戦国期最後の勝利者となり、約260年という長きに渡る武家政権(江戸幕府)を築いた徳川家康(1542~1616)が、日本最大の平野部(つまり発展有望な地)を有し、鎌倉期以来、精強な兵馬が産出される関東地方に拠り、関ヶ原合戦(1600年)・大坂の陣(1616年)の勝利を経て、正しく馬上で天下統一の偉業を果たしたのは、皆様が良く知るところであります。
また(下馬して)天下を治める時代になると、有能な官僚(テクノラート)の人財を大いに活かし、幕府の牙城である江戸や関東平野の開発に心血を注込み、太平の江戸期、そして近代の明治期に繋がる日本の飛躍の土台を築き上げました。
『日本史の謎は地理で解ける』(PHP文庫)のご監修された土木工学博士にして、日本河川や地理に通暁されておられる竹村公太郎先生が、NHKBSプレミアムで放送されている『英雄たちの選択』という歴史番組にご出演された時(2015年6月11日放送)に、「国土プランナーとしての家康の事」を以下のように評価されています。
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『徳川家康がやった関東平野の乾田化(筆者注:開拓)して、日本一の穀倉地帯にしたことが全国の大名に波及してゆことになります。家康がやったことは日本国内の富の拡大、国土の開発です。(中略)我々は徳川時代の平和な250年の国土作りの先輩たちの上で立って生きているですね。結果論になりますが、家康は日本国土の形成における最大の功労者だと思います。』
(以上、「シリーズ政権誕生の地 「なぜ家康は江戸を選んだのか?」より)
長年、国土交通省(旧:建設省)の官僚として日本地理を知り尽くされておられる竹村先生が仰られる上記の家康評は非常に説得力があります。
2019年に放送されたNHK正月時代劇『家康、江戸を建てる』の原作者であられる門井慶喜先生は、著書『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)内で、生涯の殆どを馬上で過ごした武人であった家康の「人材活用の上手さ」および「柔軟な発想の切り替え」について書かれておられます。
『(家康の)前半生の戦国の世では、いざとなったら腹を切れるような勇猛で、忠誠心のある武士を重用していました。しかし平和な時代になると、家康は人材の選び方を大きく変えています。このように、その時代に即応した人選することができた家康の手腕は特筆すべきだと思います。』(「家康の人材活用術」文中より」)
『家康は、戦乱に明け暮れる前半生を送った後、征夷大将軍まで上り詰めました。ところが、1603年に江戸幕府を開くと、発想をスパッと切り替えて、平和の時代を前提とした大事業を次々に展開してゆくようになります。』
『それは、前半生を戦いに費やした武将としては、必ずしも当たり前とは言い難いことです。にもかかわらず、戦争から平和への時代への切り替えを見事にやってのけた徳川家康という将軍に対し、私は感動し、かつ尊敬もするのです。』(「家康の死-町の賑わいを見ずに」文中より)
門井先生がお書きになられている通り、15歳(当時は松平元康)の初陣「三河寺部城攻め」以来、最晩年(74歳)における大坂の陣まで、大小の合戦場で生涯を過ごした家康ではありましたが、武人一辺倒ではなく、「勇」「静」を強く持ち合わせた中庸的な人格であったと思えます。勇の面では、姉川(1570年)や関ヶ原などの決戦では、凄まじい決断や行動を見せる一方、静の面では、織田信長・豊臣秀吉という2大権力者に対して律義に献身したことや、評定では自分の意見は言わずに家臣たちに議論させる、そして家臣に対して荒い人事をしない、という点があげられるでしょうか。
