丹羽長秀~織田信長と豊臣秀吉から厚い信頼を受けた重臣


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 丹羽長秀は尾張春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)で1535年9月20日に生まれた。幼名は万千代。
 父は丹羽長政、母は不詳だが織田信秀の娘(能呂氏?)ともする説がある。

 児玉丹羽家は、武蔵七党のうちの一つである児玉氏の末裔とされるが、児玉党は多数の諸氏に分かれており、丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていない。
 いつのころか尾張国に住み、尾張守護の斯波氏に仕えるようになった。

 丹羽長秀には兄・丹羽長忠がいたが、早世したようで、丹羽家の家督を継いだようだ。
 丹羽家は織田信秀の勢いが増すにつれて次第に織田家の家臣となっていく。

 16歳になった丹羽長秀は1550年から織田信長の家臣に加わった。ちなみに、この時、織田信長は17歳である。

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 1551年、藤島城主・丹羽氏秀 (丹羽右馬充氏秀)が、本家の岩崎・丹羽氏清、丹羽氏職(丹羽氏勝)親子と対立し、岩崎表「横山の合戦」にて織田信長軍が敗北している。
 この敗北は、織田信長にとって初めての負け戦とも知られる為、この丹羽氏の対立で、丹羽長秀は織田信長に人質と言う形で、家臣に加わったなどの理由も考えられる。

 1553年、梅津表の合戦にて19歳の丹羽長秀は初陣。
 1555年、清洲城攻囲戦。
 1556年、稲生の戦い。
 1560年の桶狭間の戦いでは、今川義元への攻撃部隊には入らなかったが、対今川義元戦では従軍している。

 1561年5月13日には、織田信長より美濃攻めの部隊長を任され、斎藤家の美濃国へ乱入し、堂洞砦(堂洞城)を攻囲し、織田家中で頭角を表した。
 1563年・1564年、織田家を離反し、美濃の斉藤龍興に降っていた尾張犬山城主・織田信清の支城・小口城(中島豊後)、黒田城(和田新介)を丹羽長秀が調略。
 1563年、織田信長は庶兄・織田信広の娘である深光院を養子として、丹羽長秀の正室にし、丹羽長秀は織田家の一門衆となった。
 1565年 東美濃「猿啄城攻略」、「堂洞城奪取」にて殊勲。川尻秀隆、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)とともに軍功を挙げている。
 1571年4月には、嫡男・鍋丸(後の丹羽長重)が誕生している。

 1567年8月~9月、美濃・稲葉山城を攻略し、北伊勢に滝川一益の軍団として侵攻。
 1568年9月7日、足利義昭を奉じて織田信長が上洛した際、佐久間信盛、木下秀吉、蜂屋頼隆とともに丹羽長秀も南近江乱入し六角氏征伐で武功を挙げた(観音寺城の戦い)。9月12日の箕作城奪取では丹羽長秀が先陣。六角氏攻めでね勲功を挙げた。
 そして。村井貞勝・明智光秀(惟任光秀)・羽柴秀吉(木下藤吉郎)と丹羽長秀は京都奉行に就任。
 10月には、村井貞勝とともに近江の一部にて検地を実施した事が橋本左右神社文書に見られる。
 1569年、丹羽長秀は、京都にて松井友閑とともに「名物狩り」を実施。8月20日には木下秀吉、蜂屋頼隆らとともに伊勢国に乱入。
 9月には稲葉、池田恒興とともに夜襲をかけるが敗退。10月3日には伊勢北畠氏の大河内城を包囲し南伊勢を奪取。

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 さらに丹羽長秀は安土城の普請奉行を務めるなど多大な功を挙げている。

