武田信玄とは~智力溢れる戦略と人物像・性格は?


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甲斐の虎と呼ばれた、戦国大名・武田信玄

甲斐源氏の武田信玄でしたが、甲斐国を統一した武田家でも、下剋上の世の中では、他の源氏の家系や親戚筋が権力を狙ったりと、闘争は絶えません。
実際に、武田信玄の曽祖父に当たる武田信昌の代から、果てしない権力争いが続いていました。
そこに合戦上手である武田信玄の父・武田信虎が登場します。
武田信虎はも独立大名とも言える郡内(都留市)の小山田氏とも婚姻関係を結び、一門衆に加えるなど有力武将と婚姻を結んだりと、または巧みな手腕を発揮し合戦で勝利し、今川家とも和睦し武田家の地位を固めて行きました。
現在の甲府に、躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させたのもこの武田信虎です。

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そして、武田信虎は、武田信玄が誕生した翌年になる1522年に、甲斐国を統一することに成功。ちなみに、この年、世界遺産に指定された富士山に富士登山も行っています。

このように、戦国時代に活躍する甲斐・武田氏の基礎は、武田信玄の父・武田信虎が築いたと言えるでしょう。


 
しかし、武田信玄が賢く利口なのを嫌い、武田信虎は、武田信玄の弟・武田信繁を、次期当主にと考えるようになります。
戦国時代においては、自分の親でも、自分の子供でも、身内はいつか自分の権力を脅かすものだ と言うのは常識とも言えます。
その点、武田信虎は自分の家臣を信頼し、嫌ってはいたものの武田信玄を甘く見ていたのかも知れませんが、武田信玄の母・大井の方の熱心な教育方針によって、当時としては高い水準の教育を武田信玄は受けていたことも大きかったと存じます。

21歳になった武田信玄(武田晴信)は、1541年6月、武田重臣の板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌らの協力も得て、父・武田信虎を駿河に追放。いわゆるクーデターを起こし、父を追放して武田家の家督を相続したのでした。
例えば、斉藤義龍、大友宗麟、(伊達政宗)などは、父を殺害し家督を継いでいます。また、織田信長、伊達政宗、今川義元毛利元就最上義光などは、兄弟との権力争いが発生し、その結果、兄弟を殺害に追い込んでいます。
このように、身内を静粛する事も多かった戦国時代ですが、武田信玄は父を追放したものの、現在のお金で1億円とも言われる生活費を、追放先の今川家に毎年送金しており、弟・武田信繁と武田信玄は仲が良かったとされ、武田家では父も兄弟も殺さずに、万全な体制で武田家臣を統制することに成功したのです。
その礎となったのは「合議制」です。
武田信玄は、武田信虎を追放する時から家臣との会議を開催し、皆の意見も取り入れながら国政を運営しました。
重臣たちが意見を述べ終わると、武田信玄は意見をまとめ上げ、全員が納得の行く決定を下したと言われています。

石高が決して高くない甲斐の国ですから、国力をつけるには領土拡大しかありません。
武田信玄は、積極的に合戦を仕掛け、信濃・諏訪と勢力を拡大させて行き、功績のあった者に所領を加増しました。
それに武田家臣も良くこたえて、一生懸命戦ったので、武田の強さは世に知れ渡たり、有名な武将が多く存在したのです。

要するに、成長戦略を取り、常に領土拡大を図ることで、家臣らの結束を固めて行ったのだと考えられます。かと言って、戦いばかり行っても、家臣や領民の不満は増えます。
このバランスはとても重要である為、武田信玄は「負けない戦」を取る戦略・戦術を駆使しました。
とにかく、侵攻作戦での行動はとても慎重です。三ツ者・素破と呼ばれる偵察要員を各地に派遣して情報収集させ、事前に敵情を充分に探らせました。時には、敵の武将を寝返らせ無血で城を占領するなど、戦と言えども、三増峠の戦いのように敵と全面衝突する事がそんなにありません。
武田信玄は生涯で70回以上の合戦を行いましたが、敗北はわずか3回と言えます。その3回は、すべて村上義清に敗れていますが、最終的には村上氏の諸将と内通したり降伏させ、攻略に成功しています。
現代でも同じですが、戦争に勝つため、負けない為には「情報」こそが最重要事項です。敵の人数、敵の武器・能力、敵の動きなどが分からない事には、作戦を立てる事すらできません。
現在の日本でも周辺国を取り巻く情勢は、大変危惧されておりますが「情報」で敵を勝る事ができなければ、いくら優秀な武器を駆使しても、負けてしまいます。

有名な「川中島の戦い」も、上杉謙信と、合計5回戦っていますが、にらみ合いで終わる事も多く、大きな戦闘になったのは、たったの1回だけです。
武田信玄は弟の武田信廉を影武者にするなど、進軍中でも用心深かく、とにかく負けない戦をしました。
でも、負けた戦から学び、どうすればよいのかと、成長したからこそ、名将・武田信玄があったとも言えます。
このように負けないことが、武田軍を天下最強と呼ばせ、無敵だった織田信長でさえ「武田軍の強さは天下一」と武田信玄を恐れていたのを、宣教師のルイス・フロイスの記録からも伺えます。

そして、農民だった高坂昌信を登用するなどや、武田信虎から追放されていた有能な武将・内藤昌豊を呼び戻したり、浪人だったと考えられる真田幸隆原虎胤であったり、素性の怪しい山本勘助を家臣に加えたり、小山田信繁、馬場信春山県昌景などを実力主義で重用するなど、家臣登用・出世は「実力」を評価した点も、織田信長と同じように、当時としては斬新的な手法だったと考えられます。
もちろん、相模の北条氏や、駿河・今川氏、越後の上杉氏とも巧みに外交を行い、戦国の世を生きたのです。
しかし、織田信長のように軍勢を「職業軍人化」するまでは考えが至らなかったようで、結果的に終始、武士3、農兵7と言った割合での軍勢であり、田植えや稲刈りの季節に出陣することはできず、この点が織田信長と大きな違いと言えます。

