千利休(千宗易)~わびさびの茶で調べる信長・秀吉の茶頭


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千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう)は1522年に和泉国・堺の今市町(現在の宿院西1丁)で、長男として生まれた。幼名は与四郎(與四郎)。
※生年については1521年の説もある。
生まれは高名な商家で、家業は魚屋(ととや)だが、手広く貸倉庫業や運輸業も営なむ納屋衆で裕福な家庭であった。
父の名は田中与兵衛(田中與兵衞、田中千与兵衛)、母は法名が分かっており月岑妙珎(げっしん)。本名を含めどんな女性だったかは不明だ。
妹に宋円がいる。
なお、江戸時代の1653年に提出させた「利休由来書」によると、祖父の田中千阿弥は室町幕府の8代将軍・足利義政の茶同朋をしていたと言う。
千という姓は祖父の田中千阿弥に由来すると伝えられる。千阿弥は朝鮮から日本に移住した豊かな教養を身につけた文化人だとの説もある。

南宗寺(堺市)で禅の修行を積み、「宗易」という名を授かった。
千利休(千宗易)は、店の跡取りとして品位や教養を学ぶため、16歳で茶の道に入った。
17歳で北向道陳、18歳の時には、当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)に入門し、千宗易と名乗った。
この頃、父・田中与兵衛が死去したが、千利休は「侘び茶」の精神に触れ、先達にまじって茶人としての才能をあらわし、23歳で奈良の塗師・松屋久政を招いて最初の茶会を開いた記録が残っている。
なお、1542年には飯盛山城主・三好長慶の妹とされる宝心妙樹と結婚。長男・千道安、長女、次女、3女、4女を設けた。

千利休は侘びの対象を茶道具だけに留めず、茶室の構造やお点前の作法にも拡大させ、極限まで無駄を省く「わび茶」を大成させ、主人と客がお互いを尊敬しあい、おごらない気持ちで接するという「和敬静寂(わけいせいじゃく)」をもとにした茶道を完成。茶道千家の始祖・茶聖と称された。

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堺は戦国時代でも、当初はどの大名に支配されず、周囲を壕で覆って、浪人に警護させ、商人が独自に自治を行う、独立した街であった。
千利休が46歳の1568年、織田信長が活力に湧く自由都市・堺に注目し、圧倒的な武力を持って堺を制圧した。
堺は織田家の直轄地となり、商人より軍資金を差し出させ、鍛冶には鉄砲を生産させた。
また、織田信長は茶の湯に対して異常なほどの興味を示して名物狩りも行っている。

一方で織田信長は、今井宗久、津田宗及、千利休を茶頭(茶の湯の師匠)として重用。
1570年には、織田信長の前で千利休が茶をたてて、腕前を認められている。
織田信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許した他、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、家臣統制にも茶の湯を利用。
その為、羽柴秀吉、柴田勝家池田恒興丹羽長秀などの織田家臣も、茶の湯に励み、こぞって茶道具を購入した。
千利休は51歳の1573年と、1575年(53歳)には、織田信長主催の京都の茶会にも参加。
茶会というものは一種の宴会であり、その意味では茶道は最も洗練された宴会様式の一つである。
その為、茶の湯の指南役となる千利休は、武士からも一目置かれる存在となった。

1577年、妻・宝心妙樹が死去すると、後妻として千宗恩を迎えた。
1578年、千宗恩の連れ子・千少庵と、千利休の娘・お亀の間に千宗旦が誕生。この千宗旦は10歳の頃に祖父・千利休の希望で大徳寺にて仏門に入った。父・千少庵が千利休の後妻・千宗恩の連れ子だったことから、家督争いを避けるために仏門に入れられたと考えられている。

1582年には、父・田中与兵衛の五十回忌法要の記念事業として、大徳寺の山門の上層を千利休が寄進。
自分の木像をこの楼上に安置したため、のちに豊臣秀吉の怒りにふれて自決に追いこまれる一因となった。

