点。
駐車禁止ではないので、路肩に短時間停めさせて頂いてお参りした。

首洗い池

長篠の戦いに勝利した、織田勢・徳川勢が、数多くの武田武将の首を洗ったとされる池がある。

現在の国道151号に面しており、約10台止められる駐車場もある。
すぐ脇に大きな四角いため池がある。

真田信綱と真田昌輝の墓

真田幸村の父・真田昌幸の兄である、真田信綱と真田昌輝の兄弟の墓。

設楽原の戦場からは、結構離れている。

 

残念ながら駐車スペースは無い。
ただし、駐車禁止ではない為、農業を営んでいる方の通行を妨げない様、できる限り配慮して、短時間近くの止められる場所に駐車させてもらおう。
もちろん、車が来たら「お詫び」をして、すぐに対応を。

馬場信春(馬場美濃守信房)の墓

馬場信春(馬場信房)の墓は、どういう訳か、長篠城からほど近い所にあるが、ここは馬場信房殿戦忠死之碑。
討死した場所は新城市出沢となる。

駐車スペースはないが、マンションの裏手に写真を撮る程度の短時間なら止められそうだ。
もしくは、長篠城の見学時に歩いて行くか、国道151号線沿いのお店に止めて行くかとなる。

馬場信房の墓の場所は下記の地図ポイント地点。

織田信長の本陣跡

織田信長が最初に本陣を置いた場所とされる地点は茶臼山であるが、現在、新東名の長篠設楽原PAから歩いて5分となっており、PAから遊歩道も新設されている。(パーキングの麓からも入れるので、高速利用でなくても行ける)

織田信長本陣跡の場所である茶臼山は下記の地図ポイント地点。
麓から登る場合には、西側に新しい遊歩道も完成している。

以上、設楽原の古戦場跡の史跡の場所をわかりやすく説明してみた。

長篠の戦いの考察と感想

初めて現地を訪れて、織田勢・徳川勢の布陣と、武田勝頼の戦い方を見て、ちょっと感想を記載させて頂く。
織田信長にしてみれは、30000を率いて布陣したことで、徳川家康への義理は充分に果たした。
そのため、当時、最強と言われた武田騎馬隊を目の前にし、織田信長や徳川家康の本陣は、かなり後方と言う印象を持つ。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に至っては、山の上の方に布陣している。
すなわち、特に織田勢は積極的には戦いたくなかったものと推測する。
その気持ちの表れが「馬防柵」に見られるような、防御陣形だ。
もし、武田勢が攻めてきたら、鉄砲で撃ち返す程度で布陣したと言えよう。
これは、武田勢が正面から向かって攻めて来ない限り、全く意味をなさないため、完全に防御に徹している。

兵力の半分近くを信濃に残したまま、長篠城攻めをした武田勝頼も、織田信長が大軍を率いてくるとは、出国時には予測はしていなかったものと感じる。
前年の高天神城攻めでは25000だったが、今回は15000である。上杉景勝への備えを残したとは言え、全軍は35000程度であったろうから、ちょっと少なすぎる。
しかし、武田勝頼が重臣らの意見を退けて、決戦を挑んだのは、織田信長の軍事力が日増しにどんどん増幅していることへの懸念があったものと推測する。
すなわち、ここで戦わずして甲斐に戻ったとしても、いずれ、織田信長とは「決戦」をする必要があり、どうせ挑むのであれば、これから織田勢の戦力が大きくなる前に戦った方がまだ良いと言う判断だったように思える。
その為、武田勝頼は「勝つ」ために、鶴翼の陣を敷いたのだ。
鶴翼の陣は、兵力差で不利な際でも有利に戦える陣形である。
 
しかし、実際の戦闘経過としては、朝6時頃に、山県昌景が一番手となり攻撃開始するも半数が討死し、早くも暗雲が漂う。
2番手・武田信廉、3番手・小幡勢、4番手・武田信豊も戦力差を覆すことはできず、昼の正午頃には一旦、全軍が引いて、戦闘が行われなくなったと言う。

一方、徳川勢の長篠城を包囲していた鳶ヶ巣山砦などは、山中進軍していた酒井忠次らが朝8時頃になって、ようやく攻撃開始したようで、3度の攻撃にて、昼頃には鳶ヶ巣砦を占領したとされる。
徳川勢・織田勢の本来の目的は、長篠城を救出することであり、それ以上ではなく、ここで武田勝頼は敗戦を認めて撤退をすればよかった。

しかし、再び、織田・徳川勢に対して、正面攻撃を行う判断をする。
恐らく、右翼で展開していた馬場信春(馬場信房)は、本陣に出向いて、退却を進言したのだろうが、無理して攻撃を再開した。
もう、こうなると陣形など、体裁を整える事は難しく、各々が攻撃を行う為、被害は増大する。

この2回目の総攻撃には、本来、遊軍であった内藤昌豊も見兼ねて本戦に加わったが、馬防柵に対する打開策があった訳でもなく、多くの武将が討死。
もちろん、長篠城からも徳川勢が討って出たため、武田勢は東西から挟み撃ちされる格好となり、午前中よりも武田勢は不利であった。
中央に布陣していた武田一門衆の武田信豊・穴山信君らは勝手に退却し、一条信竜が孤軍奮闘。

武田勝頼本陣に乱れが生じるのを見て、徳川勢は柵から討って出たが、援軍の義理を充分に果たしている織田勢は一部しか追撃しなかったと言う。

この追撃により、残された武田勢は北へ北へと逃れるしかなく、真田信綱と真田昌輝もその北へと逃れる途中、追撃されて討死。
勝手に退却していた武田信豊ですら残った兵は40名ほどだったと言い、武田勝頼の旗本も10騎程度となるなか、なんとか逃がすと、馬場信春(馬場信房)は新城市出沢の地にて、追撃軍により討死。

橋詰殿にて疲弊した武田勝頼の馬と、自分の馬を交換した笠井満秀(笠井肥後守満秀)は「我こそは勝頼」と名乗って、織田勢の滝川助義(瀧川源右衛門助義)と刺違えて討死。
こうして約8時間に渡る戦闘となり、三増峠の戦いでも、見事な退却戦をした曽根昌世(曽根内匠)が応戦しつつ、追っ手を阻んだ。

武田勝頼は菅沼定忠らの導きで、田峯城を目指したが裏切られて入れず、武節城へと逃れた。

以上が、小生による長篠の戦いの考察である。
ご訪問された方のご感想や、これから訪問される方のご質問などがあれば、是非コメント欄にお寄せ願いたい。

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