家康は持ち前の静という人格によって、門井先生が言われるように家臣団を適材適所に用いていきました。精強な甲斐武田氏と干戈を交えていた戦国動乱最盛期(家康若年~壮年期、1560~1582頃)は、「酒井忠次」・「本多忠勝」・「榊原康政」・「井伊直政」という有名な「徳川四天王」を筆頭に、次いで「大久保忠世・忠隣父子」「鳥居元忠」など、多くの忠誠心厚く勇猛果敢な三河武士団(同郷武士)たちを自勢力の中核として各地を転戦、徳川氏の本貫・三河国(愛知県東部)をはじめ遠江・駿河国(静岡県)の3ヶ国を支配するに至りました。
しかし、本能寺の変後に、旧武田領の甲信2ヶ国を併呑して、東海・甲信5ヶ国(凡そ120万石の領国)を有する戦国大名になると、戦場で主な活躍する先述の武将たちのみでは、領国経営が困難になってきました。また、天下人・豊臣秀吉の臣従を経て、関八州250万石の豊臣政権下での最大大名に成長すると、広大な関東平野を隅々まで開発および統治することは、家康にとってはより一層、困難かつ重要課題になってきました。
上記の過程において、今度、家康が重く用いるようになった人材が、合戦場での活躍よりも新田や鉱山開発など土木技術に精通した文官武将たちでした。この好例が「本多正信」、そして門井先生の名著『家康、江戸を建てる』の重要登場人物である「伊奈忠次」、「大久保長安」といった官僚たちであります。
この官僚型武将たちは、家康が天下人となり、江戸および関東平野全般を本格的に開拓するに至って、持ち前の能力や技能を活かして、江戸幕府260年にも及ぶ長期政権の礎を築いた人物であります。
因みに、上記の人物たちは、いずれも過去に家康に敵対した勢力に加担した者たちであり、正信は三河一向一揆(1563年)の主導者の1人となり家康に刃向かい、伊奈忠次も一揆鎮圧後に徳川を退転しており、長安は家康の宿敵・甲斐武田氏に仕えていた人物であります。それにも関わらず、有能であった3名は、後に家康に赦されて徳川に仕えるばかりか、徳川政権運営に携わってゆくことになります。
若年期の信長や秀吉も一度敵対した武将や刃向かった人物を赦し、彼らを重用する度量の大きさを持っていましたが、家康もそういう美点を持っておりました。寧ろ信長・秀吉という偉大な人物たちでさえも最終的に人選や人材活用で失敗し、自分の政権を短命で終焉させてしまったのに対して、家康は大失敗することなく、長期政権を樹立させたのを鑑みると家康の方が人材活用が、両雄よりも結果的に上手かったということが言えます。
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正信・伊奈・長安たちが徳川政権で台頭することにより、それまで家康のために戦場で命を賭して活躍した忠勝や康政たち猛者揃いは、自然的に徳川政権の中心から外れるようになっていくことになります。
この徳川内閣というべき組閣構成の変遷ぶりは、先の天下人である秀吉政権も同様であり、信長に仕えて各地を転戦していた羽柴秀吉期~豊臣政権樹立までは、秀吉子飼の猛将である福島正則・加藤清正・加藤嘉明などの活躍が大いに目立ちましたが、政権樹立後は周知の通り、石田三成・長束正家・増田長盛といった新田開発・都市計画に精通している財政通の官僚武将たちが政権中枢を担い、豊臣の天下の運営に携わりました。
豊臣政権の場合、この組織構成の変遷が残念ながら上手くいかず、カリスマ秀吉没後に正則・清正を双璧と成す所謂、「武断派」と三成・長盛らを主流とする「文治派」の内部対立を引き起こし、結果的にその相克を家康に付け込まれ、関ヶ原合戦となって家康が天下の覇権を確立するに至っています。
カリスマ性を有し、日本史上稀に見る人遣い(人心掌握)の天才と称せられ天下人となった秀吉ではありましたが、政権を運営していく組織作りには失敗しています。その反面、家康という信長・秀吉に比べ遥かにカリスマ的魅力に欠けている中庸的性格の強い人物は、先輩である信長や秀吉の長短をしっかり学び取り、政権運営および人材活用を堅実に実施しています。