 1570年、明智光秀とともに若狭国・武藤上野に派遣され人質の確保に成功。
 姉川の戦いの直後から織田信長は8ヶ月におよぴ浅井家の近江・佐和山城の包囲を続けていたが、1571年2月24日に城将・磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって丹羽長秀が佐和山城主(佐和山城・犬上郡50000石)となった。織田信長の家臣で、初めて城持ち武将になったのである。
 このように、丹羽長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮・活躍し、米が毎日欠かせない物であることから、織田家にも欠かせない武将として「米五郎左」と称された。
 羽柴秀吉も、丹羽長秀にあやかって改名するなど、柴田勝家らと共に織田信長の重臣となり、丹羽長秀は織田四天王の一人にも挙げられている。
1571年4月には丹羽長秀の嫡男・丹羽長重も誕生。
 北近江方面を任され、1572年には織田信長の命で琵琶湖用の鉄甲船建造に着手する一方、木下秀吉、蜂屋頼隆、武藤舜秀とともに北近江に出陣。
 1573年、将軍・足利義昭が織田信長に謀反を起こすと、柴田勝家・明智光秀らと鎮圧に向かった。そして、織田信長は佐和山城から巨大船にて坂本に移動して上洛。しかし、巨船は鈍足の為に、早舟に解体改修されている。
 浅井氏・朝倉氏滅亡の際には、朝倉義景の母、朝倉義景の子・愛王丸の捜索・護送を丹羽長秀が担当している。
  
 越前一向一揆、石山本願寺攻囲にも参戦し、1575年、長篠の合戦にも羽柴秀吉とともに出陣し、武田勝頼に勝利。織田信長より明智光秀同様に惟住姓を許されている。
 越前一向一揆を羽柴秀吉、不破光春、丸毛長照、武藤舜秀、蜂屋頼隆、津田信澄らと共に鎮圧すると、丹羽長秀は若狭国を知行した。

 この頃の丹羽長秀の家臣としては、溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては織田信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に、丹羽長秀の指揮下として加えられた。

 織田信長の信頼は厚く、1576年には安土城の普請も任され、1581年の織田信長・京都馬揃えでは一番入場の厚遇を与えられている。
 家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、柴田勝家と丹羽長秀は織田家の双璧といわれた。
 
 1576年9月、上杉景勝との「手取川の合戦」に敗走するも、後幸塚・大聖寺に築城し、佐久間盛政が守備に入っている。
 1577年、上杉景勝対策として、若狭小浜城を本拠とする。
 荒木村重が謀反を起こし、黒田官兵衛が捕えられた、有岡城攻略にも、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、武藤舜秀とともに参戦。
 1578年頃? 朝倉氏の旧家臣・杉若無心 (わかすぎむしん)の娘を側室にしている。
 1580年には、石山本願寺退去後の石山城主となり、摂津国の戦後処理を、近江高島郡の領主・津田信澄とともに奉行した。

 1582年3月には、信濃・甲斐に侵攻し、武田勝頼が自害して武田家が滅亡すると、草津温泉での湯治を許可されている。
 1582年6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に、織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられ、上洛中の徳川家康が大阪方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に、徳川家康の接待役を織田信長から命じられていた。
 しかし、出陣直前に明智光秀が謀反を起こし本能寺の変で、織田信長が自害。
 丹羽長秀は、織田信孝を補佐し、明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀とみなして殺害。そして、羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで、明智光秀を討った。
 
 本能寺の変の直後、丹羽長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱に入城されてしまったていたが、山崎の戦いの後に回復している。

 清洲会議においては、最終的に丹羽長秀は池田恒興と共に、羽柴秀吉が織田家の後継者に推す織田信長の嫡孫三法師(織田秀信)を支持。
 1583年、羽柴秀吉と柴田勝家とが天下を争った賤ヶ岳の戦いでも、羽柴秀吉に味方して功を立て、若狭国に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大大名となった。

 羽柴秀吉が「丹羽長秀」と「柴田勝家」から1字ずつとって羽柴姓と称したように、羽柴秀吉と丹羽長秀の関係は深く、丹羽長秀が体調を崩すと、羽柴秀吉は医師・竹田定加を派遣。
 丹羽長秀も、羽柴秀吉宛に遺書を書いて形見の品を贈り、跡目を全面委任するなど、信頼関係は固かった。
 
 1585年4月16日、胃癌により死去。享年51。
 死因には異説もあり、一説では織田氏をないがしろにする羽柴秀吉の振舞いを見て、織田信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという説もあり、その際に自ら取り出した内臓、それも病巣の部分を羽柴秀吉に送りつけたとも言われている。
 家督は嫡男の丹羽長重が継いだ。

 サッカー日本代表にも選ばれた、ガンバ大阪のDF・丹羽大輝は、戦国武将「丹羽長秀」の末裔とも。

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  1. 2016年 1月 15日

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