小早川秀秋(金吾、羽柴秀俊、豊臣秀俊)~関ヶ原では裏切るも、実は領民から慕われた武将


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 小早川秀秋(こばやかわひであき)は1582年、近江の長浜で誕生した。幼名は辰之助。
 父は木下家定で5男。父・木下家定は、豊臣秀吉の正室・北政所(おね、ねね、高台院)の兄で、この頃、既に豊臣秀吉の家臣として働いていたものと推定できる。
 母は、豊臣秀吉の家老・杉原家次の娘。

 小早川秀秋は、1585年、4歳の時に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子となって、長浜城にて北政所(おね、ねね、高台院)の養育を受けた。
 
 元服すると木下秀俊と改名。のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。通称は金吾。

 1588年4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄など6大名が連署した起請文の宛所が、金吾殿(羽柴秀俊)とされた。
 またこの時、豊臣秀吉の代理として天皇への誓いを受け取っている。

 1589年、豊臣秀勝が領地没収となると、羽柴秀俊(小早川秀秋)は、丹波・亀山城10万石を与えられた。

 1591年、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜されている。

 1592年、従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し「丹波中納言」と称され、関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者とも考えられていた。

 1593年、豊臣秀吉と茶々(淀殿)との間に、世継ぎである豊臣秀頼が生まれると豊臣家の親類の状況は一変する。

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 豊臣秀吉は豊臣秀次を後継者と決めると、自分の養子を豊臣家から出す作戦を考え始めた。
 豊臣秀吉は毛利家の本家である毛利輝元に実子がいなかったことから、豊臣秀俊(小早川秀秋)13歳を毛利輝元の養子にすることを提案。北政所(おね)から相談を受けた黒田官兵衛(黒田孝高)が提案し生駒親正が使いになったとも?

 毛利家の行く末を懸念した小早川隆景は、毛利元就の四男・穂井田元清の子である毛利秀元を、毛利家の後継ぎとして豊臣秀吉に紹介した上で、豊臣秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出た結果、了承を得た。

 これにより、1594年秋、豊臣秀俊は小早川隆景と養子縁組し、小早川秀俊と改名した。この時、正室として毛利輝元の養女(古満姫、長寿院)と結婚している。
 養父・小早川隆景の官位は中納言となり、以後、豊臣家の五大老として君臨することになる。

 1595年、豊臣秀次事件が起こると、小早川秀俊(小早川秀秋)は連座して丹波・亀山の領地を没収された。
 その為、小早川隆景は主な家臣を連れて小早川家の本貫である安芸三原へ隠居し、家督を小早川秀秋に譲った。
 その際、小早川隆景は豊臣秀吉から筑前に50000石という破格の隠居料を拝領した。

 小早川秀秋は筑前・名島城主となり、30万7000石を相続。豊臣秀吉は家老として、平岡頼勝、稲葉正成を付けている。
 小早川家の家督相続にあたっては付家老の山口宗永が、小早川隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、検地を実施して領内石高を定めた。
 
 1597年2月1日、慶長の役では朝鮮出兵の為、小早川秀秋は日本軍の総大将として出陣(初陣)を命じられ、5月22日に大坂より筑前へ入ると、6月29日に名護屋城を発ち、7月17日に釜山へ上陸した。
 当初、釜山周辺の守備を任され梁山倭城の普請を担当した。

 1597年6月、小早川隆景が死去すると、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏らの家臣が、小早川秀俊(小早川秀秋)に仕官した。
 朝鮮在陣期に小早川秀俊から小早川秀秋へ改名している。

 1597年12月4日付で帰国命令を受け、1598年1月29日、小早川秀秋は帰国の途についた。
 しかし、家臣の寺沢正成ら500は引き続き釜山で守備し、5月に帰国。

 帰国した小早川秀秋は、豊臣秀吉より越前北ノ庄15万石に転封させられた。
 石田三成が「大将の器にあらず」と手厳しい評価を豊臣秀吉に進言したものと考えられる。
 旧小早川領は太閤蔵入地となり石田三成が代官となっている。
 大幅な減封であった為、多くの家臣を解雇しており、長い間家老であった山口宗永らが小早川家を離れた。
 小早川隆景以来の家臣・高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣された石田三成の家臣として吸収されている。

 1598年8月、豊臣秀吉が死去し、豊臣政権が五大老による合議で運営され始めると、豊臣秀吉の遺命として1599年2月5日付けで、徳川家康ら五大老連署にて知行宛行状が発行され、旧領の筑前名島30万7000石へ復帰した。
 小早川秀秋は、旧領に復帰すると農民保護対策を取り、文禄慶長の役で疲弊した農村の復興に努めた。