正信など官僚武将を重用することにより、江戸開発などを進める一方、窓際族のようになってゆく実戦派武将の忠勝や康政たちを上手く御することにより、豊臣政権のような致命的な内部破綻を起こしていません。
正に、先述の家康の性格における「静」の部分によって適材適所に家臣団を活かし、江戸および関東開発(ひいては江戸幕府政権樹立)を堅実に実施していった家康でありますが、その後々まで徳川政権の根幹となった江戸/関東という土地は、家康が入部するまでは殆ど手付かずの未開地帯であり、同地に秀吉の命令で転封させられた家康は、表向きは大きな損をしてしまった見方が強いです。しかし、家康、秀吉の命令によって大きな損を被ったように見えて、実は大きな益を得ているのであります。正しく「損して得を採った」のではなく、家康の場合『損して天下を取った』のであります。その最たる好例が、『家康の関東移封』であります。
思い起こすと、家康という人物は、殆どの人生を損と苦難の連続、傍目から見れば「堪忍自重」を強いられた事が多く、主な事柄を箇条書きで以下に列挙させて頂くと、
⓵幼少~青春の長期間、名門戦国大名・駿河今川氏の下で人質生活を送る。
⓶今川から独立後は、盟友関係の信長からは臣下同然のように織田軍の合戦に駆り出される。
⓷壮年期には、当時最強軍団であった甲斐武田氏との対決を余儀なくされる。
⓸信長が本能寺の変で横死した際、少人数で和泉国(大阪府南部)の堺で逗留していたために、中央での覇権争いで羽柴秀吉の後塵を拝したこと。
⓹秀吉に臣下の礼を取り続けた上、本貫地であった三河など東海甲信5ヶ国を没収され、未開の地であった関東8ヶ国に移封させられたこと。
筆者がとても尊敬している歴史学者の磯田道史先生は、ご自身が司会を務められている歴史番組『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム)で、『家康は、天下をとるまで苦労の連続の方です。ロクな事が無かった人生なんですよ。最後は成功しますけど。(以下略)』(「家康、生涯最悪の決断~”信康事件”真相に迫る!~」の回、冒頭コメントより)
磯田先生が仰せになられる通り、動乱の戦国期とは言え、家康ほどこれほど忍従、損な役回りを強いられた人生に彩られた武将は珍しいのですが、実のところ、家康は上記に列挙させて頂きました⓵~⓹の損続きの中でも、将来、自分自身および徳川の成長に繋がるメリットをしっかり取っているのであります。
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⓵の人質期ですが、家康関連創作や物語では、少年家康こと竹千代の人格形成に大きな影響を与えた学問の師である太原雪斎以外の今川家中の人々から虐げられて、忍従を旨として人質生活を送る場面が多々描かれましたが、実際、この当時の家康は今川氏から「三河国の少年当主」および「将来有望の今川氏の宿老武将(一門衆)」として優遇されており、最高水準の教育を受けさせてもらっています。
今川氏の本拠である駿府は、戦乱で荒廃した京都から公家および僧籍、つまり多くの知識人が仮寓していたために、戦国期当時の最高文化水準を誇った数少ない地方都市であり、同地で勉学に励み青春期を過ごした家康にとっては、戦国武将としての器量形成に大きな影響を与えたと思われます。
事実、家康は生涯、鎌倉幕府公式記録というべき「吾妻鏡」、中国の政治要諦書「貞観政要」など多くの歴史書を愛読し、読書の重要性を周囲の人々に説いており、大御所と呼ばれた晩年には駿府城内に「駿河文庫」を設け、徳川一門の教育水準を高めることに努力しています。
