佐久間信盛~退き佐久間も最後は追放される運命に


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 父は山崎城主・佐久間信晴、母の名は不明。
 佐久間信盛は、1528年生まれとされ、若いころから織田信秀に仕え、のちに織田信長が幼少だったころから重臣として仕えた。

 家督相続問題でも一貫して織田信長を支持して、織田信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせた他、織田信長の弟・織田信行の謀反の際には、稲生の戦いで戦った。
 その功により、織田信長家臣団の筆頭格として扱われ「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)と称されたと言う。

 1560年、今川義元との桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、恩賞とした鳴海城を与えらている。
 1567年、徳川家康の長男・松平信康に織田信長の娘・徳姫が嫁ぐ際には、岡崎城まで同行し、徳川家康の領地と接する西三河を領した。
 1568年、近江の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を陥落させるなどの戦功をあげ、長島一向一揆や越前一向一揆戦でも活躍。
 織田信長の上洛後は、畿内の行政担当者の1人に選ばれ、京都の治安維持に努めた他、大和の松永久秀を調略している。
 浅井長政が織田信長に敵対すると近江・永原城を守備して、柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)し、姉川の戦い、志賀の陣にも参戦。

 比叡山焼き討ちでも武功を上げ、1571年11月には近江の栗太郡を与えられた他、松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当し、松永久秀と筒井順慶を和睦させることに成功した。

 1572年、三方ヶ原の戦いでは、滝川一益・平手汎秀・水野信元と共に3000の兵を率いて、浜松城・徳川家康勢8000の援軍に赴いたが、佐久間信盛は27000の武田信玄勢を目の当たりにすると、ほとんど戦わずして退却した為、同じく援軍で赴いていた平手汎秀が討死するなどした。

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 1573年8月、信長公記によると、一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景の追撃を怠ったとして、織田家の家臣は織田信長の叱責を受けた。
 その際、佐久間信盛は涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、織田信長の怒りに油を注いだとされる。

 1573年11月、足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を討伐した(若江城の戦い)。
 1575年、高屋城の戦いや、武田勝頼との長篠の戦いにも出陣。

 1576年、明智光秀細川藤孝荒木村重など畿内の織田勢を動員した天王寺の戦いで、本願寺勢に敗れて塙直政が戦死すると、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。
 当時、織田家中で最大規模の軍勢であったが、佐久間信盛は積極的に攻撃しなかった為、戦線は膠着した。

 1577年、紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも出陣。
 1580年、織田信長自らが朝廷を動かして本願寺顕如と和睦し、本願寺との10年の戦いが終わると、1580年8月、織田信長は、佐久間信盛に対して19ヶ条にわたる折檻状を自筆にて書き、楠木長安・松井夕閑・ 中野一安の3人を使者として使わせ、佐久間信盛は剃髪して宗盛と号し、嫡男・佐久間信栄と共に高野山へ蟄居した。
 数日後には林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝も同様に追放されている。

 その後、高野山すら追われて、熊野に逃亡。高野山を落ちる際の従者は2~3名で、十津川山中武蔵の里に到達した際には1名きりだったという。
 なお、この最後まで付き従った小者は、後に佐久間信栄が赦免されると、小者の身分から士分に抜擢されたと言う。

 1582年1月16日、十津川温泉で病気湯治中に死去。享年55。

 その直後、佐久間信栄は織田信忠の家臣として帰参を許され、明智光秀の本能寺の変後は織田信忠の弟・織田信雄に仕え、その後、豊臣秀吉茶人となり、大坂の陣後は徳川秀忠に御咄衆として武蔵国児玉郡と横見郡に3000石を与えられた。
 子孫は旗本として存続している。

 一族の佐久間盛政・佐久間安政は1583年の賎ヶ岳の戦いで柴田勝家勢として戦い、中川清秀を討ち取ったが、戦後捕らえられ、佐久間盛政は豊臣秀吉によって誅殺され、弟の佐久間安政は許されて蒲生氏郷に仕え、蒲生氏郷の子・蒲生秀行が減封になった段階で豊臣秀吉に仕えている。
 

佐久間信盛への折檻状の現代語訳

 佐久間信盛・信栄親子ともども天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。
 世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり口惜しい思いをしている。

 何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに石山本願寺を大敵と考え、戦もせず、調略もせず、 ただ城の守りを堅めておれば、幾年かもすればゆくゆく信長の威光によって引き下がるであろうという見通し だったのか。
 武者道というものはそういうものではない。
 勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであのに、一方的な思慮で持久戦に固辞し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

 明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、羽柴秀吉の功労も比類なし。
 池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
 これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。

 柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春、加賀へ侵攻し平定した。

 武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るのに、五年間それすらない。

 信盛の与力・保田知宗の書状では本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散する であろうろあり、信盛親子も連判している。
 今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場を かわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないか。

 信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
 三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
 これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようともこれほど落ち度を取ることはない。

 水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。
 水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく、結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断。

 山崎の地も同様で信長の声かかりの者まで追放してしまう有様。
 これも先の刈谷と同じである。

 譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているなら未だいいがそれも無い。
 ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまった。
 これは唐・高麗・南蛮の国(中国・朝鮮・西洋諸国---つまり世界中)まで隠れもないことである。

 先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところものともせず、結局自身の正当性を 吹聴し、あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。
 その口程もなくここに在陣し続けていまの働きの程は前代未聞である。

 甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

 大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。
 その上、いい加減な働きをすれば、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる。

 与力を専ら使役し、他への取り次ぎや戦事にはこの与力で軍役を済まし自身の家臣を使わない。
 領地をただ遊ばせ無駄にしている。(知行人をつけない?)

 信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
 自身の思慮を自慢し穏やかなふりをしても綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

 信長の代になり30年間奉公し信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない。

 信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方が原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。
 しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば その甲斐あって運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。
 あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、 その思慮無きこと紛れもない。

 こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。

 親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

佐久間盛政~鬼玄蕃と恐れられた猛将
柴田勝家~勇猛果敢も温情深い親しみを覚える武将

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  1. 2016年 1月 27日

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