 1598年9月頃、小早川秀秋は正室以外の女性との間に子が産まれた事もあり、正室・古満姫(長寿院)とは離縁。

 ほどなく関ヶ原の戦いとなったが、小早川秀秋は開戦当初から西軍を離反することを決めていたと考えられる。
 説得したのは山岡景友(山岡道阿弥)、板部岡江雪斎黒田長政など色々な武将の名が出てくる。

 1600年、関ヶ原の戦いでは当初、石田三成の要請を受けて西軍として伏見城の戦いに参加。
 その後、15000と言う西軍の中でも大軍を率いて、関ヶ原の南西にある松尾山に到達すると、既に陣を敷いていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣した。

 小早川秀秋の家老である平岡頼勝、稲葉正成が、東軍の黒田長政に通じており、徳川家康は合戦前日に目付け役として奥平貞治、黒田長政は家臣・大久保猪之助を小早川陣に差し向けている。裏切りのお目付け役はあまり例がない。

 その為、午前8時ごろに始まった合戦を、小早川秀秋は午前中、傍観していた。目前の西軍が疲れるのを待ったものと推測できる。
 そして、小早川秀秋(19歳)は、徳川家康の催促に応じて松尾山を下り、石田三成を裏切り西軍の大谷吉継の陣へ攻撃を開始した。
 この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は裏切りに納得できず、独断で撤退している。

 大谷吉継勢は平塚為広戸田勝成らが奮戦したが、同じく東軍に寝返った脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保らの攻撃もあり、大谷勢は壊滅。
 これにより西軍は敗走し、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡した。

 その後、小早川秀秋は石田三成の本拠・佐和山城攻めなどにも参戦している。

 徳川家康は戦後の論功行賞で、小早川秀秋に備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石を与え加増・移封した。
 なお、戦後まもなく、名前を小早川秀秋から小早川秀詮へと改名している。

 小早川秀秋は岡山城を改築するとともに、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を構築。また、領内の検地実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めたと言う。
 しかし、間もなく家老の稲葉正成が出奔し、同じく家老の杉原重政が村山越中守に斬殺されるなどの事件も勃発。
 小早川秀秋自身も関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年に早世した(享年21)。

 この早い死去に関しては、石田三成の亡霊に怯えたとも、岡山在城時の乱行を記したものもあるが、詳しくは不明。
 関ヶ原の合戦に大谷吉継が自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説もある。

 小早川秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。徳川政権初の無嗣改易となった。

 東京国立博物館には小早川秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。

主な家臣

山口宗永 – 丹波以来の筆頭家老。越前減封時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで討死。
松野重元 – 丹波以来の家臣。関ヶ原の戦いにおいて小早川勢より離脱。
稲葉正成(稲葉通政) – 岡山転封後に逐電。後妻は春日局であり、後に大名となる。
平岡頼勝 – 秀秋の死後浪人となり、徳川家康に召しだされて大名となる。
長崎元家
西部和泉守
杉原重政- 岡山転封後に上意討ちに遭う。
伊藤重家
堀田正吉
志賀親次 - 関ヶ原後、福島家を経て肥後細川家に仕官。
溝江長氏 – 朝倉家家臣。主家滅亡後は信長に下り秀吉に属す。後に小早川秀秋の臣に。
波部又右衛門 - 丹波の土豪から家臣となり、筑前入部に従う。
木下延貞 – 小早川秀秋の実兄で客分。1602年10月の同年同月に、弟の秀秋同様謎の死を遂げる。
滝川辰政 – 滝川一益の子。岡山転封後、姫路藩池田家に仕官。

ちなみに、小早川秀秋の墓は岡山の瑞雲寺となります。
残された小早川秀秋の多くの家臣は、関ヶ原の裏切りから仕官先が、なかなか無かったとされ「小早川浪人」と呼ばれています。
例え、仕官できたとしても、仕官先でも旧家臣からも冷たい視線を浴びさせられていたのかも知れません。

長崎基家(長崎元家)について
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コメント

  1. 当時のカルテを見るとアルコール依存症だったみたいです。心も身体もボロボロになって21歳で死ぬし、後世の言われ方もボロボロだし・・でも最近裏切り説を否定されるようになったためか関ヶ原の売れ筋お土産ランキングでは数ある武将を抑え上位を誇っております。西軍が元来の城の機能を手入れしなおしてまで大事にしようとした松尾山を乗っ取ったところも優れてますね(家臣の進言が大きいとは思いますが)。

    • 高田哲也
    • 2015年 8月 15日

    寺田さま、いつもコメントありがとうございます。
    関ヶ原でのお土産、人気者なのですね?知らなかったです。ありがとうございます。

  1. 2015年 12月 22日

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