先出の磯田先生は、『家康は人生訓の日本一みたいな人』(『英雄たちの選択』の番組内)で仰っておられましたが、その家康の人格、(即ち家康最大の魅力というべき)「律義者」「物学びの上手さ」も少年時代に駿河で、当時最高水準の教育が受けれたことが基礎となっているのでしょう。
⓶⓷の期間は、戦国大名として独立した家康が信長と同盟し、最強の武田氏を相手に死闘を演じていた壮年期でありますが、信長と信玄という当代随一の戦国武将に直接的および間接的に接したことは、家康および徳川氏の最たる受難の時であり、最も成長できた最高の訓練時代でありました。
当時随一の天才的な経済感覚、そして強固な経済力を持っていた信長を盟友とし、有名な長篠の戦いや高天神城攻防戦など、対武田戦線で兵力や火力、兵糧など軍需品面で、経済支援を信長から多く受けています。一方の敵方である信玄率いる最強軍の武田軍を相手にすることにより、三河・遠江の徳川軍がより鍛えられ、結束力が固くなっていき、世間では三河武士=強者というイメージが定着してゆきました。
また、家康が信玄を畏敬していたのは有名であり、信玄(武田流)の軍制、政治・外交戦略・内政・人事など全てを学ぶことに真剣であり、武田氏滅亡後は、旧臣を悉く召し抱えて、徳川氏の重要戦力に組み込むことより、深く武田流の習得に磨きをかけたことにより、天下有数の軍事力を保持する戦国大名に成長しています。
上記の最たる例が、信長没後に急成長した秀吉との一度のみの対決・小牧長久手の戦いでの戦術的(合戦)勝利であり、秀吉方の池田恒興(勝入斎)・元助父子や森長可などの信長以来の猛者を討ち取り、天下の覇者として君臨している秀吉軍を撃破したことにより、後の秀吉および豊臣家中内で、一目も二目も置かれる大物として君臨するようになりました。
⓸は、上記の⓷で記述が前後してしまいましたが、盟友(この当時は殆ど徳川の主人的存在)である信長が、明智光秀の謀反・本能寺の変によって横死した際、信長に招かれて家康は40人ぐらいの供廻りと上方見物の最中でしたが、命辛々、伊賀の山々越え、伊勢湾から海路、三河に帰還(「神君の伊賀越え」)、信長の復讐戦として急遽軍勢を整えましたが、その折には既に、秀吉によって光秀は山崎合戦にて撃破されており、家康は織田政権の覇権争い、つまり天下取りレースの後塵を拝したことになります。寧ろ、この方が家康にとって幸いであったかもしれません。自分の領国を留守にして、下手に秀吉や光秀、柴田勝家などの政権争い(混乱の坩堝)に容喙していたら、勢力を蓄えるどころか、逆に徳川の衰退を招いていたかもしれません。
信長の敵討ちとして既に軍勢を整えていた家康は、織田氏の支配下となっていた甲斐・信濃の武田氏旧領が信長の死によって、ほぼ空白地帯になっているの幸いに、一挙に甲斐・信濃南部などを占領することに成功したのであります。かつて家康の前に強敵として立ちはだかった武田氏の旧領を支配できたということは、畏敬していた信玄が遺した有能な人材や兵力を手に入れたということであり、先述の徳川勢力の貴重な財産となっています。
⓹小牧長久手合戦後、秀吉と和睦が成立を経て事実上、豊臣の傘下に入った家康ですが、東海・甲信という広大な領国を持ち、かつて秀吉軍を撃破した名将として、総帥の秀吉および正妻・北政所(のちの高台院)、豊臣家臣団(特に加藤清正・黒田長政など武断派武将)から注目されるようになっており、彼らは家康を「豊臣の客分的存在」として遇されていました。また、豊臣家中の最実力者となった家康も周囲に対して驕る態度で接することなく(元々、謙虚で何事も控え目の性格でしたが)、秀吉が病没するまで豊臣に律義に仕え続けました。