千利休が60歳の時、1582年6月1日、京都の本能寺にて、織田信長は自慢の茶器を披露する盛大な茶会が催された。
しかし、その夜、織田信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散ったのである。

その後、以前から千利休とも接触していた羽柴秀吉が、千利休を茶坊主に取り立てた。
1584年には、千宗易が大阪城にて茶室を開き、羽柴秀吉から3000石を拝領している。

1585年10月には、豊臣秀吉が関白就任の返礼で、自ら天皇に茶をたてる正親町天皇への禁中献茶を千利休が取り仕切り、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜され、千利休となった。こうして、千利休の名は天下一の茶人として全国に知れ渡ったのである。

千利休が主催したお茶会の多数には「麩の焼き」という食べ物が登場。
小麦粉やくず粉などを水で溶いて焼き、みそなどを塗って食べるクレープのようなもので、お好み焼きの原型とも言われている。
また、茶の席では素足が基本であったが、雪の日に茶席へ向かうときなど、草履に冷たい水がシミ込んで、足先がかじかんでしまうのが悩みの種だった。
そこで千利休が考案したのが、皮などを草履の裏に貼って、防水機能を持たせた新しい履物「雪駄」(せった)で、のち江戸時代には庶民の間でも使われるようになった。

細川ガラシャの夫・細川忠興、織田信長の弟・織田有楽斎高山右近古田織部など茶の湯好きの武将は競って千利休に弟子入りした。
政治的にも豊臣秀吉の懐刀として羽柴秀長と共に千利休は活躍。

1586年に大阪城で豊臣秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。また、千利休が設計した「黄金の茶室」で茶を服し「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記している。

1587年に九州を平定し、実質的に天下統一を果たした豊臣秀吉は権力誇示の為、北野天満宮で「北野大茶湯」を開催。
茶碗1つ持ってくれば良いと、公家や武士だけでなく、百姓や町民にも身分に関係なく参加を許可した国民的行事となったが、この演出も千利休が手掛けた。
当日の亭主には、千利休、津田宗及、今井宗久、そして豊臣秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並び、拝殿には豊臣秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800箇所となり、豊臣秀吉自身が各茶席を廻って自ら茶を人々に振舞ったと言う。

しかし、千利休が政治的に豊臣政権に深くかかわった結果、政権内外での千利休に対する反発も強まって行き、堺をバックとし、既成の権威を認めない千利休の立場は次第に孤立して行く事になる。
豊臣秀吉も貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、堺の壕も埋めてしまい、千利休と豊臣秀吉の間柄も悪化してきた。

横浜の三渓園には、千利休が襲われたとき身代わりとなったされる灯篭「身代わり灯篭」もあるので、刺客に狙われることもあったようだ。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、千利休も小田原に帯同し、韮山の竹で一重切花入「園城寺」(東京国立博物館蔵)などを作成するなどし、陣中で茶をたてた。
豊臣秀吉の怒りを買い、北条氏の茶坊主となっていた千利休の高弟・山上宗二は、千利休の仲介で豊臣秀吉に謁見したが、仕えていた北条幻庵に義理立てしたため豊臣秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で、打首となる山上宗二の最期も見届けている。

京に戻った千利休は、1590年10月20日、聚楽第の利休屋敷にて博多の豪商・神谷宗湛を招いて茶会を開催したが、これが千利休の最後の茶会とされている。

1591年1月13日の茶会にて、派手好みの豊臣秀吉が黒を嫌うことを知っていながら、千利休は「黒は古き心なり」と黒楽茶碗に茶をたて豊臣秀吉に出した。
また、1月22日には、豊臣秀長が病没し、千利休は後ろ盾を無くし、大徳寺の千利休の木像安置事件を問題化され、2月には堺の自宅にて謹慎を命じられた。
豊臣秀吉の勘気に触れること恐れて、京を追放される千利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだったと言う。
千利休が謝罪に訪れず、そのまま堺へ行った事で、豊臣秀吉は更に激高し、2月16日か17日に、千利休への切腹が申し渡された。

