島津義久とは~耳川の戦いの詳細や富隈城と国分城も


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富隈城(とみくまじょう)は、豊臣秀吉の九州平定により、1595年に隠居することになった内城主・島津義久が築いた標高32mの平山城です。

島津義久(しまづ-よしひさ)は、伊作家・相州家の系列となる島津貴久の嫡男として1533年2月9日に伊作城(亀丸城)にて生まれました。幼名は虎寿丸です。
母は継室である入来院重聡の娘・雪窓夫人となります。

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島津義久の弟には島津義弘、島津歳久、島津家久がいますが、いずれも武勇の誉れ高い武将で、1550年に父・島津貴久が、鹿児島の内城を築城したのち、この兄弟が戦国時代の島津家全盛期を築きます。

1554年、島津義久(22歳)、島津義弘(20歳)、島津歳久の3人は、祁答院良重が拠る大隅・岩剣城の戦いにて初陣を果たし、加治木城主・肝付兼演を救援しました。
そして、父・島津貴久と蒲生氏を降伏させています。

1566年に父が隠居したことにより、島津義久が家督を相続し、島津家第16代当主となると、続けて、相良氏、菱刈氏、東郷氏、入来院氏などを駆逐して薩摩を統一します。

1572年5月には九州の桶狭間とも呼ばれる、木崎原の戦いにて、伊東祐安ら3000の敵に対し、島津義弘は300を率いて伏兵などを駆使し、尚且つ先陣を切って戦いました。
総大将・伊東祐安の他、伊東祐信、伊東又次郎など名のある武将160名を討ち取り、少ない兵数ながらも大勝利を納めています。
そして、1573年には大隅の統一も果たしました。

1576年には、伊東義祐の高原城を攻略し、野尻城主・福永祐友を調略するなど「惣四十八城」を誇った伊東家の支城を次々に降伏させました。
そのため、1577年、伊東義祐は佐土原城・都於郡城を引き払い、ついに豊後・大友宗麟を頼って逃亡。
島津義久(45歳)は、日向も手に入れ三州統一を成し遂げています。

耳川の戦い

伊東義祐を保護した臼杵城主・大友宗麟は、1578年3月15日に3万~4万の大軍を田原親賢を総大将に日向へ派遣します。
4月には土持親成の縣松尾城を攻略し、牟志賀(延岡市無鹿町)に布陣したため、まずは、山田有信が守備する新納院高城に、島津家久が入りました。
新納院・高城は僅か3000にて守っていましたが、天嶮の要害であったため、大友勢は兵糧攻めを行いました。
そして、大友宗麟も牟志賀の本陣に入っていますが、一進一退の攻防が続いたと言います。

そのため、島津義久(46歳)は本隊2万~3万を率いて佐土原城経由で11月12日に、根白坂上(陣之内)に到着。
そして、木城町下鶴付近で、耳川の戦い(高城川原の戦い)となりました。

島津勢の参加武将は、島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久、島津以久、伊集院忠棟、鎌田政近、村田越前、本多親治、山田有信、肝付兼寛らが参戦し、北郷久盛が討死。
大友勢は田原親賢を総大将に、田原親貫、臼杵鎮続、桑野春元、三池鎮実、星野鎮豊、木付鎮秀らが布陣していましたが、臼杵鎮続、田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯惟教、軍師の角隈石宗、斎藤鎮実、吉弘鎮信と言った有力武将がことごとく討死すると言う大敗北を決しました。

これは、大友宗麟が後方40kmも離れた牟志賀で指揮しており、高城を攻める大友勢の本隊に大友宗麟がおらず、団結力が伴っていなかったところ、田北鎮周が無断で島津勢を攻撃開始したのが発端です。
勝手に合戦が始まってしまい、無秩序に攻め始めた大友勢を相手に、島津義久は「釣り野伏せ」戦法にて追撃し大友勢を、伏兵にて迎撃したのです。
高城からは島津家久と山田有信が側面攻撃を掛けました。

敗報を受けて、11月12日夜には大友宗麟も延岡から臼杵へと退却開始。
敗走した大友勢は約25kmも追撃を受けて、増水した耳川でさらに多数の水死者を出しました。

多くの武将を失った大友家は斜陽の一途を辿り、島津家は九州最大の戦国大名に駆け上るキッカケとなったのが、この耳川の戦いと言う事になります。

1584年には、佐賀城主・龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた、日野江城有馬晴信が、八代に布陣していた島津義弘・島津家久に援軍を要請します。
これを受けて、島津義久(52歳)は、末弟・島津家久(38歳)を総大将として島原に派遣しました。

島津家久は、有馬勢と合わせても5000余りでしたが、龍造寺勢2万5千(一説には6万)に対して、沖田畷の戦いを見事に制し、ほどなくして龍造寺家は島津の軍門に降ることとになりました。
沖田畷の戦いは下記にて詳しく解説させて頂いておりますので、ここでは省きます。

有馬晴信と日野江城~沖田畷の戦いでは南蛮防衛での最新兵器を駆使か?