創作の世界では、この時期の家康も成り上がり者の秀吉に天下取りのレースで後れを取り、我慢のみで秀吉に仕え続けたというストーリーになりがちであります。勿論、かつては自分の目下的存在であった秀吉(木下藤吉郎)に膝を屈し続けるということに、少しは嫌気を指したことも家康にはあったと思うのですが、寧ろ名実共に天下人となり、日本全国の政治・経済政策を一手に統べる秀吉の身近に仕えたことにより、天下統治に必要な政治構想や経済政策、および朝鮮出兵という対外政策の大失敗などを豊臣から学ぶ機会に恵まれ、後の徳川天下統一に家康は役立てたように思えます。事実、家康および江戸幕府が日本統治の経済政策(石高制の導入や金銀山・有数の湾港の直接支配)などは、秀吉時代に構築された豊臣経済政策を踏襲している部分が多々あるからであります。
以上のように記述させて頂いて思うのは、今川・武田・織田・豊臣といった各時代の強力かつ個性豊かな勢力を相手にして、主に損な役回りを演じさせられている状況下にも関わらず、弛まず己の研鑽に励みつつ、出来る事は可能の限り手を打ち、堅実に徳川勢力の成長に繋げているのが家康という人物の凄さが実感でき、「損して得を取っている人生」であることが判ります。その人生の積み重ねの最終結果が「天下人」であり、家康は正に「損をし続けて、天下を得た」と言えます。
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上記の家康の「損して得を取った」という最高潮というべき点が、秀吉の命令によって敢行された家康の「関東移封」であることは間違いありません。
それまでの本拠であり、十分開拓され発展していた東海地方から、同地方より遥かに広大とは言え、ほぼ未開の地である当時の関東に転封させられ、家康および家臣団は新本拠となった湿地帯に覆われている江戸の城下町建設・飲料水確保などに苦心惨憺したのは事実なのですが、自分たちを未開の関東に移した張本人である秀吉の本拠である当時からの経済大都市・大坂の町割(都市計画)を見本として、江戸の町開発を地道に進めてゆきました。ここでも天才的デベロッパーである秀吉から優れた町割を学ぶ家康の物学びの上手さが発揮されています。
広い湿地帯であった江戸や関東が徳川氏によって地道に開拓されてゆくことにより、豊臣政権下での日本有数の城下町になり、ひいては家康が天下人になったことで江戸は今日の大都会・東京の発展に繋がってゆくのですが、家康が江戸開拓、関東移封によって得られたのは、広大な領地のみ(表高250万石)ではないのであります。それは総帥・家康を頂点とする関東王者・徳川軍団が刷新および更に強化されたことであります。
江戸が大規模に城下町(江戸城大改築および日比谷入江埋立など)として普請整備されてゆくのは、1600年に家康が関ヶ原合戦で勝利し、諸大名に号令をかけた天下普請によってですが、徳川が江戸入府早々の1590年代における本当の初期江戸開拓(武家屋敷町建立、掘割、上水道開通、前島開拓など)は、家康の命令により徳川直下の家臣団および足軽によって行われていました。
松平氏家臣であった石川正西という人物によって、1600年に成立されたとされる『石川正西聞見集』には、徳川家臣団によって行われている日々の普請の辛さ(前島宅地普請)について以下のように書かれています。
『普請が多忙で食事を摂る時間もなかった。夜寝る前に雨が降ると、掘って盛り上げた土が崩れないように、徹夜して働いた』
上記のように何とも涙ぐましい勤勉ぶりを普請で発揮している徳川家臣団でありますが、この家臣団による日々の普請による重労働が将来、有益になったことを磯田先生は歴史番組『英雄たちの選択』で仰っておられます。
『足軽部隊とか戦争が無いときは、土木工事に動員されるんです。土木工事をやるといつも臨戦態勢になっているのと同じなので、非常に軍団が鍛えられるし、命令もよくきくようにもなってゆくんですね。だから「関ヶ原の練習は毎日やっていたんですよ。大坂攻めも。』