細川忠興と古田織部は、堺の千利休に見舞いの使いを送っている。
大政所北政所が「千利休の命乞いをするから、関白様によく謝罪するように」と密使を送ったが、千利休は「それがし、天下に名がある者が婦女子の為に死を免れたとあっては、後世の聞こえもいかがか?」と言い固辞したという史料も現存する。

2月25日、千利休像が山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。
2月26日、千利休は京都に呼ばれて、葭屋町の自邸に移った。

千利休奪還を警戒した豊臣秀吉は、ちょうど上洛していた上杉景勝に命じて、岩井信能ら3000の上杉勢にて千利休の屋敷を包囲して厳重に警備させた。

前田利家や、古田織部、細川忠興なども助命嘆願したが適わず、切腹の日となったのは1591年2月28日。検使は尼子三郎左衛門・安威摂津守・蒔田淡路守の3人。
切腹の当日は大雨となり、雷が鳴り、大霰が降るといった荒れた天候だったようだが、使者に最後の茶をたてた後、千利休の茶湯の弟子でもある蒔田淡路守の介錯で、首を一刀の元に斬り落とされた。享年69歳。
その際、千利休の後妻・おりき が部屋から出て来て、亡骸に白小袖を掛けたとされている。

千利休の首は尼子三郎左衛門、蒔田淡路守の両人が豊臣秀吉の元に届けて報告したが、豊臣秀吉は首実検さえせず、聚楽第の戻橋で獄門に掛け、柱を立て利休の首に鎖をつけて、大徳寺の利休像に結び付け、首を木像の足で踏ませ、晒しものにした。
これを見物する老若男女が毎日列をなしたとの史料も存在する。

楽第敷地にあった利休聚楽屋敷は取り壊されて、のちに細川忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。

千利休の自刃後には、高弟の古田織部が豊臣秀吉の茶頭となった。
のち吉田織部は、徳川家康に命じられて徳川秀忠に茶の湯を指南したが、吉田織部の自由奔放な茶が人気を集め、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち始めると、千利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになり、大阪の陣の後に「吉田織部は豊臣方と通じていた」とされて1615年に切腹を命じている。

豊臣秀吉は千利休切腹を死ぬまで後悔していたとも言われ、筆頭茶頭後任の古田織部に、千利休好みの茶屋や茶庭を作らせ瀬名利休を偲んでいた事実も存在する。
千少庵は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられていたが、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで1594年に許されて、千利休の後妻・宗恩の連れ子である千少庵と、千利休の娘・お亀との間に生まれた子・千宗旦が京千家再興。豊臣秀吉は千利休から召し上げた茶道具を千宗旦に返した。
その後、千宗旦の次男・千宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・千宗佐が「表千家不審庵」を、四男・千宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こし、千利休の茶湯作法は現代まで残っているのだ。

処刑では無くなぜ切腹が許されたのか?

切腹と言うものは「武士」に許されるものです。
一般的に商人や町人、武士でも極悪人を罰するのであれば「処刑」となります。
千利休は茶人であり商人とされますが、では、なぜ「切腹」になったのでしょう?

答えは簡単です。
千利休は「武士階級」とみなされていたからです。

実は、千利休は「甲冑」(当世具足)も所持しており、表千家にその千利休の甲冑が伝わっています。

九州攻めや・小田原攻めにも千利休は赴いていますが、これは単に茶をいれるために赴いたのではなく、豊臣秀吉の家臣である「武士」として出陣した訳です。
豊臣秀吉の一番の目的としては、物資が緊急に必要となった場合、特に鉄砲・火薬・鉛などが、すぐに手配可能な家臣が側にいれば、なにかと便利だと言う理由もあったと存じます。

千利休は直接、合戦に参加する事は免除されていたようですが、いつ敵の忍びから襲撃を受けるかも分からない訳ですので、丸腰で戦場にて滞在しているのは危険な行為でもあります。
もっとも、堺の商人は「武装」もしていた訳ですので、千利休も、もともと「武士階級」であったと言う訳ですが、江戸時代のように身分が固定化されていないので、その境界線はあやふやです

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  1. 2015年 12月 27日

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