戦争を行うには莫大な資金が必要です。そして、その資金で強固な城を築くくらいなら、外に攻めようと言う成長戦略を用いた為、武田信玄の時代には防御に徹した城が甲斐にはありませんでした。
資金確保の為、国内政策としては、甲府で催し物を開催して人を集めたりすることで商業を発達させ、金山を開発したり、甲斐国内の河川を整備し堤防「信玄堤」を築くなど、領内政策も実施し、1547年には、分国法である甲州法度も定めました。

堤防は新田開発をし、石高を上げる為だけと思われがちですが、実は甲斐国は、どこに軍を出すにしても、河川から近い土地に街道があります。
要するに、川が氾濫すると、軍の行動が制限されてしまうので、洪水が起きにくいように整備したと言う側面もあります。
日本で初めての金貨「甲州金」を生んだ金山も、武田勝頼の時代には枯渇し、武田信玄の死後、武田家は資金が乏しくなり資金繰りに苦しんだのも事実です。
しわ寄せは領民に及び、新府城を築くころになると、甲斐の民は重税に苦しんでいました。

さて、父を追放した経緯のある武田信玄でしたが、自分の子供で嫡男の武田義信を謀反の疑いとして、1567年には死に追い込みました。武田義信の傅役だった飯富虎昌らが信玄暗殺を企てたと言う容疑です。
また、敵の3000もの生首を籠城する城の周りに囲んだ話や、捕虜を金山で強制労働させたり、女・子供を人身売買したと言う話もありますが、このような極悪非道は他の大名でも行っているため、武田信玄に限った事ではありません。

1570年、将軍・足利義昭からの書状を受けた武田信玄は、織田信長の義弟である浅井長政朝倉義景松永久秀らとともに「信長包囲網」を形成。ついに、織田信長を討つべく、1572年10月3日、西上の軍30000を発します。
三方ヶ原の戦いで、織田信長と同盟していた徳川家康を野戦に引きづり出し撃退するも、武田信玄の病状が悪化し、甲斐への帰路についていた1573年4月12日に、駒場にて53歳の生涯に幕を閉じ、あとを武田勝頼に託したのです。
天下統一を目指す織田信長にとって、最大の難敵であった武田信玄が、直接決戦を挑む前に消滅したのでした。
しかも、跡取りとして目されていた嫡男・武田義信を静粛していた為、側室の子・武田勝頼が実質的に武田家を継いだ事も、家臣団には大きく影響したものと考えられます。
しかし、織田信長も、武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼした3ヶ月後に、明智光秀により本能寺の変で命を落とすのです。
 
72戦49勝3敗20分

武田信玄は、
「戦の勝利は、50~60%を上とし、70~80%を中とし、90~100%を下とする」
と、家臣に説いていたと伝わります。
下記はJR塩山駅の北口にある武田信玄の像です。

圧勝してしまうと、兵も調子に乗ってしまうし、敵も軍事力を増強してしまうので、その後の事を考えると、引き分けか、ちょっと勝った程度が適切なのだと言う考えからです。
まさに、1969年の三増峠の戦いは、この50%~60%の勝利だったと言えます。
この武田信玄の考えを聞いた上杉謙信は「自分が信玄に及ばないのは、まさにこの点だ」と、正直な所を述べたと言われています。

優れた情報収集能力を駆使し、慎重に分析した結果「絶対に勝てる」と確信を得ての出陣であるがため、出陣する前から勝負が決まっていたのが武田信玄の戦いと言えます。
このように、家臣・領民を大切にし、人心掌握に力を尽くし、戦上手であり、領内政策も怠らず、戦国最強と言われた武田家臣団を統率した武田信玄は、やはり名将中の名将と言えるではないでしょうか?

上記写真は、甲府の武田信玄の墓

武田信玄のトイレは広かった

武田信玄の軍事行動は、とにかく「慎重」でしたが、もともと慎重な性格なのか?武田信玄が躑躅ケ館で使用していた自分専用のトイレは、広かったと言います。
甲陽軍鑑によると「御用心のために京間六畳敷きの閑所(トイレ)をつくった」とあり、京間六畳と言うのは現在の6畳よりもかなり広いそうです。
なぜ、トイレが広いかと申しますと、狭いトイレでは壁から「槍」で突かれると簡単に命を落としてしまうと言う警戒からであり、またトイレの最中に襲撃された場合でも、広ければ刀を振って応戦できると言うことらしく、ここでも武田信玄が大変慎重であったことが伺えます。

ちなみに、トイレの床は「畳敷き」であり、四隅には香炉を置いて、朝・昼・晩の三交代で小姓らに番をさせ、香の薫りを絶やさなかったとされ、トイレ・コロンの元祖とも言われています。
また、排泄後に「鈴」を鳴らすと、風呂場の残り湯が、トイレの建物下から樋で送られると言う、水洗トイレであっただけでなく、エコな水のリサイクル水洗トイレだったと言うので驚きです。

さらに、この閑所(トイレ)では、独りで数々の作戦を練ったとされ、トイレの入口に、国名と郡名が書いてある箱が設置されていたと言います。
また、箱の中には当該地域の訴訟判決に用いる原案も入っていたとされ、武田信玄愛用のトイレは山には草木(臭き)が絶えぬと言う所から「甲州山」と呼ばれたそうです。

以上、武田信玄についてご高覧賜りまして、誠にありがとうございました。

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