『(徳川氏に)ああいう開発地を与えれば、お金も遣うし、自分には背かないだろうと秀吉は思ったかもしれないけど、「(関東地方が家康たちにとって)良い運動場」になってしまったんですよ。』
(以上、「家康はなぜ江戸を選んだのか?」の回より)
信長生存時から信長上洛戦や姉川合戦などに信長の友軍として転戦した三河武士団の精強ぶりは有名でしたが、それがこぞって箱根山の東側の日本随一の平野である関東で普請を通じて更に強化されていたのであります。また徳川は名目上、関八州250万石(家康の官位も従二位内大臣と高貴)という全国一の豊臣大名となっているので、兵員動力も桁外れに高く、将兵の質も高いという合戦には必要な両輪を家康は関東転封で手に入れたのであります。
いくら未開の地が拡がる関東といえ、表向き石高250万石(当時の内高はもっと低かったと思いますが)というのは、日本最大の勢力であります。家康がこのアドバンテージを大いに活かしていったのは、秀吉没後に勃発した関ヶ原合戦であります。諸侯の中でも最大の領国と兵力を有している家康の信用力は群を抜いており、家康(東軍)に味方した豊臣恩顧の武断派大名である福島・加藤・黒田・藤堂・池田・田中などは安んじて徳川軍に加勢しています。
一方の毛利輝元(安芸広島120万石)を総帥に、宇喜多秀家(備前岡山57万石)・石田三成(近江佐和山19万石)・大谷吉継(越前敦賀5万石)などを有力幹部として結成されていた大坂方(西軍)は、敵方総帥である家康に比べ、石高・兵力ともに低く、西軍諸侯に対して信用および求心力がどうしても低くなってしまい、それが関ヶ原本戦で毛利軍・長宗我部軍の不参戦、そして小早川秀秋、赤座・脇坂・朽木などの東軍寝返りの結果を招き、西軍は大敗北を喫してしまってます。
結果論となってしまいますが、天下分け目の関ヶ原での勝利を得た家康が、10年前に東海から関東へ転封されたことが、良かったということになります。
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縁も所縁も無い関東に転封された家康は、これを好機と言わんばかりに徳川譜代家臣団の編成・刷新する大鉈を振るえたのも勿怪の幸いというものでした。
皆様ご存知のように、徳川(松平)氏は、三河国の山間地帯・加茂郡松平郷(愛知県豊田市)から身を興した土豪であり、徐々に南下し、家康の祖父にあたる名将・松平清康(松平氏7代目当主、1511~1535)の代に、北三河・西三河などの松平一門・三河国人衆たちを支配下に治め、岡崎城を本拠として三河統一する勢力を誇りました。
1535年に尾張国(愛知県西部)の守山城を攻めた際に、清康は自分の家臣に刺殺されてしまったことにより(守山崩れ)、松平氏の勢力は一挙に減退し、駿河今川氏の庇護下に入るのですが、清康やそれ以前の父祖の手によって、三河国内の土豪や国人衆を従えてゆくことにより構成された「松平譜代家臣団(三河武士団)」という遺産は、家康の父・広忠を通じて、家康に受け継がれていくことになります。
上記のように、三河武士団(譜代家臣)というのは、松平氏とは元々『同格の土豪もしくは国人衆』の出自であり、彼らは決して松平氏を頂点としたトップダウンで動いていたのではないのです。そういう意味では、松平氏も当時の戦国大名の家臣構成である「中世型戦国大名」であり、麾下の譜代家臣や有力国人衆などの意向や利害打算を無視して、それらを強権的に支配を強めることは難しかったのであります。前述の中世型戦国大名というのは、「自分(主君)と家臣の関係」「A家臣とB家臣の関係」を出来る限り齟齬なく保ってゆくという「調整役のような存在」であります。