島津義久は、肥後の隈部親永・隈部親泰父子、筑前の秋月種実らがを次々と服属・和睦させて行きますが、この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めます。
そして、島津義久の元には、これ以上、九州での戦を禁じる惣無事令が、豊臣秀吉から届きました。

島津家でも議論となりましたが、島津義久はこれを無視する形で、九州統一へと軍勢を進めました。

島津忠長・伊集院忠棟ら2万が、筑後の筑紫広門を攻めて、秋月種実の仲介により軍門に組み込むと、筑後の原田信種、星野鎮種、草野家清、豊後の城井友綱、長野惟冬にも降伏。
すると、残りは高橋紹運岩屋城立花宗茂の立花城、高橋統増の宝満山城のみと言う状況になりました。

しかし、岩屋城の戦いでは、なんとか高橋紹運を破るも、島津勢は上井覚兼が負傷、死者数も1000を越える損害を出したため、島津軍は撤退しますが、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還されています。

そして、島津義久も志賀親次が守る岡城の戦いで手間取り、島津家久も利光宗魚が守る鶴賀城を攻めにて利光宗魚が討死するも、なおも抵抗を受けるなど膠着状態となります。
そうしているうちに、1586年12月、大友勢の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親長宗我部信親・十河存保ら総勢6000の豊臣勢先発隊が大分に上陸しました。

島津家久はこれを迎え撃ち、戸次川の戦いとなると、釣り野伏せ戦法を用いて、豊臣勢を圧倒し、長宗我部信親・十河存保・戸次統常を討ち取るなど大勝利を遂げています。
そして、大分・府内城を落とした島津家久は、大友宗麟が籠城する臼杵城を包囲しました。

しかし、1587年に入ると、豊臣秀長が率いる毛利輝元小早川隆景黒田官兵衛宇喜多秀家など総勢10万が豊前に到着し進軍を開始します。
そのため、島津義久は島津家久らに撤退命令を出しますが、鶴崎城の戦いにて妙林尼に島津勢は手痛い追撃を受けるなどしました。

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆の多くは、豊臣勢に降伏し、豊臣秀長と藤堂高虎宮部継潤・尾藤知宣らは、島津軍きっての勇将・山田有信ら1500が籠る高城を包囲します。

島津勢は後詰(援軍)として、島津義弘・島津家久ら3万5000で攻め寄せ、根白坂の戦いとなりましたが、8万の豊臣勢には叶わず、島津忠隣、猿渡信光が討死するなど甚大な損害となりました。

徹底抗戦を主張する島津義弘・島津歳久・新納忠元・北郷時久らを説得し、剃髪して龍伯と号した島津義久(53歳)は、木食応其の仲介を受けて、1587年5月下旬に豊臣家に降伏しました。
川内の泰平寺に入った豊臣秀吉に対して、島津義広は伊集院忠棟と共に会見に挑み、正式に降伏しています。

豊臣秀吉は、島津義久に薩摩一国を安堵。
島津義弘には大隅一国、島津義弘の子・島津久保に対しては日向国諸縣郡を与えています。
また、伊集院忠棟には豊臣秀吉から直々に、大隅のうち肝付一郡が宛行われました。

なお、島津歳久の家臣・本田四郎左衛門が、豊臣秀吉の駕篭に矢を射かけると言う事件も起こしています。

そして、豊臣秀吉は、島津義久の弟・島津義弘を評価しており、1588年には島津義弘に対して、羽柴の名字と豊臣の本姓を与えています。
遅れる事、1590年になると、ようやく島津義久に対して、羽柴の名字のみ与えました。

このように、島津家と豊臣政権との折衝には、主に島津義弘が当たっており、豊臣秀吉に気に入られた伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあったようです。

朝鮮攻めでも、島津歳久はあまり協力的ではなかったため、秀吉の怒りかい首を要求してきたため、島津義久は島津歳久を討伐する形を取っています。

1594年、島津義久(60歳)の領地は、大隅や日向となり、鹿児島周辺は島津義弘に与えられ、豊臣秀吉は、島津家の実質的な当主を島津義弘として扱っています。
もちろん、島津家の分断を図る豊臣秀吉の策であったことは間違いないでしょう。

こうして、不本意な隠居をすることになった島津義久が築いたのが、富隈城(とみくまじょう)と言う事になります。

乱積みではありますが、肥後国八代の種山の石工が築いたとされる石垣も残されています。

通常、島津家の城は、麓に屋敷があっても、裏山に後詰めの山城がある形式ですが、この富隈城は単なる標高32m、比高27mの平山城となっており、防御面は弱いです。

これは、豊臣家に対して恭順の意を表したとも、圧力があったとも言われていますが、単に丘の上に屋敷があっただけの城でした。

現在は石垣のみが残っており、北側には公園があり、南東隅の石(下記)は加藤清正が寄贈したものと伝わります。

城下の浜之市の港を整備すると商人を招いて、江戸時代には坊津、山川など、薩摩では有力な港町へと成長しています。

島津義久は、豊臣秀吉の死、関ヶ原の戦いなど、この富隈城で見てきました。

島津義久の正室は島津忠良の娘・花舜夫人で、継室は種子島時尭の娘・円信院殿です。

関ヶ原では、島津義弘が当初、東軍に参加しようとするも、成り行きで西軍に加わった為、島津家は危機に陥りましたが、薩摩に残っていた島津義久は嫡子とになっていた島津忠恒(島津家久)を派遣して、徳川家康に謝罪しています。

この島津忠恒は、島津義久の実子ではなく、娘・亀寿(じめさあ)と結婚させて婿養子として迎えた、弟・島津義弘の3男です。
ともあれ、結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵となりました。

そして、島津義久は1602年に島津忠恒に家督を譲って正式に隠居し、隣の国分に新しい城・国分城(舞鶴城)を築いて1604年に移ったため、富隈城は僅か10年ほどで廃城となっています。

下記は舞鶴城(国分城)です。国分新城、国分御屋形とも呼ばれます。

現在は国分小学校及と国分高校がありますが、学校の南側に水堀跡の水路が残っており、小学校側には石垣も残されています。

島津義久は1611年1月21日、国分城にて病死しました。享年79。


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富隈城と国分城(舞鶴城)がある場所は下記のオリジナルGoogleマップにて示させて頂いております。

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