因みに、この役目を上手くやった好例人物が、家康が尊敬していた鎌倉期の源頼朝、戦国期の武田信玄などが挙げられ、この家康の先達たちは麾下の家臣団の意向や利益を尊重および保証することによって各時代の一大勢力に成り上がっています。
三河武士団の松平・徳川氏への唯一無二というべき忠義心が厚いことは逸話などで有名であり、決して美談のみではない部分もあると思いますが、主君である家康(三河・遠江時代)にとっては、麾下の三河武士団は頼りになる反面、強気になれない遠慮する部分もあったと思います。
その証拠に、家康は家臣の前では、無用な事を発言して家臣団間でトラブルが発展することを防ぐために、「何を考えているか判らない」と彼らに思われたほど極端に無口であったことは有名であり、また別の逸話では、主人であるはずの家康が普段から譜代家臣に対して「○○殿」と親しみを込めて呼んでいたいうのもあり、家康が足下の家臣たちに如何に気を遣っていたかを物語っています。筆者が思うに、父祖の代から松平(徳川)に仕える譜代中の譜代である酒井忠次・石川数正・本多重次(通称:鬼の作左)などに対しては、特に家康は気を遣っていた家臣であったことでしょう。
桶狭間合戦、三河一向一揆などを経て三河国を統一した時期の徳川家臣団は、三河国内を東西に区分した上で、「東三河の武士団の旗頭を酒井忠次」が務め、一方の「西三河の旗頭は石川数正」とし、家康直属の「旗本先手組(本多忠勝・榊原康政・井伊直政・大久保忠世など)」の3本柱で構成されていたのが有名であります。
家康にとっては、酒井の東三河衆・数正の西三河衆も徳川軍の根幹を成す大事な存在であったことは間違いないのですが、一方では、父祖以前の代までは、徳川と同格であった有力土豪・国人衆でもあったので、慎重に統制していかなければいけない集団でもあったと思います。東西の三河衆は、正しく前述させて頂きました「中世型武士団」の典型的存在であり、主君である家康も強気な態度には出れない厄介な譜代家臣団であります。
上記の譜代家臣団に比べ、家康にとって直属の機動部隊というべき旗本先手組は、(単純に言ってしまえば)、まだ扱いやすい存在であり、彼らを合戦場で先鋒として活躍させ、三河・遠江と勢力を伸張するごとに旗本衆である忠勝や康政、直政などを徳川軍の主力に据えるように軍団編成をしていきます。そして、秀吉との直接対決である小牧長久手の戦いでは、康政や直政の活躍が特に目覚ましく、敵方である秀吉からその戦ぶりを賞賛されるほどの活躍をしています。
因みに、甲斐の武田信玄の軍団編成も似た点があり、父・信虎を追放し、武田氏の家督を継いだ信玄(当時は晴信)は、当初、父祖の代より譜代家臣であった板垣信方・甘利虎泰(両職)を双璧とした譜代衆を甲州軍団の主力としていましたが、後には信玄が抜擢した「馬場信春(信房とも)」「内藤昌秀(昌豊とも)」「香坂虎綱(高坂昌信)」「山県昌景」といった後年、武田四天王と謳われる智勇兼備の名将たちを活躍させることにより、無敵の甲斐武田軍を編成していきました。諸事、信玄を畏敬していた家康が、信玄の家臣編成を真似たのかもしれません。
徳川家臣団の編成は、東西の三河衆・旗本衆を主軸にして東海地方に君臨(東海一の弓取り)していたのですが、この家臣団構成が」一挙にリセットされる契機となったのが、秀吉から命じられた「関東移封」であります。
関八州250万石(内10万石は、家康次男・結城秀康の領地)の太守となった家康は、約100万石を自分の直轄領(蔵入地)として定め、大名としての権限と求心力を徳川家中で高める一方、徳川有力家臣を関東各地の城主に任命しているのですが、問題はその家臣たちが与えられた領国/石高の少なさであります。
家康旗本衆の出身である井伊直政(上野国箕輪12万石)・本多忠勝(上総国大多喜10万石)・榊原康政(上野国館林10万石)という、後に「徳川四天王」と謳われる3名将たちは、10万石以上の領国を家康から与えられているのですが、他の家臣たちは、皆1ケタ代の領地しか任されていません。
上記の3名将に次ぐ猛者とされている譜代の大久保忠世(後に忠隣)で相模国小田原4万5千石、少年期の家康の側近として仕え、後年「三河武士の鑑」と称せれられた忠勇の士である鳥居元忠で下総国矢作4万石、更に注目されるのは、東三河衆の旗頭として合戦・外交と多岐にわたって活躍し、「徳川四天王」の筆頭に数えられ、家康第一の功臣として賞賛された酒井忠次、関東移封当時は既に隠居して長男・家次が酒井家当主となっていましたが、その領国が下総臼井3万石という少なさであります。
いくら隠居しているとは言え、(江戸期には、出羽国庄内17万石の譜代大名になりますが)、徳川筆頭家老の家柄である忠次の家系の領国を僅か3万石とはかなりの薄給であり、忠次が家康に息子の石高の少なさに苦情を言ったという逸話があるほどであります。また豊臣大名の中で、最も文武や芸事、町割に優れていたとされいるインテリ大名・蒲生氏郷も、家康の吝嗇ぶりを批判し、「天下を獲れる器でない」とまで言ったこともまた有名な話であります。
実は、家康が家臣の領地配分を裁断している折、例の3名将である直政・忠勝・康政の領地も、他の家臣達と同様の1ケタ石高のみを与えるつもりでいたと言われています。その家康のケチぶりに驚きかつ呆れたのが、天下人である秀吉であり、「せめて天下にその勇名を轟かせる3将には、10万石を与えよ」と秀吉から苦言を呈され、家康は仕方なく直政たちに10万石の領地を与えたと言われています。
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上記の事は、吝嗇・倹約家として高名な家康の人柄を顕著に物語るものでありますが、家康の関東での領地配分の本当の意義は、自分の取り分(直轄地、即ち経済力)を多くし、徳川本家の権限を高め、それまで国人連合的戦国大名の色合いが強かった徳川組織を、家康を頂点とした「近世型、トップダウン型戦国大名として刷新した」というべきでしょう。
先祖代々の土地で松平/徳川本家と、どちらかと言うと緩い主従関係を保っていた三河武士団にとっては、関東移封はそれまでの主従関係や既得権を一挙に白紙撤回されることになるので、有り難くない出来事であったのですが、主人の家康からしてみれば、未開地の関東に追いやられるのは、確かに辛い部分(膨大な開発費用の捻出など)があるが、これを契機として徳川家臣団内の人事刷新を可能にした出来事であります。
事実、譜代中の譜代であるはずの東西の三河衆たちの領国は低く抑えられる一方で、有能かつ家康直参家臣というべき直政や忠勝が家中きっての有力大名となり、徳川の主力となっているのであります。特に三河出身(譜代)ではなく、遠江国井伊谷の国人領主出身である最若手の井伊直政が忠勝や康政を抜き、徳川家中一の12万石の領地を家康から与えられているのは、合戦面だけでなく政治・外交に傑出した直政の器量を見込まれていたことを物語っています。江戸幕藩体制期を通じて、最有力譜代大名として君臨する井伊彦根藩の歴史は、この関東移封から始まっていると言っていいでしょう。
以上のように、家康は古巣である三河を秀吉から追われ、一見、東国に押し込められて、大きな損を被ったと見える関東移封を好機として、徳川家中の人事刷新を敢行し、家康を頂点する豊臣政権下の最大近世大名へと生まれ変わり、戦国最後の勝利者になることに成功したのであります。
「日本最大の平野部」「開発普請で鍛えられる徳川の将兵」「本拠移転を機に組織改革に成功する」。関東移封で、天下人となる家康が採った得というのが計り知れないものであります。
(寄稿)鶏肋太郎
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